†ジェイラスの失態
カツーン、カツーン……。
地下室に響くブーツの音は、まるで命の鼓動を刻むかのように重く響く。冷たく湿った石壁に囲まれた牢は、薄暗い魔石ランプの光が揺らめき、凍えるような寒さと孤独を漂わせる。
物音一つが大きく響き、ジェイラスが歩みを進めるたびに、緊張が空気を震わせた。
「ご苦労。状況はどうだ?」
ジェイラスの声は低く、地下室の壁に反響した。牢番の騎士が淡々と答える。
「時間の問題かと。雇われでしょう」
しかしジェイラスの後ろに立つ人物に気づき、騎士はわずかに身構えた。
「そちらの方は?」
「ああ、通訳兼魔法師のホーガンだ」
ランドルフの命を狙った暗殺者はヘバーリア国の人間だった。尋問するには言葉の壁があり、王都から通訳を呼び寄せたが、ランドルフが送り込んできたのがこのホーガンである。
アリシアはヘバーリア語もできたはずだが、記憶のない彼女をこの場に立ち入らせるわけにはいかなかった。今のアリシアはモンクトン商会のシアであって第二騎士団のアリシアではない。
「やっほ、よろしくね!」
ホーガンの軽やかな声が、地下室の重苦しい空気を一瞬和らげた。
燃えるような赤い髪が腰まで伸び、くせ毛がランプの光に揺れる。熱くたぎる赤い瞳と中性的な容貌は、性別を判断しにくいが、声は確かに男性のものだった。
「あっ……はい」
牢番の騎士は戸惑いを隠せず、ぎこちなく頷いた。
ジェイラスは奥から二番目の鉄格子の前に立ち、男を見下ろした。
猿ぐつわをされ、両手両足を拘束された男は、うつろな目でジェイラスを見つめてくる。汗と恐怖で湿った顔が、魔石ランプに照らされ不気味に浮かび上がった。
うなり声の正体は、この男だ。
「毒の仕込みはなかったな?」
「はい、確認しております」
口に毒を隠し、尋問前に自害する者もいる。だが、この男は雇われの暗殺者だ。殺される覚悟はあっても、自死を選ぶような人間ではないだろう。
ジェイラスはそう確信していた。
「開けてくれ」
牢番が鍵を外し、鉄格子の軋む音が地下室に響いた。
ジェイラスとホーガンが中に入ると、男は怯えた様子で壁際まで芋虫のように這う。
「俺たちの質問に素直に答えるなら、悪いようにはしない」
ジェイラスの言葉をホーガンが訳して男に伝える。意味は通じなくとも、ジェイラスの地の底から響くような声を聞かせるのも、脅しの一つとなる。
ホーガンの話を聞き終えた男は、コクコクと首を縦に振った。恐怖に支配された目に、わずかな希望が灯る。
「ほどいてやれ」
ジェイラスが牢番の騎士に、男の猿ぐつわを解くように指示を出す。
「あっ……あぁ……ゴホッ、ゴホッ……」
男は一気に空気を吸い込み、激しく咳き込んだ。涙目でジェイラスにすがるような視線を向ける。
必要な情報は聞き出せそうだ、とジェイラスは内心で頷いた。
「どこの組織で、誰の指示か、聞き出してくれ。素直に話さないようなら、身体に覚えてもらうだけだな」
ジェイラスは男の足の甲をガツンと蹴り、鋭い痛みを刻みつけると、男は小さくうめいた。
ホーガンも深く頷く。先ほどまでのへらへらした雰囲気は、すでに彼から感じられない。
ホーガンがヘバーリアの言葉で尋ねると、男は震えながらも素直に答える。それをいちいちジェイラスに伝えることなく、ホーガンはさらに男を追い詰める。
だが、三つ目の質問で異変が現れた。
「あ……がっ……ががっ……」
男が苦しそうに首に両手をかけ、顔をゆがめた。ホーガンが忌々しく舌打ちをする。
「くそ、やられた!」
「何をだ?」
「恐らく、こいつの雇い主がこいつに魔法をかけてる。雇い主について話をしたら、命を奪う魔法。まぁ、魔法というよりは呪詛だね」
ホーガンが焦りながら男に手をかざしたが、すぐに顔をしかめた。
「う~ん、相手の呪詛に対抗しようと思ったけど、無理かも」
「無理だと?」
「うん。相手の魔力のほうが強いね。僕じゃ無理だ。師匠を呼ばないと」
ジェイラスも悔しそうに舌打ちをした。ホーガンの師匠とは魔法師長だ。もちろん、師長は今、王都にいる。
「今から呼び寄せても三日はかかるな」
「だよね~。ってことで、ごめん。助けられない人間に対して、無駄に魔力を使いたくないからね」
ホーガンが手を下ろした瞬間、男はさらに激しくもがき、息絶えた。地下室に重い沈黙が落ちる。
「で、どうする? これ」
ホーガンが死体を指さして言った。
ジェイラスは冷たい視線を男に向ける。
「この男の死因が呪詛によるものだと疑われるのなら、おまえたちによる監察が必要となるんじゃないのか?」
「そうなんだよね……いくらユグリの人間でなかったとしても、ユグリで死んだら僕たちの管轄じゃん。できれば、きれいにリボンで包んで、ヘバーリアに返したい……」
心底嫌そうな顔をするホーガンを見れば、ジェイラスもため息をつきたくなる。
この男の命が失われた今、それがどんな理由であっても、ヘバーリアには連絡をしなければならない。「あなたの国の人間が、ここで亡くなりましたよ」といった内容だが、ヘバーリアはすぐに「ユグリの人間が殺したのではないか」と疑いの目を向けてくる。だからそうではない証明をしなければならないのだが、その手続きが面倒を極める。
外交大臣が証明書類を手がけてくれるが、もれなく小言もついてくる。証明書類を作るためにも、監察を行い、呪詛による死と結論づけなければならない。
