第二章(1)
港町サバドは、ユグリ国の玄関口として知られ、毎日多くの船を迎えている。国内の船はもちろん、近隣諸国の船もその対象だ。物資の補給のために立ち寄る船も多い。
ウミネコの鳴き声と潮騒に、活気あふれる人々の声が重なり、人や物の往来が盛んな非常に賑やかな街である。
また、サバドの住民は人当たりが良く、誰に対しても分け隔てなく接する。その気質が物の流通を後押ししていた。
しかし最近では、見知らぬ者の出入りが増え、治安の悪化がささやかれている。
この問題に頭を悩ませつつも、よそ者を安易に排除することはできない。それがユグリ国内の流通全体に影響を及ぼし、さらには近隣諸国との関係悪化を招きかねないからだ。
となれば、彼らを受け入れながらも、犯罪が起こりにくい街を作ればいいと言い出したのは、モンクトン商会の商会長のボブだ。
街の裏にいる貧しい子どもたちを養護院で引き取るように指示を出し、さらにそこで簡単な読み書きができるように教育を施す。
そしてボブは自信に満ち溢れた声で言う。
「もちろん、それにかかる費用はモンクトン商会が出す」
モンクトン商会はユグリ国でも有数の商会で、その名は近隣諸国にも知られている。特に、ボブの妻コリンナが海を隔てた隣国ギニー国の子爵家出身であることが、影響力をさらに高めている。
二人の出会いは、ボブがギニー国を訪れたとき、コリンナが彼に一目惚れしたらしい。短く切りそろえられた赤い髪、力強い黒曜石のような瞳、上背がありがっしりとした体格の男性は、少なくともコリンナの周囲にはいなかった。コリンナの知っている男性とは違う男性。一目見た瞬間、心惹かれた。
子爵家の末娘ということもあり、コリンナをたいそう可愛がって育ててきた両親は、隣国の商家に嫁ぐことに難色を示した。だがそこはコリンナが、この結婚によって子爵家にもたらされる利益、そして何よりもボブへの想いを訴え、ボブ自身もコリンナを必ず幸せにすると約束をして、二人は結婚までたどりついたのだ。そんな二人の間には、七歳になる愛娘のシェリーがおり、目に入れても痛くないほど溺愛していた。
ギニー国とユグリ国を繋ぐような存在のモンクトン商会。そしてそこに今、優秀な教師が存在する。
名前はシア。陽光のような金色の髪を肩で切り揃え、力強いキャメル色の瞳を持つ女性だ。年齢はおそらく二十二歳。ただし、「おそらく」というのは、シア自身が自分の年齢を覚えていないからだ。そもそも「シア」という名前すら、彼女が自ら覚えていたものではない。シェリーとコリンナが彼女をそう呼んだため、それが名前だとされている。
シアには記憶がない。厄介なことに自分自身に関する記憶をすべて失っている。どこから来たのか、どこへ向かいたいのか、出身地も誕生日も家族も何ひとつ覚えていない。
それでも、一般的な知識は備えていた。それは文字が読めたり書けたり、計算ができたり。さらにシアの場合は、他国の言葉も理解し、剣術まで優れていたのだ。
記憶を失ったシアをコリンナは突き放すようなことはしなかった。なによりもシアはシェリーの命の恩人なのだ。
王都セレからコリンナとシェリーが馬車でサバドに戻ってくる途中、目的地が同じだった彼女を護衛として雇った。
シアは王都セレでコリンナたちを暴漢から救ってくれた、勇敢で腕の立つ女性だ。
ところが移動中、馬が暴れて馬車の車輪が外れ、馬車から身を投げ出されたシェリーを守ってくれたのがシアである。おかげでシェリーはかすり傷一つ負わなかったが、シアは記憶を失ってしまう。
そんなシアをボブもコリンナも家族のようにあたたかく受け入れた。記憶が戻るまでモンクトン商会に身を置いてはどうだと提案すると、行き先も記憶もないシアはその言葉に素直に従った。
