第五章(7)
昨夜もジェイラスが部屋に戻ってきたのは遅かった。扉が静かに開く音で彼の帰りを知ったが、言葉を交わす余裕はなかった。
今日、魔法師による記憶解析が行われる。気が張り詰めているせいか、シアはいつもより早く目が覚めた。
シアの隣ではヘリオスがすやすやと眠っているのに、その隣にいるはずのジェイラスの姿がない。部屋はまだ薄暗い。夜明け前だろう。
ヘリオスを起こさないようにと気を遣いながら、シアは寝台から抜け出した。
隣の部屋へ移動すれば、ソファに深く座ったジェイラスが、魔石ランプで手元だけ照らして何やら書類を睨みつけている。
「おはようございます。早いですね」
シアの声に、ジェイラスが顔を上げた。わずかに驚いたような笑みが浮かぶ。
「ああ、おはよう。君こそ、早いな」
「ええ。少し、緊張してしまって……ジェイラスさんは、お仕事ですか? お茶でも淹れましょうか?」
シアも喉を潤したい気分だった。
「頼んでもいいか?」
「もちろんです」
湯を沸かしてお茶を淹れ、ジェイラスの隣へと座る。彼はテーブルの上に広げていた書類をすっかり片づけて、静かに待っていた。
「あの……先日は、すみませんでした」
あの夜の自分の態度をきちんと謝罪していなかった。すれ違いの多い日々の中で、二人でゆっくり話す時間はなかった。
「いや……俺のほうこそ……」
「私、気持ちがぐちゃぐちゃで……。ジェイラスさんに愛されていたアリシアさんに嫉妬しました」
ジェイラスに嫉妬の姿を見せたくなかった。だが彼は、立場も仕事もあるのに、こうやってシアに寄り添ってくれている。
「シア……」
ジェイラスが驚いた表情で見つめてきた。紫色の瞳が、朝の薄光に揺れる。
「いやだったら拒んでくれ。今の俺は、ものすごく君を抱きしめたい」
「え?」
返事をする前に、ジェイラスが力強くシアを抱きしめた。彼のぬくもりが、薄い寝衣越しに伝わってくる。
「俺にとって、シアもアリシアも同じ人物だ。記憶のない君の中ではそうではないかもしれない。だけど、記憶があってもなくても、君は君なんだ。本質は変わらない」
「はい……」
「もし君が不安に思うのなら、無理して記憶解析なんて行わなくていい。だけど、これからも俺の側にいてほしい。俺の願いはそれだけだ」
「あっ……」
その言葉を聞いただけで、過去のアリシアに嫉妬していた自分が馬鹿らしくみえてきた。
何を不安に思っていたのだろう。昔の記憶があろうがなかろうが、アリシアはアリシアだ。
だが記憶を取り戻したいと思ったのは、ヘリオスがいるから。息子の父親をはっきりとさせたかった。
「ありがとうございます。でも、前にも言いましたように、私はヘリオスとその父親と暮らしたいのです。あなたは愛されて生まれてきた子なのよって、それをヘリオスに伝えたい」
「シア……」
なぜかジェイラスがシアの胸元に顔を埋めてきた。それは子どもが母親に甘えるようにも見えた。
(もしかして……ジェイラスさん、泣いてる?)
ジェイラスと両親の関係を聞いたときは、シアも胸が痛んだ。それでも彼の言葉からは両親を憎むような感情は感じられなかった。彼もまた複雑な立場にあり、それを理解しているのだ。
「私では力不足かもしれませんが……私がジェイラスさんを愛します。あなたは、愛されるために生まれてきた子だよって、伝えます」
ジェイラスの肩がぴくりと震える。
「……そうだな。俺はきっと、君と出会うために生まれてきたのかもしれない」
顔も上げず、くぐもった声で答えるジェイラスの背を、シアはやさしくなでる。以前、彼がそうしてくれたように。
「クラリッサ様とお話をして、私も前向きになろうと思いました。ジェイラスさんの隣に立つ人間にふさわしくないと思っていましたが、ふさわしくないならふさわしい人間になればいい。そのためにも、記憶を取り戻したいのです」
そこでシアは「あ」と声をあげる。
「あの……ジェイラスさん。本当は伝えるかどうか迷っていたのですが……」
「なんだ?」
そこで彼が顔を上げた。紫眼が少しだけ潤んでいる。
「お見せしたいものがあります」
すると今度は、紫の瞳が不安そうに揺れた。
シアは席を立つと、以前、荷物の隙間に隠した手紙を手にする。それをジェイラスに手渡した。
「これ、三年前のアリシアさんが書いたものだと思います。宿舎で見つけました」
シアから手紙を受け取ったジェイラスの手は、微かに震えていた。
「三年前のアリシアさんのことは、今の私にはわかりません。だから、一つだけお願いがあります」
シアはキャメル色の瞳で力強くジェイラスを見つめる。
「私が記憶を取り戻し、その手紙のような行動をとったとしても、絶対に追いかけてきてください」
ジェイラスは、なぜシアがそのようなことを言ったのか、理解しきれていないのだろう。すぐに手紙を広げて目を通すが、その顔色がさっと変わる。
「三年前に何があったのか、私にはわかりません。だけど今の私は、ジェイラスさんの側にいたい。三年前のアリシアも今の私も、本質は同じだとジェイラスさんは言いました。私は、ジェイラスさんのことが好きです。だから記憶が戻ったとしても、それに変わりはありません」
「……わかった。三年前、なぜ君がこのような行動を取ったのか、理由はまだわからない。だがもう一度、俺から逃げるのであれば……世界の果てまで追いかける」
