二皿目 八寸『甘やかなる春。ミレたん、茶屋に寄り道』
昼下がり。
竜車は街道脇の広場で小休止に入っていた。木陰に停められた車体が、昼の陽射しを柔らかく遮ってくれる。
「ふぅ〜……おなか空いた〜♪」
ミレアは黒塗りの重箱の一段目を開けた。
香草で焼き上げた肉、角切りの熟成チーズ、薄く切った燻製魚のサラダ──色とりどりの料理がぎゅっと詰め込まれている。
竜王国では日常的に食べられる馴染みの味だが、旅先で口にすると、ひときわ嬉しく感じられる。
向かいのサクラは、包みから乾いた煎餅を取り出し、ぽりぽりと齧っていた。
二人の食べる音だけが、昼の静けさの中に響く。
「……ミレアさんは、どうして配達の仕事を?」
ふと、サクラが問いかける。
「え? あー……いろんな所に行けるし……おいしいもの、食べられるからね〜」
箸を止めもせず、ミレアは呟くように答える。
「あはは……そうなんですね」
サクラは小さく笑い、自分の煎餅をもう一口齧る。
少し間を置いて、ぽつりと話し始めた。
「私は……家の決まりなんです。代々、外の国々を見て回って、知見を広げるようにって。朱桜国の中にいてはわからないことも、外に出れば……」
そこまで言って、サクラはミレアの様子を伺う。
「〜♪」
重箱の中を物色している視線は、こちらに向けられていない。
それを見て、サクラはふっと口を閉ざした。
やがて、御者の「そろそろ出発しますよー」と声をかけてきた。
竜車は再び揺れ始め、食後の心地よさに包まれたサクラは、つい瞼を閉じる。
揺れに身を任せるうちに、意識が静かに沈んでいった。
──夢を見る。
まだ幼かった頃、数人の同級生に囲まれていた。
押され、突かれ、袖を引き裂かれる感覚。
耳に刺さる嘲笑と、胸の奥を締めつける痛み。
……だが。
その痛みは、すっと消えていく。
嫌悪も屈辱も、指の間から砂がこぼれるように抜け落ち、景色の端から色が失われていく。
鮮やかだったはずの校庭が、灰色に溶けていく。
「……っ」
はっと目を開けると、竜車の窓辺でミレアが小袋を抱えていた。
その中から、淡い色の小さな粒──金平糖を一粒つまみ、口に放り込む。
カリッ。
その瞬間、夢で見ていた記憶の一部が、ぽっかり穴をあけられたように色を失う。
けれど、嫌な感情も痛みも……なかったことになっている。
ミレアは外の景色を見て微笑んでいる。
その横顔は、胸の奥にあった不安を──
暗い夢から自分を救い上げてくれたように見えた。
(……どうして、そんなふうに見えたんだろう)
サクラは小さく息を吐く。
……だが、ふと気づく。
(竜王国には……金平糖なんて、存在しないはず……。どこでそれを……?)
竜車が山間の緩やかな坂を登っていたとき、
前方の道端に、草色の着物の娘が立ちすくんでいた。
腰をかがめ、視線は茂みの一点に釘付け。
「……っ、なんだぁ?」
御者が眉をひそめると同時に、低く乾いた唸り声が風に乗って届く。
茂みを割って現れたのは、猪にも似た灰色の魔獣だった。
棘のように逆立つ硬毛、黄ばみ濁った目、口端から滴る涎。
一歩ごとに土が沈み、娘との距離を詰めていく。
背後は切り立った谷。逃げ道はない。
娘は逃げ場を失い、背後は谷。
魔獣との距離は数歩──。
「っ、助けないと……!!」
サクラは腰の短刀を抜き、娘と魔獣の間に飛び出した。
その背を、ミレアは竜車の中から興味なさげに眺めていた。
──だが、先刻の胡麻豆腐の記憶が頭をかすめる。
無言で配達物を置き、土の上に降り立った。
「人って、助けた方が見返りがあったりするのよね〜」
小さく指を鳴らす。
その瞬間──世界が軋むように遅くなった。
足音も、唸り声も、風の流れさえも、硝子越しに見ているように歪む。
ただひとり、ミレアだけが変わらぬ速度で歩いていく。
サクラの背中を抜け、魔獣の正面へ。
再び指を鳴らすと、空気が弾けるように時間が戻った。
「っ!? ミレアさん!?」
サクラの目には、彼女が突然目の前に現れたように映っていた。
ミレアは静かに魔獣を見つめる。
魔獣の目が細くなる。
(なんだ……どこから現れた? まぁいい、まとめて蹴散らすまでだ!)