しかし、ただ世話になるだけでは気がすまない。シアは「何かできることをさせてほしい」と言った。
彼女の能力は、次世代を担う子どもたちのために使うべきだと考えたボブは、シアに養護院での教師の役割を与えた。
シアにとっても、養護院での教師の仕事は順調だった。子どもたちの人気も高く、修道女たちからの評判もいい。やがて彼女の教え子は養護院の子どもたちだけでなく、学ぶ意欲があるのに学校に通えない子どもたちにも広がっていった。
今ではサバド養護院は学校としての認識も広がっている。
そうやって二か月ほど教師を続けていたシアだが、ある日、体調を崩した。コリンナが慌てて医師を呼び、診察を受けたところ、シアは妊娠三か月であることがわかった。
もちろん、その事実に驚いたのはシア本人だ。なにより、自身に関する記憶がまったくないのだ。となれば、父親が誰なのかまったくわからない。
それでも新しく宿った命に罪はない。コリンナや多くの人々の手を借りて、シアは産むことを決心した。
次第にお腹が大きくなりながらも、彼女は養護院の子どもたちへの教育を続けていた。そしてそれは出産後も続く。
そうやって記憶を失ったシアが港町サバドに来て三年近くが経ち、息子のヘリオスも二歳になろうとしていた。金色の髪は母親によく似ているが、瞳の色は紫と珍しい。これは顔も名も知らぬ父親から受け継いだものにちがいない。
だがシアにとって、ヘリオスは愛らしい息子だった。父親が誰であろうが関係ない。
ヘリオスを出産した後、シアはお世話になっていたモンクトン商会の屋敷を出て、養護院近くの小さなアパートメントで暮らすようになった。それはシア自身、いつまでもモンクトン商会に甘えていてはいけないというけじめのつもりでもあった。
それでも幼いヘリオスを抱えて養護院での仕事は大変なものである。そこで、モンクトン商会に頼んで、仕事中はヘリオスを預かってもらうことにした。
ときには、ヘリオスも養護院で一緒に剣術に励むこともある。
「まま~」
養護院での仕事を終え、ヘリオスを迎えにモンクトン商会の屋敷に向かうと、ヘリオスがとてとて走ってやってきた。彼の後ろにはコリンナとシェリーの姿がある。
「お帰りなさい、シア」
「まま、おかえり」
「ただいま。ヘリオスはお利口にしていたかしら?」
「リオ、おりこうよ。シェリー、あそぶよ」
二歳になったヘリオスの口調はまだたどたどしいものの、意味は通じる。
ヘリオスはお利口にしていて、シェリーと一緒に遊んでいたよ、という意味だ。
「ねえ、シア。今日は夕飯を食べていくでしょう? あの人も、久しぶりにあなたから話を聞きたいらしいのよ」
モンクトン家の家族は、こうやってたまにシアを夕食に誘う。もちろんシアが断るようなことはしない。
「ええ、喜んで。リオ、今日はシェリーと一緒にお夕飯よ?」
身体をかがめ、ヘリオスと同じ目線でそう言うと、彼の紫色の瞳はぱっと輝く。
「シェリー、いっしょ?」
「そうよ、ヘリオス。今日の夕飯はシェリー姉さまと一緒よ」
ヘリオスよりも五歳年上の彼女は、すっかりお姉さん気分だ。幼い二人のやりとりが微笑ましく、シアもつい口元をゆるめてしまう。
「子どもの成長って早いものですね」
ヘリオスを見ているとなおさらそう思う。昨日できなかったことが、今日にはできるようになっている。ハイハイしていたと思ったら、いつの間にか一人で立って歩き、今では簡単な言葉を話す。
「そうね。今ではシェリーも、ヘリオス相手にお姉さんぶってるわ」
コリンナがこそっとシアの耳元でささやいた。シアもシェリーの愛らしい姿に笑みをこぼす。手を繋ぐ子どもたちの姿は、見ていて心が和むものだった。