第五章(5)
「俺がアリシアに会ったのは、そんなときだ。君が伝令係として、俺のところにやってきた。だが、日頃の無理がたたり、君の前で倒れてしまった。気がついたら、こうやって君が頭をなでてくれていた……」
やはりシアには覚えのない話だ。
「父には君のことを伝えてある。自分は結婚に失敗したくせに、人には結婚しろとうるさかったからな」
「そうなんですね……」
「父も反対はしない。そこは安心してほしい」
「どうしてですか? 身分も見目も、ジェイラスさんと釣り合うとは思えないのに……」
「俺が選んだ女性だからだ……」
そこで彼は気持ちよさそうに目を閉じた。これ以上、話すことはないとでも言うかのように。
だが、シアの心臓はぎゅっと鷲づかみにされたくらいに苦しかった。この感情を知っている。これは嫉妬。シアは過去のアリシアに嫉妬している。
ジェイラスは、シアを通してアリシアを見ていた。ずっと彼女を求めていた。シアではない。
その事実に気づいたときに、得体の知れないもやもやが胸の奥から込み上げてきた。
(私……ジェイラスさんのことが好きなんだ……)
そうでなければ過去の自分に嫉妬などしない。
ボブやコリンナに言われて、サバドではヘリオスで三人の生活を送ってみた。あまりにも自然で、好きだとか嫌いだとか、そういった感情に気づかなかった。むしろ彼と暮らすことは、当たり前だと思っていた。
だが記憶を取り戻すと決意して王都に来て、ジェイラスが過去のアリシアを求める姿を見たら、どこか心が苦しかった。
(彼が結婚したいのは、私ではなくアリシア……)
アリシアになりきれないシアにとって、この感情をどう処理したらいいかがわからない。
つぅっと涙が頬を伝った。そのままぽたりと涙は落ち、ジェイラスの額を濡らす。
「……シア?」
眠ってはいなかったのだろう。額に落ちた何かに気づき、彼もはっとする。
「泣いているのか?」
ジェイラスが慌てて身体を起こす。
「シア……? どうした?」
「ごめんなさい……なんでも……ありません」
「なんでもなくて、泣くやつがいるか? 前にも言っただろ? シアは自分の気持ちを隠すんだ。鈍い俺は言葉にしてもらわなければわからない」
その言葉だって過去のアリシアに向けられたものだ。シアではない。
「私は……アリシアじゃないから、あなたにふさわしい……んっ……」
言葉の続きは、ジェイラスの唇に飲み込まれた。彼は、それ以上は言うなと、唇を重ねることでシアの言葉を塞ぐ。
「んっ……」
息もできないくらいの激しい口づけは、シアの思考をぐちゃぐちゃにする。
もっと彼に触れたくて、彼を知りたくて、味わいたくて、シアのほうから手を伸ばして求め始める。
ジェイラスが触れているのは今のシア。過去のアリシアではない。そんな優越感が生まれてきたが、同時に過去の自分への嫉妬が胸を刺した。
ソファに押し倒されものの、ジェイラスの激しい口づけは終わらない。
ざわめく感覚が、記憶の蓋をこじ開けようとしている。
「アリシア……会いたかった……こうやって、触れたかった……」
ジェイラスが胸元に顔を寄せる。
それ以上は受け入れていけないと思いながらも、どこか恍惚とした優越感がシアを支配する。
「やぁ……ラス……んっ」
アリシアがジェイラスの名を呼んだところで、彼の動きが止まった。滾るような情欲を宿した瞳が、歓喜に震えながらシアを見下ろした。
「シア……記憶が戻ったのか?」
彼の獣じみた眼差しが、歓喜に震えている。
彼が見ているのは、過去のアリシアだ。今のシアではない。
胸の熱が一気に冷め、虚しさが押し寄せた。
「いやっ」
アリシアは、ドンとジェイラスを突き放す。突然のことに驚く彼が力をゆるめた隙に、その身体の下から抜け出した。
「ジェイラスさんは、過去のアリシアばかりを追いかけている」
乱れた寝衣を急いで直し、息を整えた。
「おやすみなさい」
シアはそれだけ告げると、その場から逃げ出した。
ジェイラスが愛しているのは過去のアリシアだ。シアに触れながらも、昔のアリシアを見ている。
同じ人間かもしれない。だけど記憶のないシアにとって、それは虚しく悔しいもの。
こんな醜い感情に支配されている姿を、ジェイラスに見られたくなかった。
彼に対する気持ちを自覚してしまったから、なおさらだ。彼の隣に立つ資格が欲しいと願ってしまう。
寝室の扉を開ければ、ヘリオスの愛らしい寝息が聞こえてきた。寝台に滑り込み、息子の小さな温もりに寄り添う。
先ほどジェイラスに触れられた場所がまだ熱く、身体が疼いた。
どうしたら自分に自信が持てるのか、それがわからなかった。
記憶を取り戻せばいいのか。騎士団に復帰すればいいのか。
そんな感情に振り回されるのも、彼に愛されたいからだ。そして、彼にふさわしい人物でありたい。今のシアを見てほしい。
ヘリオスの鼓動を感じ、やっと心が凪いできた。重くなる瞼に抗わず、うとうととし始めたとき、寝室の扉が開いたのを感じた。
ジェイラスの足音が近づいてくる。昨日もこうやって三人で寝たのだから、不思議ではない。
届きそうで届かない記憶と恋慕をもどかしく思いながらも、シアは睡魔に負けた。