ノーマークの逃亡者
「勝てるわけがない」
デビューから15戦、未勝利戦すら勝てず、ようやく3勝クラスを抜けたのが5歳の秋。
そんな馬が、GⅠ・ジャパンカップの出馬表に名前を連ねていた。
名前は――フロントランナー。
「なぜ出てくる?」「邪魔しに来ただけだろ」「回避すればいいのに」「登録料を上げれば出てこなそうw」
SNSでは酷評の嵐。調教も平凡、前哨戦は10着、記者もほとんど取材に来ない。
誰も彼に期待していない。存在を、まるで忘れたように。
だが、彼の厩舎には、一人の男が信じていた。
「お前の脚質は、時代に合っていないだけだ。展開がすべて噛み合えば、奇跡は起きる」
調教師の佐久間は、無名に近い老トレーナー。馬と同じく、表舞台とは無縁だった。
だが、誰よりもフロントランナーを知っていた。生まれた日から、ずっとそばで見てきた。
スタート地点の芝2400m地点。東京競馬場は曇天、今にも雨が落ちそうな空模様。
ファンファーレが鳴り響く中、実況が叫ぶ。
「第44回ジャパンカップ! 世界の強豪が集う、この秋の大一番!」
人気は海外GⅠ4勝馬のエルドリッヒ、無敗の三冠牝馬リリアント、そして宝塚記念馬ヴォルティス。
フロントランナーは、18頭立ての18番人気だった。
「出し抜け。騙してやれ。誰にも読まれず、誰にも期待されず、お前はただ、お前の競馬をやればいい」
ゲートが開く――
瞬間、誰もが目を疑った。
フロントランナーが、飛び出した。異様な飛び出し方で。
逃げる馬は他にもいた。だが、彼だけは別格の飛ばし方だった。
最初の1000m、通過タイムは57秒9。
「これは速い!逃げというより、暴走だ!」
観客がざわつく。解説者は首をかしげる。
だが、ジョッキー・田村は微動だにしない。手綱は抑えておらず、信じて任せていた。
「まだいけるか、フロントランナー?」
誰よりも、馬自身が一番それをわかっていた。
これまで何度も潰れ、何度も直線で交わされ、誰もが失望した。
「でも今日は、違う」
後ろではリリアントが動き出す。エルドリッヒも追い込み態勢。
直線、残り400m――差がみるみる縮まる。
「もう脚が残ってないはずだ!いや、粘っている、まだ粘っている!」
実況が叫ぶ。観客の視線が、人気馬から先頭の“あの馬”に移る。
最後の100m、エルドリッヒが猛追。リリアントも外から飛んでくる。
「差せるか!届くか!――いや、届かない!届かないぞ!!」
実況が絶叫した。
逃げ切った。
フロントランナー、勝利――2分21秒5。ジャパンカップ史上、最速に迫るタイム。
東京競馬場が、一瞬静まり返った。
それから、割れるような歓声が巻き起こった。
ウイナーズサークル。
場内はどよめきと、驚きと、興奮と――そして、祝福に包まれていた。
田村騎手は、勝利騎手インタビューで言った。
「誰もが無理だと思ってた。でも、本人が一番、“自分を信じていた”と思うんです」
佐久間調教師は涙をぬぐいながら、答えた。
「私も、彼も、競馬界の“ノーマーク”でした。でも、だからこそ、やれたんです。
みんなが牽制して動けなかった。それを、全部出し抜いて逃げただけ。運も展開も味方した――
でも一番大きかったのは、彼が、自分を諦めなかったことです」
レース翌日、スポーツ紙の一面を飾った見出し。
『ノーマークの逃亡者、帝国を覆す――フロントランナー、歴史的逃走劇』
あの日、誰よりも速く、誰よりも遠くまで走った馬。
勝つべき“絶対”が崩れた時、誰もが知ることになる。
かつて、誰にも期待されなかった馬の名前を。
フロントランナー。
その馬はもう、ノーマークではない。