九皿目 水菓子『甘酸っぱい余韻。ミレたん、口溶けは終焉の味』
夜明けの光が、ゆっくりと朱桜国を染めていく。
つい先ほどまで響いていた笛や太鼓の喧噪は、嘘のように消え失せ、路地裏に漂うのは片付けの匂いと、遠くの水音だけ。
宵の祭礼は幕を下ろし、街はようやく“普通の国”へと戻りつつあった。
その静けさの中、ひとりだけ変わらぬ調子で笑う少女がいた。
「ん〜っ、あ〜美味しかった〜♪」
ミレアは頬を緩め、子供のように笑みを零す。
瑞々しい果汁の滴が唇に残り、朝日を受けてきらりと光った。
隣のサクラは、すでに瞼が重く閉じかけていた。
それでも必死に視線だけはミレアを追い、吐息混じりに声をかける。
「ミレア様の胃袋は……まるで無尽蔵ですね。私はもう途中から、お腹いっぱいで……」
「えへへ〜、だって美味しいものなら無限に食べられるもの!」
ドヤ顔をしながら腰に手を当て胸を張るミレアに、サクラは苦笑しながら肩を落とす。
「それだけ召し上がっても太らないなんて……羨ましいです」
サクラは重い瞼を擦りながらそう綴る。
そんな様子を見て、ミレアは小さく首を傾げて微笑んだ。
「……そろそろ帰ろっか。もう、未練はない?」
「未練? ……あ」
サクラは気づいた。
朱桜国にあまり良い思い入れがなかった自分の前で、ミレア様はめいっぱい楽しそうに笑い、はしゃぎ、食べてみせてくれた。
──この国は楽しいところだよ、いいところなんだよ、と。
もしかすると最後になるかもしれない私に、ほんのひとときでも笑顔を残してくださったのだ。
「……おかげさまで。ミレア様、ありがとうございます。この国を……少しは好きになれたと思います」
サクラは深く頭を下げた。
けれどミレアは、ひらりと手を振る。
「ううん、別にいいわそんなこと。わたしが楽しみたかっただけだし」
(……わかっております。ミレア様。私に良い思い出を残すのは、“種まき”なのでしょう?)
サクラは胸の内でそっと呟いた。
最終的には、この方に食べられる。
ミレア様が食べているときほど、愛くるしい瞬間はないのだから。
どんなものでも美味しそうに、誰よりも幸せそうに食べる姿は、自然と頬を緩ませる。
もしお口周りを汚したなら……綺麗に拭いて差し上げたくなる。
「……帰りは、どうなさるのですか?」
サクラがふと尋ねると、ミレアは舌先をぺろりと出して笑った。
「う〜ん、行きしなの竜車は帰しちゃったしね〜」
「……手配し直しますか?」
提案すると、ミレアは肩をすくめて首を振った。
「また数日、あの揺れに揺られるのも飽きるしなぁ」
「…………」
サクラは黙り込む。
眠気のせいで頭が回らない。ミレア様は何を仰りたいのだろう?
瞼が落ちそうになるのを必死に持ち上げ、うっつらうっつらしながらも懸命に脳を動かす。
「サクラ、眠そうね」
ミレアは小さく笑って、ぽんとサクラの手を握った。
「仕方ないから、とりあえず巡回便でも乗ろっか」
巡回便──国や村をゆっくりと移動する馬車のこと。
本来は物資を運ぶために動いているが、人の移動も兼ねている。
安い賃金で乗れる代わりに、乗り心地は値段相応。
「……はい。ミレア様が……そう仰るのなら……」
眠気がついに限界に達し、サクラの身体はふらりと揺れる。
閉じかけた瞼のまま、必死にミレアの言葉を追いかけようとしていた。
(……人間とは、不便なものね)
そんなサクラを見やりながら、ミレアは胸の内で小さく思う。
けれど、その不便ささえ愛おしげに眺めているような笑みを浮かべていた。
「うん、ならそうしよ」
ミレアは無邪気に頷くと、そのままサクラの手を引き歩き出した。
朱桜国を背に、石畳を踏みしめながら歩を進めると──そこに人影が立っていた。
朱桜こと、レンカだった。
王としての威容を保ちながらも、その顔は柔らかかった。
彼女自身、なぜここに来たのかは分からなかった。
見送りのためでも、監視のためでもない。
ただ心のままに歩いていたら、いつの間にか足が門の外へと向いていたのだ。
「……行くのじゃな」
レンカの声は、どこか吹っ切れた色を帯びていた。
その眼差しは、焉龍のことを今は脇へ置き、ただ目の前の小さな存在を見守る者のものだった。
