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第五章(1)

 馬車から降り、乾いた空気が頬に触れたときは、ジェイラスの心には懐かしさが込み上げてきた。サバドの潮風とは異なる、王都特有の風のにおいがする。


 シアは通された部屋に目を白黒させている。彼女だって三年前までは王都で暮らしていたはずなのに、まるで初めて訪れた場所のように、身体が小刻みに震えていた。記憶がないのだから仕方あるまい。


 ヘリオスは「しゅごいね~きれいね~」とはしゃいでいる。


「ここでは俺と一緒に暮らすことになると思うが」


 ジェイラスの言葉に、シアの肩が跳ねた。


「え、と……ここで?」


 シアたちを案内したのは、王城内にあるジェイラスの私室だ。何度もアリシアを連れ込んだ部屋だというのに、ソファに腰をおろしヘリオスを抱っこしたシアは、きょろきょろと室内を大きく見回した。


「ああ、ここでもいいし、別邸でもいい」


 ジェイラスが落ち着いた声で答えたが、シアの眼差しが次第に驚きのものへと変化する。


「あの……私、ここを知っているかも……?」


 いつの間にかシアの腕から逃げ出したヘリオスは、拙い足取りで室内を歩き回っていた。


「思い出したのか?」


 シアの言葉にジェイラスは興奮を覚え、彼女の肩をがしっと両手で掴む。


「あ、いえ……思い出したわけでは……ただ、この部屋を知っているような気がして。それに、王城も……来たことないはずなのに……懐かしいような、そんな気がするのです」


 キャメル色の瞳が不安そうに揺れ、ジェイラスを見つめた。


「それが、君の記憶の曖昧なところなのだろう。失われた記憶は、アリシア自身に関することだけ。学んだこと、知ったこと、そういった内容は身についている。だからここにいたときの記憶は完全に失ったわけでなく、部屋を見たことで、その奥に眠る記憶を思い出そうとしているのではないか? この場所は、君もよく来ていたところだ」

「私がここにいた? ジェイラスさんのこの部屋に?」

「ああ」


 ジェイラスは短く答えたが、ヘリオスがいるため、それ以上のことを口にするのは躊躇われた。


「俺はこれから殿下に会いにいってくるが……俺が戻ってくるまで、ここで好きにしていてくれ」

「好きにと言われても……」


 何をしたらいいかわからない。彼女の顔はそう言っている。


「移動で疲れただろう? だから、横になって休んだほうがいい。ヘリオスもな」

「リオ、ねむくない」


 答えたヘリオスは、ソファの上でぴょんぴょんと飛び跳ね、元気いっぱいに答える。


「だったら、俺と一緒に行くか?」

「ジェイラスさん! 王太子殿下のところに行かれるのですよね?」

「ああ」

「だ、だ、だ、ダメです。ヘリオスがご迷惑をおかけしますから。リオ、ここでママと一緒に待っていましょう?」

「では、すぐに戻ってくるからいい子で待っているんだぞ?」


 ジェイラスがヘリオスの頭をぽんぽんとなでると、目を細めて嬉しそうに見上げてきた。その愛らしい姿に、ジェイラスの胸には愛おしさ湧き上がってくる。


「アリシアもゆっくりと休んでくれ。もし、お茶を飲みたいときは、そこに湯沸かしと茶葉がある」


 室内の隅に置かれているワゴンを指差した。彼女はコクンと頷く。


 部屋を出たジェイラスが向かう先は、ランドルフの執務室だ。例の暗殺者の件も報告しなければならない。先にホーガンから情報は聞いているだろうが、ジェイラスの口から報告する義務がある。なによりもランドルフがジェイラスをサバドに置いていったのは、暗殺者の尋問と情報収集が目的だったからだ。それが失敗に終わった。


 サバドから戻ってきたばかりで平服姿のジェイラスだが、ランドルフはそれで文句を言う男ではない。


 執務室の扉をノックすると、中ではランドルフが秘書官たちに指示を出していた。書類の山とインクのにおいが漂う部屋に、緊張感が満ちている。


「もういい、下がってくれ」


 ジェイラスの姿を捉えたランドルフが秘書官たちに言うと、彼らは一礼して退出した。


「ジェイラス・ケンジット。ただいま戻りました」

「おかえり、ジェイ。それで?」


 ランドルフの軽い口調には、ジェイラスの「失敗」を聞きたい意図が透けていた。ジェイラスは苦々しく唇を噛む。


「どれから、報告すればよろしいですか? ホーガンから聞いているとは思いますが、相手にやられました……」


 ランドルフがにやりと口角をあげる。


「ああ、聞いた。あの暗殺者、素人だろうとは思っていたが……使い捨てだな」

「そのようですね。呪詛の解析は?」

「それはエイミが行っている。意気揚々と監察していたからな……あの死体、元の形に戻ればいいが……」


 エイミとは魔法師長だ。また、監察といえば聞こえがいいが、つまりは解剖である。死因に魔法が絡んでいる場合、どこまで魔力が浸透していたのかを確認するため、血液から内臓、脳まで調べる必要があった。


