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第五章(2)

*†~†~†~†~*


 ぱさりとやわらかな音がして、シアははっと目を開けた。身体を動かした拍子に、毛布がソファの下に滑り落ちていた。


 ぼんやりとした頭で、ここはどこだと考える。いつもと異なるにおいで、ここが住み慣れた自宅ではないと理解した。


 身体を起こし、ソファの下の毛布を拾い上げ、隣でまだ眠るヘリオスにそっとかけた。


 ひどく喉が渇いていた。


 記憶を取り戻すと決意し、ジェイラスとともに王都へとやってきた。


 ボブやコリンナたちは「いつでも遊びに来て」とにこやかに手を振って送り出してくれた。彼らがいてくれたからこそ、何もないシアが三年間もサバドで暮らせたのだ。


 だが、フランクの沈んだ表情が脳裏に浮かぶ。彼だけは別れを惜しむかのように、目を伏せていた。

 ジェイラスと出会わなければ、フランクとの仲も進展していたかもしれない。互いに恋愛に対して臆病で、あと一歩が踏み出せない関係だった。


 そんな二人だからこそ「別れましょう」とか「終わりにしましょう」とか、そういった言葉を口にするのも不自然だった。

 それでもシアはフランクに、王都へ行くこと、今まで世話になった感謝の気持ちだけは伝えた。彼もその言葉を受け入れ「身体に気をつけて」と呟いたが、その声には寂しさがにじんでいた。シアの心の中には、ほろ苦い後悔が生まれた。


 ジェイラスとの出会いは、シアの人生を大きく変えた。何よりも彼は、過去のシアを知っていると言う。


 ソファから立ち上がり、飲み物が用意されているワゴンへと近づいた。


 王城に足を踏み入れた瞬間から、なんとなく懐かしい気持ちが胸を支配した。この部屋も、どこか知っているような気がする。高い天井、ふかふかの絨毯、繊細な幾何学模様が施された壁紙。そんななか洗練された調度品が並ぶが、部屋の主の性格を表すのか、落ち着いた茶系統で統一されている。

 すべてが記憶の断片を刺激するのに、それ以上のことは何もわからない。もどかしさだけが積み上がっていく。


 水差しからグラスへと水を注ぎ、それを一気に飲み干した。思っていたよりも身体が水分を欲しがっていて、途中でやめられなかった。グラスをワゴンに戻したところで、声をかけられた。


「目が覚めたのか?」


 低く落ち着きのある声の主はジェイラスだ。


「すみません、すっかりと寝入ってしまって」

「いや、慣れない移動で疲れたのだろう。今日はゆっくり休むようにと、殿下もおっしゃっていたよ」


 そこでジェイラスは手にしている籠を、シアに見せつけるように掲げた。


「お菓子、もらってきた。食べないか?」


 その言葉にお腹が刺激され、空腹を覚えた。


「では、お茶を淹れますね」

「ヘリオスはまだ眠っているのか?」

「そのようですね。眠くないと言っていたのに、ジェイラスさんが部屋を出ていってすぐに抱っこをせがんできて。そのまま二人で寝てしまいました」


 ヘリオスと一緒にお菓子を食べたかったのだろうか。シアの話を聞いたジェイラスは、少しだけ寂しそうに目尻を下げた。


 トレイの上にお茶の用意をして、ジェイラスが待つソファへと向かう。

 どこに座ろうかと視線を走らせると、ジェイラスが「隣においで」と甘い声で誘ってきた。


「失礼します」


 少しぎこちなく腰を下ろすと、ジェイラスが籠からクッキーを取り出し、「どれがいい?」と尋ねた。


「何か、不便なことはないか?」

「不便も何も……。まだ、何が何やら、よくわかっていないですから」


 シアは小さく答える。今までの生活と違いすぎて、まだ頭の中で理解が追い付いていない。


「そうだな」


 白磁のカップを握る彼の指があまりにもきれいで、思わず見入ってしまう。


「ん? どうかしたか? もしかして、こっちの菓子のほうがよかったか?」

「あ、いえ……」


 恥ずかしさで頬が熱くなったシアは、手元に視線を向け、彼からもらったクッキーをぱくりと食べた。口の中に入れたとたん、舌の上でとろりと溶けていく食感が面白い。なめらかで舌触りもよく、そして甘すぎない。