「……レンカ。なんか、スッキリした顔してるわね?」
振り返ったミレアの言葉に、レンカは小さく笑んだ。
「ああ。ミレたんはミレたんだからの。あれこれ気にしても仕方ない──そう考えるに至ったわけじゃ」
「そうなんだ? でも、探求の感情は渦巻いてるみたいだけど」
「……知りたいという気持ちは嘘ではないのでの。それとこれとは、また別問題さね」
レンカの声音は王としての威ではなく、一人の女としての素直な響きを帯びていた。
結局のところ彼女は、国王としてではなく、ただ自分の心に従って見送りに来たのだ。
「……この国は、どうじゃった?」
「よかったわ、すごく。竜王国よりは気に入ったね」
「ほう? ならこの国に籍を置かぬか? ミレたんが望むなら無償で……」
言い切る前に、ミレアが軽やかに口を挟んだ。
「竜王国の近くには、“あの子”が眠っているからね。起きたら労ってあげたいの。そろそろ起きる頃だから」
レンカはその言葉の意味を理解できなかった。
だが追及することなく、ただ目を細めて頷いた。
「……そうか。だがミレたんが望むなら、この国はいつでもそなたを迎え入れる所存であるからの」
「うん! もしその時はよろしくね」
ミレアは満面の笑顔で答え、サクラの手を引いて門の外へ向かう。
巡回便の馬車に乗るための手続きを済ませると、二人の背中はやがて人混みの向こうへと消えてゆく。
朱桜国を後にして。
夜祭りの余韻も、古き文献の残響も──ただ静かな朝の空気に溶けていった。
──────────
巡回便の馬車は、きしむ音を立てながら緩やかに街道を進んでいた。
粗末な座席の揺れは決して心地よいものではない。だが、その中でサクラはすでに夢の中にいた。
ミレアの膝に、頭を預けて。
「……ふふ、よく寝てるわね」
少し強引に膝へと引き寄せたとき、サクラは抵抗する間もなく瞼を閉じた。
緊張と疲労が限界に達していたのだろう。寝息はすぐに整い、微かに口元を緩めていた。
「一日中付き合わせちゃったもんね。ありがと、サクラ」
囁くように言いながら、ミレアはそっとサクラの髪を撫でる。
その手つきはあまりに優しく、慈愛に満ちた母のようですらあった。
外の景色はゆるやかに流れていく。
やがて朝の光が傾き始め、街道を淡い影が覆い始めるころ──。
悪意の影が、静かに近づいていた。
馬車の揺れは変わらず単調だった。
ガタリ、ガタリと車輪が石を噛む音が続くなか、サクラの寝息だけが車内に安らぎを与えていた。
変わらずミレアは微笑みながら、その髪を撫で続ける。
──だが、その時間は長く続かなかった。
ふいに、馬が耳を伏せて嘶いた。
御者の叫び声が上がり、馬車は急停止する。
ガタン、と大きく揺れ、サクラの身体が小さく跳ねたが、眠りはまだ深い。
「しゅ、襲撃だぁーー!!」
御者の声と同時に、馬が荒れ狂うように嘶く。
護衛たちは慌てて武器を抜き、馬車を囲む影へと身構えた。
「……襲撃?」
ミレアは小さく呟き、眠るサクラの耳をそっと手で覆う。
車内では他の乗客たちが小さな悲鳴をあげ、肩を寄せ合うように縮こまった。
「へへっ、命が惜しくば金目の物を出しなっ!」
野盗の一人が馬車へ乗り込み、鈍く光る剣を抜きながら乗客を睨みつける。
鋭い声に乗客たちはさらに怯え、泣き声混じりの悲鳴があがる。
その刹那、ミレアの瞳が盗賊たちを映す。
彼らの感情は、金品だけを求めるものではなかった。
──若い女も、その「金目」に含まれている。
不快感が胸に渦を巻く。狙われるのは自分とサクラ。そう理解するのは容易だった。
「……ん……んん……」
騒音に、サクラが小さく呻き声を漏らす。
外では剣戟の音、叫び声、馬の嘶き。
目の前では野盗が荒々しく声を張り上げる。安眠できるはずもない。
「大丈夫よ。ゆっくりおやすみ」
ミレアは優しく囁き、サクラの頭を膝からゆっくりと持ちあげ、座席にそっと寝かせる。
そしてすっと立ち上がり、盗賊へと向き直った。
「お? なかなかの上玉……」
下卑た笑みを浮かべた盗賊が言い終える前に、力なく糸が切れたように崩れ落ちた。
「騒々しいわね。そんな下卑た視線を向けないでくれるかしら?」
冷ややかに吐き捨て、ミレアはその身体を無造作に蹴り飛ばす。
