第六章(4)
身体が落ちていく浮遊感は、奇妙な感じがする。もっと速く落ちるかと思ったのに、ふわふわと空を漂うような。
――ガシッ。
シアの身体はしっかりと誰かに抱きとめられた。
「まったく、無茶をする。俺が下にいなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「そんなの、あたしさえいれば、まるっと解決でしょ!」
「だって、ジェイラスさんが来てくれると、信じていましたから」
シアの言葉に、ジェイラスの目が驚きで丸くなり、すぐに柔らかな光を宿す。
「……シア」
「ちょっと。あなたたち。完全にあたしを無視しているわね」
先ほどからジェイラスの隣で騒いでいるのは、もちろんエイミだ。彼の魔法によって、四階から落下するシアの身体の衝撃を抑えていた。それをジェイラスが抱きとめた。
「いいから! おまえはアレをなんとかしろ」
ジェイラスが上を見上げると、窓から身を乗り出して下を見ているフランクの姿が視界に入る。
「エイミさん。彼は呪具師です」
「なんですって! そんな美味しい人物が存在しているなんて……ホーガン、捕らえるぞ」
エイミの声が野太く変わり、興奮した笑みが浮かぶ。
バササと羽音を響かせ、ぽっぽちゃんがジェイラスの頭上を飛んでいた。
フランクの後ろにあった窓から、ぽっぽちゃんの姿が見えたのだ。だからアリシアは、そこから身を投げる選択をした。
「ありがとう、ぽっぽちゃん。手紙を届けてくれて……」
「だからって……なんで別れの手紙なんだ?」
「だって。私が別れたいと言っても、世界の果てまで追いかけてきてくれると、そう言いましたよね? だからぽっぽちゃんに手紙をたくせば、ジェイラスさんがぽっぽちゃんに私のところへ案内しろって言うのかと……」
そんなぽっぽちゃんの左足には通信筒がくくりつけてある。これはシアの元に手紙を届けたいとき。右は王都セレ、左はシア。ぽっぽちゃんはそう訓練されているのだ。
「ああ。だからあの手紙を鳩の左足につけ、シアのところへ案内するようにと言った」
ジェイラスがシアをゆっくりとおろす。地に足がつくと、安心したのか胸の奥がじわりと熱くなった。だが、身体はまだ震え、恐怖の余韻が消えない。
そこにぞろぞろと騎士らが集まってきて、シアがいた宿を取り囲む。
「モンクトン商会のフランク……今日、王城に魔石納品に来たようだが、いつもと違う人物だと、門番が覚えていたよ。君の代わりに養護院で子どもたちに勉強を教えていた奴だよな?」
「はい……」
「彼の狙いは……?」
ジェイラスに聞かれ、なんて答えたらいいのかとシアは思い悩む。
「いや、この場で話す内容ではないな。君は今、怖い目にあったばかりだ」
そう言ったジェイラスが、再びシアの身体を抱きかかえる。
「あ、あの……ジェイラスさん?」
「身体が震えている。怖かっただろう? それではまともに歩けない。馬まで連れていく」
「だけど、ジェイラスさんは? フランクを捕まえなくていいのですか?」
「俺の仕事はアリシアの保護だ。犯人の確保はエイミたちの仕事。恐らく、魔法を使う相手だろうということで、殿下は騎士団ではなく魔法師たちに命じた」
フランクは、魔法は使えないが呪具を扱うため、ランドルフの判断は正しいと言えるだろう。
「だが、逃げられたら困るということで、第一騎士団を動かしてもらったが……」
宿を囲んでいる騎士団が第一なのだろう。
「エイミだからな。あれは、エイミを取り押さえるためでもある」
エイミを取り押さえるとはどのような状況かがまったく想像できなかったが、これを尋ねてはならないとシアの心が訴えていた。
「ところでアリシア、馬には乗れそうか?」
宿から少し離れた場所に、馬が一頭、つながれていた。
「ジェイラスさん……馬でここまで?」
「ああ。俺たち騎士団は、有事の際に使っていい道がある。そこを馬で飛ばしてきた」
「エイミさんも……?」
「あれは……一人で馬には乗れない」
ジェイラスがものすごく不機嫌な表情になったので、これもこれ以上尋ねてはならないとシアは思った。きっとエイミと二人乗りしてきたのだ。だから、二人分の鞍がついているのだ。
エイミの真実を聞いていたからジェイラスに同情を覚えるが、知らなかったらエイミに嫉妬していただろう。
「横乗りがいいか? 俺にしっかりとしがみついていてくれ」
馬に乗せられたシアは、その言葉に従い、ジェイラスの身体に両手を回す。怖くて周囲を見る余裕などなく、彼の胸元に顔を埋めてただ風を感じていた。
馬から下りた後も、ジェイラスはシアを抱きかかえて王城内を歩く。今度はすれ違う人からの視線に耐えられず、やはり彼の胸元に顔を埋め、顔を隠した。
「本当は、俺の部屋に連れ込みたいところだが、先に殿下に報告する必要がある」
ジェイラスの言葉は正しい。