 もう一つ手にとると、ジェイラスが微かに笑った。


「ああ、すまない。それはアリシアが好きだった焼き菓子だ。いくらでも食べられると言って、一人で一缶食べたことがあった」


 そう言った彼の目線は、どこか遠いところを見つめている。

 だがそんなことを言われてしまえば、シアもとたんに恥ずかしくなる。


「……明日、ガネル子爵夫妻が、こちらに来られるそうだ」


 ジェイラスの言葉に、シアの心臓がドキンと跳ねた。つまり、アリシアの両親だ。もしかしたらシアの両親かもしれない。


「会ってもらえるだろうか?」


 そうやってシアの意思を確認してくれるのは、彼のやさしさなのだろうか。


 会いたいけど会いたくないという矛盾する気持ちが、胸を締め付ける。だが、記憶を取り戻したいと願ったのはシア自身。


 だけど本当にシアはアリシア・ガネルなのか。そうでなかったらどうなるのか。

 知りたいと思いながらもどこか怖く、不安が波のように襲い掛かってくる。


「……シア?」


 名を呼ばれて顔を向けると、ジェイラスが心配そうにこちらを見つめていた。ヘリオスと同じ紫眼が、真っすぐにシアを射貫く。


「あ、ごめんなさい……」

「君は昔からそうだ。自分の言葉を心に押し込めすぎる。悩んでいるなら、俺に教えてくれないか? 俺では頼りにならないかもしれないし。だけど、誰かに話すことでシア自身の考えがまとまるかもしれないし、もしかしたら俺だって何か思い浮かぶかもしれない」


 ジェイラスの真摯な言葉に、目の奥が熱くなった。抑えていた感情が、溢れ出してくる。


「ごめんなさい。私もどうしたらいいのか、気持ちの整理がつかなくて……怖いんです……」


 一度、気持ちを口にしてしまうと、箍が外れたかのようにぼろぼろと感情が口から出てくる。


「私は、本当にアリシア・ガネルなのか。どうして何も思い出せないの? アリシアじゃなかったらどうなるの? ヘリオスのためだと思ってきたけど、やっぱりサバドにいたほうがよかったんじゃ……?」


 覚えていること、覚えていないこと。それが中途半端すぎるから、空白の記憶に手が届きそうで届かないのだ。


 ギニー国の言葉はどこで覚えた? なぜ、ヘバーリア国の訛りだとわかった? それがわかるのに、学んだときのことが思い出せない。


「シア……」


 ジェイラスが力強く抱きしめてきた。


「自分が何者かわからないって怖いよな。だけど俺は、君がアリシアだと信じている。だから、これからも俺の側にいてほしい。それだけじゃ、駄目か?」


 不意打ちだったが、彼に抱きしめられる行為に嫌悪感はなかった。布越しに伝わる体温がシアの震える心を包み込む。


 シアは子どものように声をあげて泣き始めた。

 ジェイラスの手はやさしく背中をなでてくれた。それに甘えつつ、涙が涸れるまで泣き続けた。





 次の日――。


 朝からシアの心は張り詰めていた。外からあたたかな日差しが明るく入り込むのに、心が重く沈んでいる。


「ジェイラスさん、どうしましょう……」


 昼前にガネル子爵夫妻が王城に入ったとジェイラスから聞いたシアは、落ち着かなかった。

 その日の昼食の味などさっぱりとわからない。


「おいしいね」


 ヘリオスが喜んで食べているのを横目に、シア自身は食欲がまったく湧かなかった。ジェイラスが心配して、食べやすそうな果物を取り分けてくれたが、それを二口食べただけで胸が詰まった。


 ガネル子爵夫妻と顔を合わせる時間が刻一刻と近づく中、シアの心臓も送り出す血液が沸騰しているのではと思えるくらい、熱く鼓動を鳴らす。


 彼らとの顔合わせの場所は、王城内にある客室の一つ。


「シア、緊張しているのか?」


 ヘリオスを抱いたジェイラスが、扉の前に立ったシアを、やさしく見下ろしてきた。だが、その眼差しで心がふっと軽くなる。


「それはしていますけど……」


 ジェイラスとの軽口でさらに緊張は和らいだ。


 ふぅ、と息を吐いて胸を張る。この扉を開けたとき、それがシアの人生の分かれ道のような気がした。

 アリシア・ガネルなのか、そうではないのか。


 だけどヘリオスだけはシアの子なのは間違いない。あのときの痛み、元気な産声、初めてしわくちゃの顔を見たときに込み上げてきた涙、それだけはしっかりと覚えている。


 それにジェイラスは「側にいてほしい」と言ってくれた。その言葉がシアに勇気を与えてくれる。


「では、いくぞ」


 シアを励ますように声をかけたジェイラスが、ノックをして扉を開けた。


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