地を蹴る轟音。
土煙の向こうから迫る巨躯。
ミレアは細腕をすっと伸ばし、その鼻面を受け止める構えを取った。
(矮小な小人風情が……吹き飛べッ!)
猪の鼻筋に、ミレアの手が触れる。
……そして、ミレアたちの体が羽根のように軽く吹き飛び、崖下へ落ちてゆく。
……はずだった。そんな幻想はほんの刹那でかき消える。
ほんの一瞬、蹂躙を確信した──だが、それは幻。
次の瞬間、世界は容赦なく現実へと引き戻された。
吹き飛んでなどいない。動いてすらいない。
(…………は…? なんだ……これは……)
魔獣は地面が抉れるほど踏み込み、全身の力を鼻先に込めている。
それでも、ミレアの体は一分の揺らぎも見せなかった。
(……山……。果てしないほどに、大きな岩山を相手に……力比べをしているようだ……)
「イノシシのお肉って、ケモノ臭くてあんまり美味しくないのよね〜。魂の方もまだ十数年と若くて、全然熟成されてないし」
言葉の意味は理解できなかった。
だが、それが自分を“食おうとしている”言葉だと本能が告げる。
なぜなら、この矮小な生き物の目は──幼い頃、命からがら逃げ延びた捕食者と同じ目だったからだ。
脚から力が抜け、魔獣はじりじりと後退る。
一歩、また一歩。
「……去ね」
冷たい声と視線に、背筋を氷の刃でなぞられたような恐怖が走る。
次の瞬間、魔獣は身を翻し、一目散に森の奥へと消えていった。
ミレアがくるりと振り返り、娘に声をかけた。
「だいじょーぶ?」
「……は、はい。ありがとうございます! 本当に……すごいですね。猪の魔獣を《《落ち着かせて》》追い払ってしまうなんて……」
まだ声は震えていたが、娘の表情には安堵の色が浮かんでいる。
サクラはその背を見つめながら、これまでの異様な光景を思い返していた。
──どこからともなく取り出した胡麻豆腐。
──同じく、あり得ないはずの金平糖。
そして、つい先ほど。
自分の目の前に突然現れたかと思えば、
魔獣を《《片手で》》抑え込んでいた。
この娘には、それが魔獣をなだめたように見えたのだろう。
……だが、サクラの目は違った。
魔獣が踏ん張っていた脚元──固く締まった山道の土が抉れ、後退した痕跡がはっきりと残っていたのだから。
ミレアを見つめる。
その角や尻尾は、確かにリザードマンやドラゴニュートの竜人族や爬人族を思わせる。
だが──違う。
間違いない。
彼女は上位の竜種。
それも自らを人の姿に変えられる、竜王と同格の存在──煌竜。
思い返せば、すべてが腑に落ちる。
“竜王の火種”という、朱桜国にとってなくてはならないものを、護衛もなく、たったひとりで運んでいる理由。
「色んな所に行って、美味しいものが食べられるから」という配達員の理由が、ただの方便であること。
食べ物をどこからともなく生み出す力も、煌竜ならではのものだろう。
──そんな尊い存在を、わずかでも疑った自分が恥ずかしい。
竜王と同格の存在であれば、そう易々と身分を明かせるはずがない。
多くを語らぬのも当然だろう。
サクラは静かに息をつき、ミレアについてあれこれ詮索するのをやめた。
「……ミレア様」
その呼びかけは、先ほどまでとは違っていた。
口にした瞬間、自然に敬意が滲み、舌にもしっくりと馴染む。
「なに〜?」
ミレアはいつものように、屈託のない笑みで振り返った。
「お見事でした。おかげで私も、この方も無事です。……本当に、ありがとうございました」
サクラは背筋を正し、深く頭を下げる。
その動きに釣られるように、娘も慌てて頭を下げた。
「ああ、うん。別にいいわ、それくらい」
ミレアの声は軽い。助けたことを、まるで散歩の途中に石を拾った程度のことのように。
娘は顔を上げ、まだ少し息を弾ませながらも笑顔を見せた。
「助けていただいたお礼に、ぜひうちの茶屋へお越しください。……父にもお会いしてほしいんです」
娘の説明によれば、彼女は峠道の中腹にある茶屋の娘で、先ほどは香り付けや茶葉を摘みに来たところを魔獣に襲われたらしい。
両手には、落とした茶葉籠の取っ手の跡が赤く残っている。
「なるほど……そういうことでしたか。……ミレア様、ここはぜひ饗応にあずかりましょう」
