第一章(2)
どれくらい眠っていただろう。部屋の空気がほのかに白み始め、夜と朝が溶け合う微妙な時間帯。アリシアが小さく身じろぐと、素肌に触れるシーツが、かさりと音を立てる。
昨日、喘ぎすぎたせいか喉がからからに渇いていた。水を飲むために身体を起こすと、昨夜の熱の名残が足の間からどろりとあふれ、肌をつたって流れていく。
そっと視線を横に流せば、彼はまだ気持ちよさそうに眠っている。
普段は眠りの浅いジェイラスだが、昨日はお酒も入ったうえに、何度もアリシアを求めてきた。なによりも彼は、アリシアが側にいることで安心して眠ることができる。
(そういえば……初めて顔を合わせたときは、ひどい顔をしていたかも……)
それは伝令係として配属され、ジェイラスに初めて呼び出されて命令を受けたときだ。
彼は団長らしく威厳に満ちた表情でありながらも、どこか疲れを感じさせた。だが本人はそれを隠しているし、恐らくそれに気づいた者はアリシア以外いなかったのかもしれない。
『第二騎士団の東詰め所に、夕方四時まで伝えてくれ。間に合うか?』
騎士団に所属する者は、王城と回廊でつながる騎士棟に詰めていて、ジェイラスの執務室もそこにある。しかし、王都の警備にあたる第二騎士団は、街のいたるところに詰め所を構えていた。
『はい、一時間もあればじゅうぶんです』
アリシアがそう答えたのは二時。そしてジェイラスの執務室を出ようとしたところ、大きな音がした。ジェイラスが椅子に座っていながらも倒れてしまったのだ。
アリシアは慌てて駆け寄り、彼を支えてソファまで運んだ。そこで横になってもらう。
しかしこんな状態のジェイラスを置いて部屋を出て行けるほど、アリシアも薄情な人間ではない。まだ時間的にも余裕がある。ぎりぎりまで彼の様子をみて、それでも彼が目を覚まさなかったら誰か他の騎士、副団長あたりに連絡すればいいだろう。
と、そんな呑気なことを考えていたのだが、それから三十分後、目を覚ましたジェイラスが、こちらが恥ずかしくなるくらいに赤面するとは思ってもいなかった。
考えてみたら、ジェイラスの頭はアリシアの膝の上にのっていた。眠っていながらも苦しそうに眉間にしわを寄せている姿がかわいそうに見え、彼の濃紺の髪を梳くようにしながら、やさしく頭をなでていた。
すると彼の表情がやわらぐのだ。
そんな発見をしつつも、アリシアは彼が目覚めるのを待った。
アリシアとしては、弟や妹が眠れないと泣くときにいつもやっていたことだったので、特別、意識したわけではない。
だけどジェイラスにとってはそうでもなかったのだろう。
『すまない』と謝罪しつつも『俺は眠りが浅いほうで、最近、なかなか眠ることができなかった』と、そんなことまで言い出した。
さらに団長になったばかりで気も張り詰めていたようだ。若くして上位職に就くというのは、羨望と嫉妬の眼差しを向けられる。
アリシアが彼を尊敬していたのも、自分とさほど変わらぬ年で、団を率いる立場に就いていたこともあげられる。
だが、思い返してみれば、それがきっかけだったのかもしれない。
ジェイラスは、アリシアが執務室を訪れるたびに、決まって三十分ほど仮眠をとるようになった。しかも、いつもアリシアに膝枕を頼み、頭をなでてほしいとねだるのだ。アリシアにとっては大きな弟ができたような気分だった。
日に日に彼の顔色が良くなっていくのを見ると、アリシアも次第にその状況を受け入れていった。
ある日、彼がこう切り出した。
『俺と結婚を前提に付き合ってほしい。おまえがそばにいると、俺の心が安らぐんだ』
こうして彼の恋人となったアリシアだったが、付き合い始めた当初は、それが自分の妄想ではないか、都合のいい夢ではないかと、何度も疑ったものだ。
何よりも相手は憧れの近衛騎士団長だ。女性からの人気もすこぶる高く、国王や王太子からの信頼も厚い。そのような立派な方に自分のような下っ端騎士がふさわしいとは、どうしても思えなかった。
アリシアはジェイラスとの交際を秘密にしていた。ジェイラスも自分の立場をよく理解しており、信頼できる相手にしか打ち明けていなかったようだ。
それでもひそかな交際は順調だった。昨日もドレスアップして彼の隣に立ち、幸せなひとときを過ごした。
もしかしたら、アリシアとジェイラスの関係が周囲に知られてしまったかもしれない。それでもいい、むしろ知ってほしい。
そのくらい気分は高揚していた。
一晩経った今、そんな興奮はすっかりと冷め切った。いや、冷め切った理由は時間が経ったからだけではない。彼からのひとことも原因の一つにあげられる。
(私と付き合い始めたときには、すでに王太子殿下とクラリッサ様の結婚式の日取りは決まっていた)
彼は自分の子をランドルフの子の護衛としてつかせたいと言っていた。となれば、同じ時期に結婚し、子にめぐまれる必要がある。
ランドルフの結婚が決まったとなれば、その夢を叶えるためにはジェイラスだって伴侶を決めなければならない。
そんなとき、身近なところに手頃な女性が現れたら――?