ごとりと馬車の外に放り出された盗賊は、砂埃をあげて転がった。
そのまま軽やかに馬車を降りるミレアの瞳が、外の光を鋭く弾く。
外では護衛たちが必死に応戦していたが、数は明らかに盗賊の方が多く、押されているのは一目瞭然だった。
馬車から降り立った瞬間、その小さな姿に盗賊たちの視線が一斉に集まった。
数人が互いに頷き合い、獲物を囲むようにじりじりと円を描いて迫る。
「……1、2、3……」
ミレアは小さく数を数え、つまらなさそうにため息をついた。
「どれも成熟してなくて美味しくなさそうね。まあいいわ」
すっと空を掴むように手を掲げ、軽く振りあげる。
その瞬間、囲んでいた盗賊たちの身体から光が弾け、糸の切れた人形のように一斉に崩れ落ちた。
「な、なんだ今のは……!?」
盗賊も護衛も、誰もがその異様な光景に息を呑む。
「さて……お次は」
ミレアが視線を巡らせると、苦戦する護衛の周囲に群がる盗賊たちが見えた。
その魂を、先ほどと同じ要領でひとまとめにして引き抜く。
「う、うえぇ!?」
護衛は助けられたのではなく、敵が一斉に崩れ落ちた異常に声を裏返した。
「く、くそ! なんだアイツはっ!」
恐慌の声が響くなか、一人の盗賊が弓を引いた。
矢が唸りを上げて飛ぶ──が、ミレアの左肩に当たった瞬間、キンっ! と鋭い金属音を残して地面に弾かれた。
「賢しいだけね」
冷ややかに告げると同時に、ミレアは拳を前へ突き出した。
振るわれたのは殴打ではなく、空間そのものを薙ぎ払うような一撃。
矢を放った盗賊の姿は、周囲の土煙ごと綺麗に掻き消えていた。
「ひ、ひぃいっ!」
「ば、化け物だ……!」
異常な光景に、盗賊たちの戦意は見る見るうちに崩れ落ちる。
武器を投げ捨てて背を向ける者、震える手で命乞いをする者。
尚も必死に刃を構える者すらいたが、その眼はすでに恐怖に濁っていた。
「哀れね。他人から奪おうとして、逆に危険に見舞われると逃げ出すなんて」
ミレアの吐き捨てる声は冷たく澄んでいた。
逃げ出そうとした盗賊たちは、息を吹き返した護衛たちの反撃に取り押さえられていく。
戦場に残ったのは、恐怖に支配された呻き声と、なお静かに立つ少女の姿だけだった。
戦場の喧騒は、すでに収束を迎えていた。
地に伏した盗賊たちの一部は護衛に押さえ込まれ、縄で拘束されている。恐怖に染まった顔は、もはや戦意を失った敗者のそれだった。
「た、助けてくれ……!」
「もうしない! 命だけは……!」
縋るような声が次々と上がる。
その場に居合わせた者たちは、一瞬だけ安堵の息を漏らしかけた──が。
ミレアは何の感情も宿さぬ瞳で、静かにその光景を見下ろしていた。
「……奪いに来たくせに」
少女の声は冷ややかで、しかしどこか澄み切った響きを持つ。
「いざ立場が逆になると許してもらえるとでも? それは──あまりに虫がよすぎると思わない?」
そう告げると同時に、彼女の細い指先が空を撫でた。
次の瞬間、拘束された盗賊たちの身体から淡い光が立ちのぼり、叫び声をあげる暇もなく抜け落ちてゆく。
困惑と恐怖にまみれた呻きが途切れる。
やがてその場に残ったのは、魂を失い抜け殻となった肉体だけだった。
ミレアは短く息をつき、ひとつの言葉を残す。
「……これにて終焉よ」
それだけを言い残し、振り返ることなく馬車へと戻っていった。
眠るサクラの安らかな寝顔を守るために、戦場の冷徹を背後に置いたまま。
──────────
「……ん……」
重い瞼を持ち上げると、橙に染まる夕暮れが視界に広がった。
揺れる馬車の中、サクラの顔を覗き込むのは、相変わらず無邪気に微笑むミレアだった。
「おはよっ、サクラ。もう夕方になっちゃったよ?」
彼女の手には赤紫と青緑の果実が揺れ、やがて冷気を帯びて水菓子へと変わっていく。
《プラムのソルベ・黎明の雫》
《ライムのソルベ・翠風の調べ》
――眠りと目覚め、終焉と始まりを結ぶ、ふたりのひと匙。
「眠気覚ましにどう? プラムとライムのシャーベットだよ。はい、あ〜ん♪」
匙にすくい、ひと口差し出される。
「あ、あ〜んっ……」
突然のことだったが、サクラは赤紫のプラムを口に運んだ。
ひんやりとした冷たさの後、濃厚な酸味がじゅわりと舌を包む。