サクラが静かに勧めると、ミレアは小首を傾げながら「うん?」と短く返した。
こうして三人は竜車に乗り込み、山道を少し下った先にある茶屋へ向かうのだった。
───────────
竜車は、娘に案内された茶屋の前で止まった。
瓦屋根の木造の店は、軒先に吊された茶葉の束が風に揺れ、ほうじ茶のような香ばしい匂いが外まで漂っている。
娘は暖簾をくぐると、そのまま奥へ駆け込み、裏手で事情を説明する声がかすかに聞こえた。
やがて、頭巾を巻いた白髪まじりの男が現れる。
腰には落ち着いた色合いの前掛け。
一つひとつの所作から、長年包丁を握ってきた者の風格が漂っていた。
「話は聞きました。あなた方が娘を助けてくださったとか……この度は、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げる店主に、サクラは慌てて首を振る。
「いえ……助けたのは私ではなく、こちらにおられるミレア様です」
店主はミレアをまっすぐに見据える。
ふっと目を細める。
その目は、客に向ける柔らかさの奥に、職人の目利きが宿っていた。
食材の鮮度や香りを嗅ぎ分けるのと同じ勘が、目の前の少女から“何か”を感じ取っている──
彼女の外見だけではない、もっと深く、獣と竜の境界に触れるような何かを。
「ならば、ぜひお礼をさせてください」
そう言い残し、奥へと消えていった。
その眼差しが、ただの感謝なのか、
それともミレアの角や尻尾から何かを察したものなのか──それはミレア以外には分からなかった。
ほどなくして、二つの器が運ばれてくる。
「お待たせしました。こちら、朱桜国でも限られた貴族や王族の方々にしかお出ししない、当店自慢の品でございます。どうぞお召し上がりください」
「なにこれ、おいしそ〜♡」
ミレアの目が輝く。
「《鯛の桜葉寿司》と《本蕨粉のわらび餅》でございます」
その名を聞き、サクラは目を見開いた。
「っ……ミ、ミレア様! これは朱桜国でも最高級の品です!……どうしてこんな茶屋に……」
店主は少し照れたように笑い、言葉を継ぐ。
「数年前までの話ですが、これでも桜綺苑で総料理長を務めておりまして」
「なんと……それなら納得です…!」
サクラは感嘆の声を上げると、その隣でミレアが首を傾げる。
「桜綺苑?」
サクラが代わりに説明する。
「朱桜国で最も値の張る料亭です。以前、胡麻豆腐のお話をした、まさにあの料亭ですよ」
「へ〜。じゃあ、すっごいおいしいやつだ!」
ミレアは皿の中央に置かれた、一口大の寿司へと手を伸ばした。
淡い緑の桜葉にふんわり包まれ、その隙間から、透き通るような鯛の白身が覗いている。
「それじゃあ、いただきま〜す♪」
両手でそっと桜葉をほどく。
葉脈を透かす光とともに、塩漬けの桜葉が放つ、柔らかく青い香りがふわりと鼻先を撫でた。
それは春先の川辺、まだ冷たい風に混じる桜の匂い──どこか懐かしく胸をくすぐる香り。
艶やかな白身は、刃を入れたときの繊維の細かさがそのまま残っており、身の表面には酢の淡い光沢が差している。
ふわりと握られた酢飯が、米粒ひとつひとつまで立っているのが見て取れた。
口に含むと、まず桜葉の香りが一気に広がる。
すぐに酢飯のやわらかな酸味が舌全体を包み、遅れて鯛の甘みがじんわりと滲み出してきた。
噛み締めるごとに、身の繊維が静かにほどけ、米粒の甘みと絡み合っていく。
「……んっ〜♡」
まぶたを閉じると、陽射しを受けて花びらが舞う川沿いの情景が、温かな風ごと胸の奥に流れ込んでくる。
器の隣に置かれた小さな桐箱に目をやると、蓋の隙間から、淡く透き通った輝きがのぞいていた。
蓋を開ければ、そこには宝石のようなわらび餅が二つ。
黒塗りの皿の上で、ほんのわずかに揺れ、表面には新挽きのきな粉が雪のように舞い落ちている。
脇には、琥珀色の黒蜜が小さな器に満たされ、その縁にはとろりとした甘い影が溜まっていた。
「これ、絶対に二個じゃ足りないやつだ……!」
箸先で透明なわらび餅を持ち上げる。
その瞬間、つるりとした肌が指先を逃げるように滑り、ぷるん、と小さく震えた。
思わず息を止めるほどの弾力。柔らかいのに、芯があり、まるで呼吸しているかのよう。
