†ジェイラスの幸福
やはり、シアはアリシアだった。その事実にジェイラスは歓喜した。
間違っていなかった。ひと目でアリシアだとわかったその感覚。全身の血液が滾るように、心臓が震えたのだ。
だがそれでもランドルフは、シアがアリシアだと結論づけるのは早急過ぎると言い続けていた。ジェイラスよりも、もっと彼女に近い人間の確信が欲しいと。
だから彼女の両親、ガネル子爵夫妻が王城に呼び出された。家族だからこそ知るアリシアの特徴。
――アリシアは右耳の後ろに黒子があります。二つ並んでいて……。
彼女の身体の至るところに余すことなく口づけたのに、耳の後ろの黒子には気がつかなかったのが悔しい。
ガネル子爵夫妻は、今すぐにでもアリシアとヘリオスを連れて帰りたがっていたが、今の状態のアリシアを手放すのは危険だと判断したのはランドルフだ。
第二騎士団。伝令や雑用をこなすところだと思われているが、第二騎士団の一部は諜報活動を担っている。それは第二騎士団に所属する者すべてが知る事実ではなく、それに従事する一部の者しか知らない。
アリシアは伝令として各地を飛び回っていたが、彼女が伝える情報が狙われたと考えれば、腑に落ちるものがある。アリシア本人は自覚していないだろうが、彼女が伝えていた情報の中には、機密事項だって数多く含まれているのだ。それを伝令係には気づかれぬよう伝令を頼む。
その伝達事項の記憶のみを相手が奪いたいと考えるのが無難だろう、というのがランドルフの意見であり、ジェイラスもそれに同意した。
だから記憶のないアリシアを、王城から出すわけにはいかないのだ。
ガネル子爵夫妻には悪いとは思いつつも、記憶解析のためだと理由をつけて、アリシアを王城へとどめた。そして彼女を守るためだという理由で、時間を共に過ごしている。だが、ジェイラスもいい加減、騎士団の仕事に戻らなければならなかった。
彼女を一人にはできないため、ランドルフの計らいで見張りの侍女を配置させているが、それでもジェイラスは気になって気になって仕方ない。そんなふうにそわそわしていれば、ランドルフから突っ込みは入るし、チェスターもニヤニヤとした生温かな視線を向けてくる。さらに「人間に戻ってよかったな」と、わからぬ言葉までかけてくる。
しかし、そんな言葉に惑わされるほど、器量の狭いジェイラスではなかった。とにかく、アリシアが側にいてくれる事実。これをジェイラスの世界に輝きを与えていた。
なんとか魔法師長の予定が確保でき、アリシアの記憶解析を行える目途がついた。
「監察終わったばかりで、疲れてるの。でも、ジェイの頼みじゃ仕方ないわね」
できるだけかかわりたくなかったエイミだが、彼女、いや彼以外に記憶解析を行える者がいないのであればそこにすがるしかなかった。
その結果、アリシアは魔法によって記憶を操作されているとのこと。しかもヘバーリア国の術式の一つ、呪詛となれば、狙いは彼女が持つ情報に違いない。
どこでその呪詛を受けたのかわからないが、ボブたちの話から推測するに、王都からサバドへの移動中と考えるのが無難だ。アリシアがサバドに向かうことを知ったヘバーリアの人間が、彼女を狙ったのだろう。
しかもその術式の解除には、エイミでさえ五日を要するらしい。彼でなければそれ以上、いや解除などできなかっただろう。ホーガンではお手上げだと言う。
その五日間、アリシアにはできるだけ部屋から出ないようにと言ってはみたが、元気な二歳児を抱えて引きこもりは大変なようだ。
それを見越していたのか、ランドルフは庭であれば外に出る許可を出した。そこには王族専用の庭園も含まれ、子ども用の遊具もおいてある。これはアンドリュー王子のために作られた場所だが、すっかりと王子と仲良くなったヘリオスもそこへの立ち入りが許されていた。
ジェイラスには密かな夢があった。
それは自分の子が、自分と同じように王族の護衛につくこと。むしろランドルフの子だ。というのも、当時、死んだ魚の目とか精気が宿らぬ人間とか散々言われたジェイラスにとって、ランドルフの存在が唯一の生きる意味だったから。
ジェイラスはランドルフに感謝をしている。
そういった存在が、自分の子どもにいればいいなという、ささやかな理想でもあった。
「遅くまでお疲れ様です」
ジェイラスが部屋に戻ると、それに気づいたアリシアが声をかけてくる。寝ていてもいいというのに、ジェイラスと話をしたいから起きて待っていると言ったのだ。それを聞いただけでも、胸に熱いものが込み上げてきた。
ジェイラスは自分の感情を言葉にするのが苦手だ。アリシアに対してはなおのこと。余計なことを言って、彼女に嫌われたくなかった。
そして彼女は、何ごとにおいても我慢して、言葉を呑み込む女性だった。
ジェイラスが彼女に惹かれたと自覚し、告白したときも「無理です」「釣り合いません」と何度も断られた。
それでもジェイラスは粘った。
――変化を恐れていては前には進めない。
