第五章(3)
その人たちをひと目見た瞬間、せつなさが込み上げてきた。心の奥の閉ざされた扉が、そっと開くような感覚に襲われる。
「アリシア……」
落ち着いた翡翠色のドレスを身につけ、金色の髪を一つにまとめた夫人は、目に涙をためて今にも倒れそうだった。その華奢な身体を、隣に立つ男性が静かに支える。
「ガネル夫人、先ほどお話ししたように、彼女には自身に関する記憶がいっさいないようだ」
ランドルフの落ち着いた声が、室内に響く。
「彼女がアリシア・ガネルであるという確かな証拠が欲しい」
その言葉に促され、夫人が嗚咽を漏らしながら、震える声で言葉を紡いだ。
「アリシアは……右耳の後ろに黒子があります。二つ並んでいて……夫と同じ場所にあるから、親子なんだと……あの子の髪を結わえたときに……」
夫人の声は、過去の思い出に浸るように震えている。ランドルフは近くにいた侍女に目配せし、確認するようにと指示を出す。
「失礼いたします」
侍女がそっとシアの耳に触れる。冷たい指先が肌に触れ、シアの身体には緊張が高まっていく。
「殿下。ございました」
侍女の言葉に、ジェイラスもひょいっとのぞき込んできた。
「あぁ……アリシア……」
「お母様?」
シアは思わず一歩踏み出した。夫人をつい母と呼んでしまったが、彼女は自分の母親で間違いないと本能が叫んでいる。
「アリシア」
見知らぬ女性に抱きしめられながらも、彼女は母だとそんな確信に満ちていた。
「生きていてよかった……三年もの間、あなたは行方不明で……」
「ごめんなさい」
「でも、殿下から話をうかがって……大変だったのね……」
母娘の感動の再会の場で「まま~」という幼い声が響く。シアははっとして、母親からそっと離れ、振り返る。
「あ、あの……」
「まま、だっこ!」
ヘリオスがジェイラスからシアに向かって小さな腕を伸ばし、じたばたと暴れた。
「こら、おとなしくしていなさい」
ジェイラスが慌てて宥めようとするが、ヘリオスも顔を背け、背中を反らし、必死に対抗している。
「アリシア……その子は……」
「まま、だっこ」
「すまない。俺ではもう限界だ」
ジェイラスがヘリオスに負けた。
シアは息子を預かったが、目の前の両親は目を見開いて、じっくりとヘリオスの顔を見ている。
「ええと……息子のヘリオスです。リオ、お名前、言える?」
「リオよ」
室内がしんと静まり返り、気まずい沈黙が流れる。だが、幼いヘリオスが空気を読むなど、そんなことできるわけがない。
「だあれ?」
夫人に向かって首を傾げるヘリオスに、夫妻は柔らかく微笑んだ。
そこへランドルフの声が静寂を破る。
「これで彼女がアリシア・ガネルだと証明できた。積もる話もあるだろう。この部屋を自由に使ってもらってかまわない。私は次の予定があるので失礼する」
ランドルフがシアに歩み寄ると、ジェイラスが鋭い視線でけん制した。
「ジェイ。私が用があるのはアリシア嬢ではない。おまえの息子だ」
その言葉に、ガネル子爵夫妻の顔色がさっと変わった。
シアが息子だと紹介したばかりの子どもを、ランドルフはジェイラスの子だと言う。
「ヘリオス。おもちゃがたくさんある部屋がある。そこでは君と同じくらいの男の子が遊んでいる。一緒に遊ぶか?」
「殿下!」
ジェイラスが声を荒らげたが、ランドルフは涼しい顔で続ける。
「大人の話し合いの場に、この子がいたら気を遣うだろう? 私なりの配慮のつもりなのだが?」
ランドルフの言うことも一理ある。確かに、この場ではシアがアリシア・ガネルであり、ヘリオスを授かった経緯を話さなければならない。記憶を取り戻すためにも過去をさらい、未来を決めていく必要がある。
「リオ。どうする? おもちゃがいっぱいあるって。お友達もいるみたいよ?」
シアが声をかえれば、ヘリオスも「おもちゃ」と声をあげる。
「どうやらこの子は、父親と違って物わかりがいいようだ。おいで、ヘリオス」
その声に従い、ヘリオスはシアの腕からランドルフの腕へと移る。
「アンドリューよりも重いな。だが、父親と違って素直な子だな」
先ほどからランドルフは「父親と違って」と強調している。そのたびに、ジェイラスのこめかみはひくひくと動くのだ。
「では、ヘリオスは私が預かろう。ジェイラス、おまえはここに残れ。どうぞごゆっくり」
ランドルフがヘリオスを抱いて退出すると、室内にはガネル夫妻、シア、ジェイラスが残された。ランドルフもごゆっくりと言ったのだから、ここは顔を合わせてじっくりと話をすべきだろう。
シアは不安になり、ちらちらとジェイラスに視線を送る。それに気がついた彼が、ガネル夫妻にソファに座るようにと促した。