「だが、症状から心臓の動きを止める呪詛だろうとは言っていたな。それを裏付けるための監察だ」


 ジェイラスにはその詳細はわからないが、魔法師たちの仕事に委ねるしかない。


「それから、アリシア・ガネルと息子のヘリオスを連れてきました」


 ジェイラスの報告に、ランドルフが興味深そうに目を細める。


「アリシア嬢に変化は?」

「ここに来て、懐かしい感覚があるとは言っていましたが。自分が騎士団にいたときの記憶はさっぱりですね」

「記憶は複雑に絡み合っているからな。ここに来て、当時の記憶が刺激され、思い出すことを期待したが……。やはり彼女の記憶は操作されていると考えていいだろうな。記憶の境目は、三年前、彼女がいなくなったときか……?」


 ランドルフが顎をさすり、思案するように呟いた。

 ジェイラスの胸に、彼女の記憶を巡る不安が広がっていく。


「明日、ガネル子爵夫妻がこちらに来る。まずは、モンクトン商会のシアがアリシア・ガネルであるかどうかをはっきりさせよう」

「彼女はアリシアで間違いありません」


 ジェイラスはシアがアリシアだと信じて疑わない。だが、ランドルフはそうではない。いや、彼だってシアがアリシアだと考えているようだが、確実な証拠が欲しいのだ。


 ランドルフは首を横に振って答える。


「脳内お花畑のおまえの言葉は信じないと言っているだろう? とにかく、彼女がアリシア・ガネルだと判明したら、エイミに記憶解析をしてもらう」

「ホーガンではなく?」

「暗殺者の呪詛もホーガンでは見抜けなかった。同等の魔法師がアリシア嬢を狙ったと考えれば、ホーガンでは敵わない。面倒ではあるがエイミに頼むしかない」


 ランドルフが面倒だと口にするくらい、エイミもなかなか癖のある人間だ。だが、それでも魔法師長。頼らざるを得ない。


「今日はおまえもゆっくり休め。できればシア嬢には出歩かないでほしいところだが……そうだな、庭くらいなら連れ出してもいい。知り合いに会うかもしれないが、それも刺激になっていいだろう」

「承知しました」


 ランドルフが机の上の書類を手にする。それは、話は終わりという合図だ。


 もう一度頭を下げたジェイラスは、アリシアたちが待つ自室へと足を向ける。心なしか、足取りが軽い気がしたが、それは決して気のせいではない。


 三年間、捜しまわった彼女が生きていた。それだけでない。二人の子どもまで授かっていた。これを喜ばずにいられるか。


 しかし、部屋に戻ると、室内はシンと静まり返っていた。ヘリオスのはしゃぐ声と、それを宥めるアリシアの声を期待していたのに、それが聞こえない。


「……シア?」


 ジェイラスの心に、不安の影が押し寄せてきた。室内をくまなく探し回ろうとしたが、その考えはすぐに変わった。静かな室内に響くのは、微かな寝息。


 ソファで横になっているアリシアの姿が見えた。ヘリオスも彼女に抱かれるようにして眠っている。慣れない馬車の旅で疲れたのだろう。ほんの少し前には、眠くないと言っていたヘリオスだというのに。

 起こす必要はないが、このままでは風邪を引いてしまう。


 ジェイラスはそっと毛布を持ち、二人にふわりとかけた。


「んっ……」


 柔らかな毛布が彼女の肩に触れた瞬間、少しだけ身じろいだ。だが、起きる気配はなさそうだ。ヘリオスもすやすやとよく眠っている。


「シア……」


 三年前と変わらぬ美しさに、胸に熱い感情が込み上げた。再会できた喜びと、彼女を失った虚しさが複雑に絡み合う。


 あのとき、求婚を受け入れてくれたと思ったのに、どうして黙ってジェイラスの前から姿を消したのか。その理由がわからなかった。


 三年前、ランドルフとクラリッサの結婚パーティーが開かれた。いつもは護衛にまわるジェイラスが騎士団の正装で出席したため、普段は感じない視線がまとわりついた。さらに「隣の女性は誰だ」とささやく声も聞こえてきた。


 ドレス姿のアリシアは輝き、第二騎士団の伝令係とは思えないほど魅力的だった。他の男たちが彼女に声をかけようとするのを、ジェイラスは鋭い視線で追い払った。


 そして彼女とは、一緒にダンスを踊り、言葉を交わし、愛を確かめ合ったはずだったのに――。


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