これはアリシアとの関係をランドルフに相談したとき、彼から言われた言葉である。
アリシアのことが好きなのだが、彼女に気持ちを伝えたことで、今の関係が壊れるのが怖いだのなんだのうだうだと言い訳していたら、ランドルフがそう言ってきた。
この言葉がなければアリシアの心を開けなかっただろう。悩みながらも彼女は、ジェイラスの気持ちを受け入れてくれた。
無理だの釣り合わないだの言っていたアリシアだが、ジェイラスを嫌っているわけではない、というのもランドルフの見解だった。
アリシアとの仲が進展したのはランドルフのおかげと言っても過言ではない。
そこから密かな交際は始まり、順調だと思っていたはずなのに――。
アリシアから見せられた三年前の手紙は衝撃的だった。
だが、今、目の前にアリシアがいる。三年前に彼女に何があったかはわからないが、ここに存在する彼女がすべてなのだ。
「どうされました?」
ジェイラスを見上げるキャメル色の澄んだ瞳は、以前と何も変わっていない。ソファでごろりと寝転んで、アリシアの膝の上に頭を預けた。
「ジェイラスさんとヘリオスはよく似ています」
ランドルフがいたから、生きていてもいいかなと思った。
アリシアと出会ったから、生きていてよかったと実感した。
ヘリオスの存在を知って、生きなければと決意した。
「不自由な思いをさせて申し訳ない」
たまに感情が爆発しすぎて、自分が抑えきれないときもある。記憶がなくて不安なアリシアに対してその気持ちをぶつけてしまったのは、少しだけ反省した。
「いいえ……今だけですから」
こうやってアリシアが髪を梳くようにして頭をなでてくれるのは心地よい。一日の疲れが、彼女の触れる指先で溶けていくようだった。
「でも、緊張しますし。やはり、怖いと思います」
「記憶のことか?」
「はい。記憶が戻ったらどうなるのでしょう?」
「そうだな。それは俺もわからない。だけど、俺はシアの側から決して離れない」
彼女は困惑したような笑みを浮かべつつ、いつまでもジェイラスの頭をなでていた。
だからジェイラスは、彼女が記憶を取り戻すまでの残りわずかな時間を、穏やかに過ごしてもらいたかった。
だというのに、その知らせは突然やってきた。
エイミが記憶操作の呪詛の解除を行うと宣言した前日だ。呪詛解除にはジェイラスも立ち合うから、こんもりと積まれた書類をさっさと終わらせようと、そう思っていたとき。
「団長!」
部下が慌てて飛び込んできた。扉が勢いよく開き、書類がひらりと床に落ちた。
「なんだ? 騒々しい」
「団長そっくりの男の子を保護したのですが……団長のお子さんでしょうか? もしくは、ご兄弟……」
ヘリオスだろう。だが、部下が困惑しているのは、ジェイラスが独身で恋人もいないと思っているからだ。
アリシアとの関係は、一部の者しか知らない。
「近くに母親はいないのか?」
ヘリオスだとしたら、必ず近くにアリシアがいるはずだ。彼女がヘリオスを放ってどこかに行くなど考えられない。
「はい。男の子一人です。泣きながら母親を探しているようでして……その子が団長の名前を叫んでいたものですから……」
「わかった。その子どものところに案内しろ」
ジェイラスが部下に案内された場所は、彼らの休憩室だった。近づくにつれ、子どもの泣き叫ぶ声が聞こえてくるが、間違いなくヘリオスの声だ。
「ラシュ、ラシュ」
騎士の一人に抱っこされていたヘリオスだが、ジェイラスの姿を見たとたんに身体を反らして、暴れた。
「ヘリオス。ママはどうした?」
「まま、いない。まま、いないよ? まま、どこよ?」
腕を伸ばしてジェイラスに抱っこをせがむ。部下たちはそれを制していたが、ジェイラスがヘリオスを預かった。
「俺の子だ。心配するな」
その宣言に、彼らの顔色がさっと変わる。
ジェイラスはヘリオスを抱きしめ、震える小さな身体を落ち着かせた。
「ヘリオス。何があった? わかるか?」
「リオ、わかんない。リオ、おそとにいた。ままもいた。でも、まま、いないよ? まま、まいご?」
「ママと一緒に外にいたが、いつの間にかママがいなくなっていたんだな?」
「そうよ。まま、いないよ? まま、まいごよ」
どうやらヘリオスとアリシアは外に出ていたようだ。となれば、庭園だろう。
「この子を保護したのは庭園だな?」
「そうです。前庭におりました」
前庭は、王城に出入りできるものであれば、足を踏み入れることのできる場所。
「どうやらこの子の母親がいなくなったようだ。自発的にいなくなったのか、さらわれたのかはわからない」
むしろ後者だろう。アリシアが自ら姿を消す理由がわからない。
それに見張りの侍女もいたはずだ。だが彼女たちも隠密に動いている。
「ヘリオス。お外で誰か見かけなかったか?」
「リオ、わかんない」
どうやら王城に出入りした者を確認する必要がありそうだ。
ヘリオスを抱いたジェイラスは、ランドルフの執務室へと足を向けた。