シアにとって、この状況はひどく気まずかった。アリシア・ガネルだと証明された今、目の前の二人が両親だとわかっても、記憶は曖昧なまま。隣にいるジェイラスとの関係は、さらに不確かだ。
腰を落ち着けたところで、すかさず先ほどの侍女がお茶を用意して四人の前に置いた。白い湯気がゆらゆらと立ち上り、部屋に穏やかな香りを広げる。
「何から話せばいいでしょうか……」
ジェイラスが静かに切り出した。
「できればアリシアがこの三年間。どうやって過ごしていたのかを……」
答えたのはガネル子爵。シアと同じキャメル色の瞳には安堵の光を宿している。だが、空白の三年間を埋めたいという切実な願いも感じられた。
シアは、三年前サバドで目が覚め、そこで自身に関する記憶を失っていたところから話し始めた。モンクトン商会での生活、養護院での教師としての日々、ヘリオスの誕生。言葉を紡ぐたびに両親の目が潤む。
ひととおり話し終えたところで、シアはカップに手を伸ばし、渇いた喉を潤した。紅茶のぬくもりが、高まった気持ちを落ち着ける。
両親は、かける言葉を探しているようにも見えた。
三年間行方不明だった娘が、子を授かり、ケンジット公爵家の嫡男と関係を持っていたのだ。驚くのも無理はない。
「つまり、閣下は本当にアリシアと……? 手紙をいただいたときは、夢かと思っていましたが……」
その言葉の先を認めるのが怖いのか、ガネル子爵が言葉を詰まらせた。
「はい。順番が逆になってしまいましたが、三年前、俺は彼女に求婚しました。その正式な返事をもらう前に、彼女が行方不明になってしまい、三年間、答えは保留にされておりましたが」
ジェイラスは自嘲気味に笑うと、シアの心に小さな痛みが走る。
「多分……ジェイラスさんに求婚されて。それで実家に帰ろうとしたときにコリンナたちと出会って、そこで馬車の事故に巻き込まれたんだと思います」
母親は唇を噛みしめたまま、うんうんと頷く。涙が頬を伝う姿に、シアの胸が締め付けられる。
「このような場で申し訳ないのですが。どうかアリシア嬢との結婚を認めていただけないでしょうか」
ジェイラスが深く頭を下げた。
予想していなかった彼の行動に、両親もアリシアも驚き肩を震わせる。
「か、か、か、閣下。頭をあげてください。アリシアを望んでくださってありがとうございます。ふつつかな娘ではありますが、どうぞどうぞ……」
父親が動揺している様子が伝わってきた。
「ありがとうございます。それからもう一つ。お伝えしなければならないことが……」
顔を上げたジェイラスの表情は真剣そのものだった。
「彼女の記憶解析を行わせていただきたい」
記憶解析。馴染みのない言葉に、両親も顔を見合わせる。
「彼女が失った記憶は断片的です。彼女自身に関することだけを忘れている。だから自分の名も、年齢もすべてを忘れていた。だが、それまでに学んだことは覚えていたようです」
どういうことでしょう、とガネル子爵が眉を寄せる。
「先ほども言いましたように、彼女はサバドの養護院で子どもたちに勉強を教えていました。それは彼女自身に、教えられるだけの教養があったからです。そういった教養、生活に必要な知識は人並み以上に備えていました」
シアはふと考える。もしすべての記憶を失っていたら、文字の読み書きも、言葉の理解もできなかったかもしれない。そんな世界に放り出された恐怖を想像すると、背筋が寒くなった。
「我々は、彼女の記憶は魔法によるもので封じられていると考えています」
「魔法……」
シアもぽつりと呟く。その考えはなかった。馬車の事故のときにシェリーを助けたと聞いていたから、そのときに頭を強く打ったのだろうと、そんなふうに考えていたのだ。魔法によるものだなんて、思ってもいなかった。
「そのためにも、魔法師による記憶解析。それを行わせていただきたい。記憶を操る魔法は精神に干渉するため、本人の他にも身近な家族の同意が必要です」
「アリシアは?」
やさしい眼差しで尋ねてきたのは、母親だ。彼女を見ると、涙が込み上げてくるくらい懐かしいというのに、その思い出が何もない。
「私は、自分の記憶を取り戻したいです。こうやってわざわざ会いに来てくれたお父様やお母様のこと、何も覚えていないので。それに、ヘリオスの父親のことも……」
隣でジェイラスがピクリと反応を示す。
「私たちは娘の気持ちを尊重します。彼女が嫌だというなら、無理やりは望みません。娘の気持ちが私たちの気持ちだと思ってください」
ガネル夫人の言葉は、決して無責任ではなく、シアを支える深い愛に満ちていた。娘の決断を尊重し寄り添う姿勢が、シアに勇気をくれる。
「ジェイラスさん。よろしくお願いします」