第五章(4)
アリシア・ガネルだった――。
その事実にシアは安堵のため息を漏らすものの、それでも自分がアリシアだったときの記憶がすべて戻ったわけではない。アリシアでありながらも、まだシアという人間なのだ。その狭間で、心が揺れ動く。
ガネル子爵夫妻は、しばらくの間、王都の別邸に滞在しているという。本来であれば、アリシアもそこで一緒に暮らすのが望ましいが、王城という守られた空間にいるべきだというのが、ジェイラスの主張だった。
だからすべての記憶を取り戻したら、両親のもとへ行くと約束をした。そのときには、ヘリオスを連れてきてほしいと懇願され、嬉しさと同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
シアがアリシアだと証明された今、やるべきことは山積みだった。
まずはアリシアの上官、第二騎士団を束ねる団長ブルーノのところへ行き、今までのこと、今後のことについて相談する流れとなった。
状況はすでに知らされていたようで「元気だったか?」と声をかけられたが、残念ながらアリシアは彼のことも覚えていない。人のよさそうなおじさんとしか思えなかった。
ジェイラスが説明するには、アリシアの不在は「第二騎士団の諜報活動によるもの」とされ、表向きは休職扱いだったという。複雑な設定に、シアは頭を整理するのに時間がかかった。
またぽっぽちゃんは、第二騎士団で管理する伝書鳩の一羽だった。今は、他の鳩と一緒に鳩小屋に戻っているらしい。
そのまま宿舎に向かった。アリシアを知る顔が「久しぶり」「懐かしいわね」「どうしたの?」と声をかけてきたが、ジェイラスが「任務だ」とぼそりと答えると、彼女たちは何かを察したように会話を切り上げた
必要な物だけを持ち、ジェイラスの私室に戻ると、窓から差し込む夕陽が部屋をオレンジ色に染めていた。
「ヘリオスを迎えにいってくる」
ヘリオスはランドルフが連れていったまま。相手が王太子ならば、ジェイラスに任せるのがいい。
ジェイラスも部屋を出ていったため、シアがぽつんと一人、残された。
宿舎から必要なものとして騎士服を持ってきたが、手入れがされておらず、埃っぽいにおいが鼻につく。着るには手入れが必要だが、時間だけはたっぷりある。
他には、机の上に置いてあった手紙が気になった。どうやらジェイラスに宛てて書いたものらしいが、シアにはさっぱり記憶がない。となれば、これは間違いなく三年以上前に書いたもの。
ジェイラスに渡そうか悩んだが、なぜかシアの中のアリシアがそれを拒んだ。だから隠すようにして持ってきた。
それに、何が書いてあるのか興味があった。もしかしたらこの手紙によって、記憶が戻るかもしれない。
とにかく魔法による記憶解析の前に、シアとアリシアを繋ぐきっかけを手にしておきたかった。
好奇心と恐怖が混じる中、シアは誰もいないことを確認し、そっと封を開けた。
【結婚の話はなかったことにしてください。
騎士団を辞めて、実家に帰ります。
今までありがとうございました。
私のことは、忘れてください――】
手紙の内容に、呼吸を忘れてしまうくらいの衝撃が走った。文字は読めるが、内容を理解することを頭が拒んでいる。
だが、筆跡は間違いなくシアのもの。記憶がなくても筆跡は変わらなかった。だから、自分が書いた文字だとわかるのだが。
(アリシアはジェイラスさんと別れたがっていた?)
ドクンドクンと心臓の音が異様に大きく聞こえる。開けてはいけない厄災の箱を開けてしまった気分だ。
(どうして? アリシアに何があったの? でもジェイラスさんは、別れ話については何も言ってなかったし……)
それどころか求婚をして、それを受けてくれたと、嬉しそうに話していたではないか。
(アリシアはその求婚を受けてから、気が変わったってこと?)