甘さよりも先に、深い酸味が脳を突き抜ける。けれど、その奥にじんわりと広がる蜜のような余韻──。
「……っ、すごく濃い……でも、後から優しい甘さがきます」
サクラの頬が自然と緩み、眠気の残る瞳が輝きを取り戻す。
続けて、ミレアが青緑のライムをひと匙。
口に含んだ瞬間、爽やかな香気が一気に広がる。
鋭い酸味が舌を刺し、それがすぐに透き通るような涼やかさに変わり、喉をすうっと抜けていった。
「ん〜、いいねこれ! すっきりしてて、でも甘さもちゃんとある。いくらでも食べられちゃう! うまうまっ♪」
無邪気に笑う彼女の頬には、冷気でわずかに赤みが差している。
「プラムは濃くて……じんわり体に沁みる感じです」
「ライムは軽やかで、ずっと食べてても飽きないのよね〜」
二人は同じ皿を分け合いながら、違う味わいを楽しみ、互いの反応に笑みをこぼす。
サクラにとっては、旅の途中のひとときの甘いご褒美。
けれどその涼やかな甘さの奥底に、彼女が知らぬ“終焉”の色が静かに潜んでいた。
九皿目 水菓子『甘酸っぱい余韻。ミレたん、口溶けは終焉の味』
おしまい
『献立2』を最後までお読みくださりありがとうございます。
本編に登場した国や人物、建物についての補足資料です。
物語をより深く楽しみたい方に、少しでも世界観を知っていただければと思います。
● 朱桜国の施設
・桜綺苑
朱桜国で一番の料亭。
店全体が二階構造で八角形を成し、中央には巨大な桜がそびえる。その桜の上部はガラス張りとなっており、夜空を見上げることができる。
各席には折りたたみ式の壁が設けられており、必要に応じて半個室に変更可能。VIPルームは一階の真正面奥にあり、完全個室の造りとなっている。
・朱楼宮・閉架書庫
王族や学者のみが立ち入れる特別な空間。歴史的資料の保管庫としての役割を持つ。有権者以外が閲覧する場合は、有権者からの許可が必須。
朱桜国の歴史や竜種に関わる古文書が数多く収められており、レンカやサクラ父は「五柱神竜創世譚・最古古文書写」をすらすら読めるほどの知能を備えている。
● 登場人物関連
⬛︎ レンカ
高い知能と鋭い観察眼によって、実力で朱桜国の王位を勝ち取った人物。朱桜国は完全なる実力主義であり、レンカ自身も王族の血筋ではあるが、その血は薄く末端の家系にあたる。
・他の王族について
レンカが巧みに仕事を割り振り、彼らに「自分も国に貢献している」という満足感を与えているため、出しゃばる余地を与えない。結果として、実際にはレンカ一人で国を動かしている状況にある。
・竜王国との関係
他国との差別化を図るため、夜に機能させる政策として「竜王の火種」に注目。これを活かした改革を進めた結果、現在の朱桜国の姿を築き上げ、その功績により「朱桜」として君臨するに至った。
しかし功を焦った政策の欠陥を竜王ヴァルグレアに見抜かれ、利用されてしまう。
当初ヴァルグレアは「改革の助力」として朱桜国に有利な条件で取引していたが、徐々に対等条件へと切り替えた。朱桜国側には恩義があったため受け入れざるを得ず、現在では「竜王の火種」が不可欠となったことを背景に、金品までも要求されるようになり、取引は竜王国有利の形に傾いている。
⬛︎ サクラの家(ミナヅキ家)
由緒ある家柄だが、背教者を出したことで失墜気味。伝統としがらみに縛られた家でもある。
・サクラ母
ミナヅキ家へ嫁入り。サクラ父がサクラに愛情を示さず、放任していたことを指摘した結果、言い争いへと発展。その場で瀞澪を悪く言ってしまい、背教者として罰せられ追放となった。
・サクラ父(ミナヅキ宮司)
瀞澪を第一とする狂信者。崇拝するあまり「自分の言葉はすべて瀞澪に届いている」と錯覚するようになる。
もともと知能は高く、人を助けることで得た見返りも多かったが、それを「瀞澪からの賜りもの」と勘違いし始めたのが転機。以後は「瀞澪への崇拝こそが家や国を助ける」と信じ、自らの知能を活かして国に貢献していく。
結果として、自分の能力で獲得した収益すら「瀞澪の恩恵」と解釈し、「自分で稼いだものではない」と考えるに至った。そしてついには「自分の言葉は瀞澪の代弁」と錯覚し、暴走を始める。