ジェイラスの手紙を持つ手に力が入り、クシャリと音を立てる。シアはその彼の手を、両手でそっと包み込んだ。
シアが記憶解析を行っている間、ヘリオスはアンドリューと遊んで待つことになった。
解析が行われる部屋は王城の奥深く、石壁に囲まれた静かな空間。魔石ランプが青白い光を放ち、冷たく重い空気が漂う。
この場には、シアとジェイラス、そしてランドルフ。魔法師として師長のエイミと副師長のホーガンの五人が集まった。
「ほんと、ルフィとジェイの頼みだから引き受けたって感じなんだけど……なんなの、この子……」
シアが引くくらいに顔をずいっと近づけてきたのが魔法師長エイミである。腰まで届く闇のような黒い髪、切れ長の黒い目に、艶やかな唇が異様な存在感を放つ。ドレスの上に白衣を羽織っているが、強調された胸元がシアの目を引いた。彼女の強烈な雰囲気に、シアは思わずたじろいだ。
「どうだ? できそうか?」
ジェイラスがむすっとしたままエイミに問いかける。
「そのできそうって、どういう意味のできそうかしら? 記憶解析はするまでもないけど……それはできる。だけど、この魔法を解除しろというのは、今すぐには無理ね。いえ、これは魔法というよりは……」
エイミはシアに向かって人差し指を突きつけた。黒く塗られた長い爪が、目の前に迫る。そのまま指で宙に五角形を描くと、対角線が光を放ち、星型を形成した。星型の光はシアの額にひゅっと吸い込まれる。
「えっ?」
シアの頭の中に白いもやがかかった。もう少しで何かが思い出せそうなのに、そのもやが邪魔をして見えてこない。
「何か、思い出したかしら?」
「あ、いいえ……」
エイミに声をかけられ、シアは戸惑いをみせた。思い出したかと問われても、頭の中はもやに覆われていて何も見えない。
「うん。間違いないわ。この子、呪詛によって記憶を操作されているわね。今、記憶回路を刺激したんだけれど、反応がまったくない」
両手を腰に当て「どうだ」と言わんばかりに、エイミは胸を張る。だからつい、シアは強調された胸元に視線がいってしまう。
「偽物だ」
ランドルフがぼそりと呟き、シアは思わず彼を見た。
「エイミのそれは偽物だ。そしてこいつは、こう見えても男だから、騙されるな。エイミとはこいつが自分で勝手に決めた名前だ。本当の名は――」
「ちょっとルフィ。これはあたしのアイデンティティ。見た目と性別と名前なんて、今は関係がないでしょ」
「そうだな。だが、何も知らないシア嬢がかわいそうだ。それにそのうち君は、ジェイにべたべたと触れまくるんだろ? パーティーのたびに、君はジェイにちょっかいを出している」
「だって、ジェイったらいい男よね? いい男がいたら、触りたくなるでしょ? 残念ながらルフィは好みじゃないの。もしかして嫉妬?」
エイミが片目をつぶってジェイラスとランドルフにアピールするが、二人は「ふん」と鼻を鳴らし、顔をそむけた。
「話がずれている。本題に戻せ」
ジェイラスはエイミに顔すら向けずにそう言った。
「ごめんごめん」
顔の前で両手を合わせるエイミは、わざとらしい。
「ジェイの恋人ちゃんの記憶なんだけど。呪詛の干渉を受けて、記憶の一部がいじられている」
「てことは、やはり彼女の記憶喪失は魔法によるもので間違いないな?」
ジェイラスの言葉にエイミは頷き、言葉の先を奪う。
「そうね、魔法の一種の呪詛。だけどこの術式ね。あたしの知っているものとはずいぶん異なっているのよね」
「ユグリで一番の魔法師が弱気だな」
ランドルフが茶化せば、エイミは毛並みを逆立てた猫のように目を吊り上げる。
「はぁ? あたしが知ってるものとは違うって言っただけ。これは、隣のヘバーリアで流行ってる術式。ま、大天才なあたしであれば、できないこともないですけど?」
「ヘバーリアだと?」
ジェイラスが眉間にしわを寄せる。
シアもヘバーリア国には聞き覚えがある。ランドルフがサバドに視察にきたとき、モンクトン商会の屋敷に押し入ったのがヘバーリア国の刺客だ。
「そ、間抜けなホーガンが尋問しようとして、さくっと殺されちゃったアレ。アレと術式が似てるのよ。あれも呪詛で殺されたでしょ?」
話を振られたホーガンの顔色が、さぁっと変わった。急に寒くなったのか、自身で身体を抱きしめる。
「う~ん、今すぐは無理だけど。前のアレで術式解析を行っているところだし、少し時間をもらえればなんとかなる。あたしに解析できない術式なんて、この世に存在しないもの」
今にも高笑いしそうなエイミをすぐにランドルフが制した。
「それで、どのくらい時間は必要だ?」
「やだ、ルフィ。人使い、荒い」
「彼女は第二騎士団の伝令の人間だ。このままにしておくわけにはいかないだろう?」
「第二騎士団? 諜報……ヘバーリア……なるほどね」
そこでエイミはきれいな指をパチンと鳴らし、そのまま開いて手のひらを見せつけた。
「五日。五日でなんとかしてみるわ」
「五日もかかるのか? ユグリ一番の魔法師が落ちたものだな」
ランドルフが何かとエイミを挑発する。
「ルフィのその手にはのらないわ。あたしもね、ちょっと年を取ったから、魔力の回復に時間がかかるのよ。脳みそもね」
年を取ったという言葉で、シアは彼女の年齢が気になった。