モンクトン商会で雇っていたフランクはヘバーリア国の人間だった。そしてサバドに視察に来ていたランドルフを狙ったのも彼だ。いや、あの暗殺者をモンクトン商会に引き入れたのも彼だ。
となれば、ランドルフに報告しないわけにはいかない。
シアを抱きかかえたまま、ジェイラスは片手で扉をノックする。
『入れ』
「ジェイラス・ケンジット。無事、アリシア・ガネルを保護しました」
アリシアがランドルフの執務室に入ったのは初めてだ。
ジェイラスはアリシアを下ろそうとはしない。そのまま入室し、「座れ」と促されてもアリシアを膝の上に抱いたままソファに腰を落ち着ける。
「あの……ジェイラスさん、下ろしていただけないでしょうか?」
ランドルフの視線に耐えられなく、ジェイラスに訴えてみたが「駄目だ」と言われる始末。
「俺はアリシアを手放したくないからな。報告だけなら、ここでもじゅうぶんにできる」
「アリシア嬢、あきらめたほうがいい。私は君から話が聞ければいいから、気にしない」
二人の男に負け、シアは観念した。恥ずかしさを押し殺し、状況を受け入れる。
「では、アリシア・ガネル。私の質問に答えてほしい」
「は、はい……」
「君を王城から連れ出したのは誰だ? 君につけていたはずの人間も、いつの間にか君がいなくなっていたと、そう言っていた。それに心当たりはあるか?」
アリシアはランドルフの質問に、粛々と答えていく。
ジェイラスからは報告と言われたが、ランドルフが質問を口にしてそれに答えるだけだった。
「では、アリシア嬢にかけられている忘却の魔法は、その呪具のせいだと言うのだな?」
フランクが、呪具を使ってコリンナに忘却の魔法をかけようとしていたが、それがなぜかシアにかかってしまったと。
「はい。フランクがコリンナを狙ったのは、ギニー国とモンクトン商会のつながりを懸念したためです」
「なるほどな。ヘバーリアからすれば、我が国が海の向こうのギニー国と仲良くするのが面白くないと、そういうことか?」
「それも理由の一つだとは思うのですが……それよりもフランクは、自分のことを呪具師と言っていたのです。それが気になりました」
どういうことだ、とランドルフが身を乗り出す。シアは慎重に言葉を選ぶ。
「ヘバーリアでは、呪具師と呼ばれる呪具を扱う者たちがおりました。これは、ヘバーリアの地方の民族で、呪具と言いながらも魔法の一種のようなものです。呪具に魔力を込め、魔力のない者でも魔法が使えるように。考え方は魔法具と似ていますが、魔法具と呪具の違いは、生活に役立つか否かだと思っています」
魔法具は人々の生活を豊かにするもの。しかし呪具は、戦争の道具だったり犯罪に使われたりする。もちろん、魔法具だって使い方を帰れば、戦争や犯罪に使われることだってある。だから魔法具は、売買に関して厳しく管理されており、戦争や紛争が続く地域とのやりとりは禁止されている。
「もしかして彼は……呪具を……」
そこまで言いかけて、シアは言葉を呑み込んだ。これはただの推測だ。この場で不確実なことは言葉にしないほうがいいだろう。
「いえ、なんでもありません」
シアの言いたいことがなんとなくわかったのか、ランドルフは微笑んで頷いた。
そこで遠慮がちに扉を叩く音がした。
「どうやら、待ちきれなかったようだな」
ランドルフは誰が来たのかわかっているのだろう。「どうぞ」と促す。
シアは慌ててジェイラスの膝の上から下りようとしたが、ジェイラスがそれを許さず、がっしりと押さえ込む。
「失礼します、ヘリオスをお連れします」
クラリッサの声だ。
「まま!」
クラリッサの手を離し、ヘリオスがシアに駆け寄ってきた。紫色の瞳がきらきらと輝く。
「ラシュ、まま、だっこしてる」
よりによってヘリオスに見られてしまった。シアの顔が羞恥で真っ赤になる。
「リオも!」
だがヘリオスは、そんなシアの恥ずかしさなど気にもとめず、自分も抱っこしろとせがんできた。
ジェイラスはシアを解放しようとはしないから、シアはそのままヘリオスを抱き上げる。
「うっ」
二人分の体重がくわわり、ジェイラスが変な声を出す。
「ラシュ、おもい?」
「重くない。ヘリオスもママも軽いくらいだ」
やりとりを見ていたランドルフが、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「どうだい? クラリッサ。今なら私の膝が空いているが?」
だがクラリッサはやんわりとそれを断った。
「アンドリューが待っておりますの。そちらはまたの機会に。それでは失礼します、王太子殿下」
優雅に一礼し、クラリッサは部屋から出ていった。
「私はふられてしまったようだ」
クラリッサの姿が扉の向こう側に消えると、ランドルフがおどけてそう言った。
「だが……ジェイもそのような顔ができるようになったのだな」
「ん?」
「幸せそうってことだ」
ランドルフの満足げな微笑みに、ジェイラスの頬がわずかに緩んだ。
シアはヘリオスの小さな手をしっかりと握りしめる。