シアにはわからない。だけど、これをジェイラスに見せては駄目だと、心の中のアリシアが叫んでいる。
とにかくこの手紙を見なかったことにして、ジェイラスに見つからないようにと自分の荷物の中に忍び込ませた。
部屋の外から、賑やかな声が聞こえてきた。
「ただいま戻った」
「ラシュ、たかいね~」
ヘリオスを肩にのせたまま部屋に入ってきたジェイラスだが、ヘリオスの頭が扉の枠にぶつかりそうで、ヒヤヒヤしてしまう。
「おかえりなさい。リオは何をして遊んだの?」
息子を見上げ、シアは笑顔を装った。
「おもちゃ、いっぱいよ。リュー、リオよりちいさいよ」
「アンドリュー王子と遊んでいたらしい。喧嘩することなく、仲良く遊んでいたそうだ」
我が子が王族と一緒に遊んでいた現実に、めまいがしそうだった。だがヘリオスがジェイラスの子であれば、そういった関係は自然なもので、今後も続くのだろうか。
「そう。お友達と仲良く遊べて、よかったわね」
そもそもアンドリュー王子を友達と呼んでいいのか。そんな疑問がアリシアの中に生まれた。
三人で夕食をとり、サバドでの生活と同じように時間を過ごした。
だが、サバドの生活と違うのは、シアが何もしなくてもよいということだろう。食事の準備をしなくても出てくるし、もちろん片づけもしなくていい。洗濯もしてもらえるようだが、それには少し抵抗があった。だから自分でやると言ったが、却下された。人を使うことに慣れろという意味らしい。
アリシアの出自とジェイラスとのこれからを考えれば、彼の言うとおりなのだが、それでもシアからアリシアになるには、まだまだ壁があった。
「ヘリオス、今日はすぐに寝たよ」
ヘリオスの寝かしつけはジェイラスの担当だ。その間、シアが洗い物だったり、次の日の朝食の準備だったり、洗濯物を片づけたりと、やることがいっぱいあったからジェイラスが引き受けてくれたのがきっかけだった。
「新しい場所で興奮していたから心配していましたが、安心しました」
やることもなく、シアはただソファに座ってぼうっとしていた。ヘリオスと一緒に寝てもよかったのだが、シア自身も変に気持ちが昂っていたし、何よりもジェイラスが二人きりで話をしたいと言っていたからだ。だから彼が来るのを待っていた。
この部屋はシアがサバドで暮らしていたアパートメントよりも広い。寝室は扉続きの隣の部屋、居間だってヘリオスが走り回れるくらいに広い。ジェイラスはここで仕事をすることもあるようだ。
「何か、飲むか?」
自然とシアの隣に座ったジェイラスが尋ねる。
「いいえ……」
シアは首を横に振った。
「疲れただろう? 俺のわがままに付き合わせて悪い……」
「いえ」
だが、先ほどの手紙がシアを変に緊張させていた。
「……シア。甘えてもいいか?」
「え?」
「いや……いつもヘリオスが側にいるからな。俺がシアに甘えられるのは、ヘリオスが眠った今くらいしか……」
まるでじゃれてくる大型犬のようだ。
「俺はずっと君がアリシアだと思っていたが、それでもやっぱり……はっきりするまではと思って、我慢していたんだ。偉いだろ?」
「我慢……?」
「そう。今だって君に触れたい。甘えたい。いいか?」
「甘えるって……? 何を?」
結婚はしていないが、結婚を約束した男女とあれば、やはりそういったことを望まれるのだろうか。
シアは変にとぎまぎしてしまう。
「甘えるって、こういうことだ」
ごろんとソファに横になったジェイラスだが、彼の頭はシアの膝の上に乗っている。
「疲れた」
ぼそっと呟く姿は、普段の凜々しい姿の彼からは想像できない。
シアはそっとジェイラスの髪を指で梳く。
「お疲れ様でした」
気持ちよさそうにジェイラスは目を細くする。
「アリシアは、いつもこうやって頭をなでてくれていた」
「そうなんですね」
本当に甘えている。ヘリオスみたいだ。ヘリオスの機嫌が悪いときもこうやって頭をなでて、ご機嫌とりをしたものだ。
そこでシアは新しい発見をしてしまった。ヘリオスとジェイラスは耳の形がよく似ている。
「あの……ジェイラスさんは、どうしてヘリオスが自分の息子だと、そう思えるんですか?」
シアから見ても、共通点の多い二人である。コリンナとボブだって、ジェイラスが自分の子だと言ったときに驚きもしなかった。第三者から見ても似ているのだろう。
だけど記憶のないシアにとっては、不安は拭いきれない。
「目の色だ。この色は珍しく、ケンジット家に見られる色だ。俺とヘリオスの目の色は同じだろ? ついでに言えば、俺の父親も同じ目をしている」
「ジェイラスさんのお父様は、どのような方なのでしょうか……」
何よりもケンジット公爵だ。田舎貴族のガネル子爵とは、格が違う。
「どんな人か……まあ、弱い人だな」
ぼそっと答えるジェイラスの目は、どこか遠い場所を見ているかのよう。
「ケンジット家は、代々騎士の家系でね。父も騎士だった。父が引退し、俺がその地位を継いだ。だから、親の七光りだなんだとよく言われたものだ」
若くして近衛騎士団長になったのだろうとは思っていたが、そんな背景があるとは知らなかった。
「父と母は典型的な政略結婚だ。俺が生まれたら、母は勤めを果たしたと言わんばかりに、父から距離を取った。同じ屋敷にいるのに、お互い、相手がいない者だとして扱っていた」
両親の不仲をまざまざと見せられた子は、どんなことを思うのか。
「父は仕事に逃げた。母は酒に逃げた。俺は……父に連れられ王城に来ていた。殿下の遊び相手だな。それにたった一人の跡取りだから、父は手放したくなかったのだろう」
この部屋はジェイラスの父親が使っていた部屋だという。父から団長を引き継いだときに、この場所も一緒に引き継いだらしい。
「酒に溺れた母は、身体を壊して亡くなった。表向きは病死にしてあるが……。まあ、その年に父も騎士を辞めて、俺にすべてを引き継いで、屋敷に戻った」
だから弱い人なんだと、彼は呟いた。
その呟きには、深い悲しみがにじんでいた。シアはそっと彼の髪をなで続け、その痛みを少しでも癒したいと思う。