仕事で顔を合わせているし、何よりもアリシアはジェイラスに従順だ。
(もしかして……誰でもよかった? その時期に出会った人で、ころっと結婚まで流されるような女性であれば……)
見事にころっと結婚まで流されそうになっていることに、アリシアも自覚している。
それに彼は「結婚しよう」「一緒にいると落ち着く」とは言うが、「愛してる」「好きだ」とは言ったことがない。交際を始めるときも「付き合ってほしい」としつこく熱弁されたけれども、そこに「好きだ」という言葉はなかったかもしれない。
結婚しようと言われたときは浮かれていたのに、それに気づいてしまったら胸がズキリと痛み出す。
彼であったら、もっと見目もよくて教養のある女性が選び放題だろう。
昨日だって、慣れないドレスを着て着飾ってはみたものの、アリシアよりも素敵な女性はたくさんいた。
それなのに手軽なアリシアを選んだということは、そういった女性との結婚には時間がかかるからだ。
アリシアは田舎の貴族令嬢。父親はガネル子爵と爵位を持ってはいるが、所詮は田舎貴族。次期ケンジット公爵でかつ近衛騎士団長に「娘さんをください」と言われたら「はいはい、どうぞどうぞ」と差し出すしかない。
なぜ彼がアリシアのような平凡な女を選んだのか、ずっと不思議だった。
だがこれで腑に落ちた。
すぐに結婚できる女性であれば、誰でもよかったのだ。
でも、彼の隣にはもっとふさわしい女性がいるはず。そんな理由で自分を選んでほしくない。
ジェイラスに気づかれぬよう寝台から降りたアリシアは、手早く着替える。この部屋に泊まったのは何度もある。だから少しだけ着替えをも置いていたのだが、それが役に立った。
「ラス……今まで、ありがとう……」
彼は眠っていて、目を覚ます気配がない。アリシアが一緒に寝たときはいつもこうだ。
ジェイラスの前から姿を消すのであれば、今。
それに、今日はお昼過ぎから仕事だと、彼は言っていた。次に会う約束をしているのは、明後日の夜。
アリシアは振り返りもせずに涙を堪え、彼の部屋を後にした。
それからすぐに宿舎へと向かい、自室に戻る。まだ、第二騎士団の団長執務室に向かうには朝早い時間だ。時間がくるまで、アリシアは荷物を整理し始める。
外ががやがやと騒がしくなり、やがて静かになった頃、アリシアは部屋を出た。
第二騎士団、団長執務室。
そう書かれた部屋の扉をノックすると、中から返事が聞こえた。部屋に入ると、団長は「今日は、特に伝達事項はない」と言う。だが、アリシアが訪れたのは、そんな用件のためではなかった。
「団長……私、騎士団を辞めます。辞めて、田舎に帰ります」
「な、なんだって?」
慌てた団長が立ち上がり、椅子が勢いあまって倒れた。執務用のしっかりとした椅子であったのに、彼の勢いに負けたようだ。アリシアからすれば父親と同年代の彼は、やはりアリシアを娘のように可愛がってくれた。
「いや、ちょっと待て……なんで、突然……」
なんの前触れもなく、アリシアが騎士団を辞めるだなんて言い出したものだから、団長は混乱している。しかも昨夜は王太子の結婚パーティーとめでたい催しがあったばかり。
「辞めないでくれ」
そうすがられたところで、アリシアの決意も固い。
「いったい、何があったんだ? 誰かに身体を弄ばれたのか?」
過去にそういった理由で騎士団を辞めた女性はたくさんいたらしい。だが、女性騎士の待遇も改善され、今は昔ほどではない。それでも隠れて女性騎士によからぬことをしようとする者も、残念なことにゼロではない。
「ちがいます……ただ……」
理由は言えないと団長に説明するものの、そんなことでは彼も納得しない。
だから、辞めるのではなく、しばらく休職という扱いではどうだと、打診してきた。
アリシアとしては、彼と離れることができればなんでもいいと思っていた。
「では、それでお願いします」
団長が差し出した書類にさらさらとサインをする。
「五年、休職扱いにできるから……いつでも戻ってこいよ」
それはいいことを聞いた。五年もあれば、ジェイラスも他の女性を選んで結婚しているだろう。彼が結婚したタイミングで戻ってくればいいのかもしれない。その間に、アリシアが新しい男性と出会い、家庭をもったら別だが。
でも、しばらく新しい男性との出会いは不要だ。ジェイラスとのこともあり、少し男性不信になってしまったのかもしれない。