黒蜜をゆっくりと垂らす。
光を受けてとろりと流れる蜜が、わらび餅の表面を薄い飴色に染め上げ、続いてきな粉がふわりと覆いかぶさる。
その瞬間、香ばしい大豆の香りが湯気のように立ちのぼり、鼻孔をやさしくくすぐった。
口に運ぶと──舌に触れた瞬間、形を保ったまま静かに溶けていく。
とろけながら、黒蜜の濃密な甘みときな粉の香ばしさが舌の上で重なり合い、喉の奥まで滑り込む。
噛む必要はなく、甘味はそのまま温かな幸福感へと変わり、胸の奥まで満たしていった。
「……これ……すっごい贅沢……♡ うまうま…♪」
吐息混じりの声は、ただ美味しいというだけではなく、
まるで心そのものが包まれていくような、深い安堵の響きを帯びていた。
「ごちそうさまでしたっ♡」
満面の笑みを浮かべ、箸を置くミレア。
「すっごく美味しかったわ!」
「ご満足いただけたようで、何よりです」
店主は胸を張り、誇らしげに頷いた。
「……ここ最近で食べたもので“二番目”に美味しかったわ!」
その一言に、店主の眉がわずかに動く。
「……ほう? 二番目、ですか」
元・最高級料亭の総料理長としての矜持が、ほんの少しだけ刺激されたのだろう。
柔らかな目付きが、わずかに鋭さを帯びる。
「ええ。でもそれは、メイン料理じゃないから──でしかないわ。軽食、それも八寸なら、右に出る物は無い。断言できるわ」
「なるほど……。しかし、それほどの品を作る料理人とは、いったい……?」
ミレアは腰に手を当て、胸を張った。
「わたしよ」
その渾身のドヤ顔に、サクラは目を瞬く。
「えっ!? ミレア様、お料理なさる……」
言いかけて、はっと口をつぐむ。
──あの不思議な力。
人の記憶を引き出し、具現化する力。
もしもそれを使えば、その人が一番美味しいと感じる料理を、完璧な形で再現できるはずだ。
……ミレア様なら、当然のことなのだろう。
「ほぅ……それは、ぜひとも口にしてみたいものですなぁ」
店主の声音には、挑むような色がわずかに混じっていた。
しかしミレアは首を横に振る。
「う〜ん、それはちょっと無理かな。あれはたまたま、三百年物の品が偶然手に入っただけだし……。
仮に手に入ったとしても、誰かに振る舞ったりはしないわね」
唇に笑みを浮かべて、きっぱりと告げる。
「だって、それはわたしが食べたいものだもの」
──お前には渡さん。
そんな言葉を、柔らかい笑顔に隠しながら。
その時、サクラは悟った。やはりこの人は、常識で測れる存在ではない──。
「ありがとう。美味しかったわ、店主さん。元総料理長という肩書き、伊達じゃないわね」
軽やかにそう言い残し、ミレアは竜車へ乗り込む。
サクラも深く一礼し、後に続いた。
御者が手綱を引くと、車輪が砂利を踏む音が遠ざかっていく。
軒先で見送る店主と娘。
やがて娘がぽつりと口を開いた。
「……三百年ものの食材って、なんなんだろうね」
「さあな……酒か、何百年も寝かせた調味料か……」
店主は顎に手をやり、目を細める。
「……世の味を知り尽くしたつもりだったが……まだまだ勉強不足だったか」
その声には、悔しさと同時にどこか楽しげな響きが混じっていた。
竜車は再び山道を進み、朱桜国を目指してひた走る──。
数日後──夜。
竜車は長い旅路を経て、ついに朱桜国の城門へたどり着いた。
門をくぐった瞬間、視界いっぱいに金色の灯が咲き誇る。
両脇の桜並木は夜空を覆うように枝を広げ、花弁が提灯の光を受けて淡く染まっている。
その間を縫うように流れる川には橙の明かりが揺れ、橋を渡る人々の影がゆらゆらと水面に映っていた。
奥には幾重にも重なる楼閣と五重塔。
すべての窓から温かな光が漏れ、笑い声や琴の音が春の夜風に乗って届く。
ミレアは竜車から乗り出し、目を輝かせる。
「ほわ〜……夜なのに、なんて賑やかなの…」
──まさに、眠らぬ桜の都がそこにはあった。
その横顔を見ながら、サクラは誇らしげに微笑んだ。
──この景色を自分の国のものとして見せられることが、妙に誇らしい。
竜車は橋を渡り、灯の海の中へとゆっくり進んでいった──。
二皿目 八寸『甘やかなる春。ミレたん、茶屋に寄り道』
おしまい