「っていうか、これって……僕が師匠に怒られるパターンだよね?」
うわぁと、ホーガンは頭を抱え始めた。
「いやだいやだいやだ……ってことで、僕、帰るわ」
ジェイラスは冷ややかな視線を向ける。
「わかった。だが、これも連れていけ……」
死体を示したジェイラスの声に、ホーガンが肩をすくめた。
「はぁ……あれかな。馬には体力強化の魔法をかけたほうがいいやつ?」
「かわいそうだが、そうしたほうがいいだろうな。早く師長に見せたほうがいいのでは?」
半分脅しの意味を込めたジェイラスの言葉に、ホーガンは「あぁ、やだやだ」と自分の身体を抱きかかえるような仕草をする。
「君さ、師匠の怖さを知らないから、そんな呑気なことを言ってられるんだよ」
「だが、俺には外交大臣の小言がついてくるからな」
「あ~それも嫌だね。どうして、僕たちにかかわる人間って、癖強人間が多いんだろう?」
まるで自分は該当しないとでも言いたげなホーガンに、ジェイラスは心の中で苦笑する。
このホーガンだって、かなり癖のある人間だと思っているが、それはあえて口にはしない。臍を曲げられては厄介だからだ。
「今回は俺の失態だ。こいつの裏に魔法師がついているとは考えなかったからな。先におまえに視てもらうべきだった」
「あ~、無理無理。どちらにしろわからなかったって。さっきも言ったでしょ? 相手のほうが魔力は上。魔力阻害の術もかけられていたみたいだし、僕じゃ検知できない。あ~悔しいな、僕より強い人間が師匠以外にも存在するなんて……」
魔法師長がこの国のトップなら、ホーガンはその次だ。だからランドルフは彼を派遣したのだが、そのホーガンですら匙を投げる呪詛だった。
ジェイラスの胸に、敵の強大さが重くのしかかる。
「相手は相当な使い手か?」
「あ~どうだろう。魔力は僕より強い……けど……? これも、術式によるものかもしれない。魔力増幅……か? これ以上はダメだ。戻って、詳しく調べないと。今、わかったのは、とにかくこいつは依頼人から呪詛を受けていた。依頼人のことを口外すれば、命を奪う呪詛。そして呪詛の使い手は僕より強い魔力の持ち主で、もしかしたら魔力増幅を使っているかもしれない、ってことくらいだ」
「この男から聞き出せた内容は?」
「それもね、ほら。依頼人を確認しようとしたところで、呪詛発動でしょ? だけど、間違いなくこいつはヘバーリアの人間。しかも何かの組織に所属しているんじゃなくて、個人で動いている人間。そこに依頼があったみたいだね。つまり、金で動く人間ってわけだ」
個人で暗殺や調査などを受ける人間は、表ではまっとうな商売をしていると見せかけ、裏では「なんでも屋」とか「探偵」とかそんな適当な名前で動いている者が多い。
ジェイラスはそれを聞き、頭の中で情報を整理する。
「なるほどな。状況はわかった。では、引き続き頼む」
「うわ。それって、僕にこいつの背後を洗い出せって言ってる?」
「そうだな。後日、正式に師長には文書で依頼するが。とにかく、これを持って帰って先に始めておけ」
「ひどい。僕は君の彼女に会うのを楽しみにしていたのに!」
ランドルフがホーガンを選んだもう一つの理由は、記憶解析だった。シアの失われた記憶が心的要因か、外傷か、あるいは魔法によるものかを調べるためだ。
だが、今は暗殺者の処理が優先である。
「どうせあと何日かすれば、俺も王都に戻る。彼女の怪我が治ったらな」
「ああ、殿下をかばったんだっけか? 殿下、べた褒めだったよ。君も、近衛騎士の立場、ないじゃん」
ホーガンの軽口に、ジェイラスは苦笑するしかない。
「それは、こちらも反省している点だ。結果として、彼女が休職していても騎士団所属だったから、なんとか面目は保たれたようなものだ」
ホーガンは牢番の騎士に、男を牢から出し、棺に入れるようにと指示を出した。
「そうそう、一つだけ、教えてあげる」
棺に納められる男を見つつ、ホーガンがジェイラスに声をかける。
「記憶って曖昧なものだ。何をきっかけとして忘れて思い出すかなんて、わからない。だが、記憶は五感の刺激によってより定着する。だからさ、思い出の味を一緒に堪能するとか、思い出の場所に足を運ぶとか、そういった五感を刺激するような過去の思い出をなぞれば、記憶は戻るかもしれない」
「なるほど……」
ジェイラスの脳裏に、シアとヘリオスの笑顔が浮かんだ。
彼女の記憶を取り戻したいという願いと、それが彼女の今の生活を壊すかもしれない恐怖が、胸の中でせめぎ合う。
「まぁ、アレよ。君たちが恋人同士っていうのを考えれば、やっちゃうのが手っ取り早いと思うけどね?」
「ん?」
「やりまくってた仲でしょ? あれほど五感を刺激する行為ってないと思うんだけど? 無理やり、やっちゃえばいいじゃん」
棺に遺体を納める騎士の手が一瞬止まった。
ジェイラスは呆れた視線をホーガンに投げる。
「おまえと一緒にするな。それに、その結果、記憶が戻るという保証もないだろう?」
「あ、そうね。魔法によるものだったら、余計にそうかもしれないね。そうなったら君は立派な犯罪者だ。おめでとう」
「だが、おまえの言う五感の刺激……それは参考にしといてやる」
ジェイラスの言葉に、ホーガンはやれやれと肩をすくめたが、そう言いたいのはジェイラスのほうだった。