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第四章(7)

 シアの怪我は、一ヶ月もあればきれいに治るだろうとジェイラスの見込みのとおり、日に日に回復している。


 ヘリオスを抱き上げることもできるようになったが、剣術の授業はジェイラスに任せていた。それでも彼は「期間限定の先生」であるし、シアもまた教師を辞める決意を固める。


 その話は、ボブたちと話をした次の日、養護院の院長に伝えた。彼女はどこか寂しそうに目尻を下げたものの「シア先生の人生ですから」と、背中を押してくれた。そのやさしい言葉に、シアの心は感謝と切なさで揺れ動く。


 子どもたちには後任の教師が決まり次第、シア自身の口から言うことを約束した。ボブがすでに教師候補を絞っているようなので、決まるのは時間の問題だろう。


 あの日から変わったことといえば、ジェイラスと一緒に暮らし始めたくらいだろうか。これもコリンナとボブが「恋人同士なら、一緒に暮らせば記憶が戻るかも!」と明るく提案したのがきっかけだ。まして、結婚を約束した仲ならなおさらだと。


 それでもシアにとってはまだ他人事のように感じられた。


 ジェイラスは近衛騎士団長を務めるだけでなく、ケンジット公爵家の嫡男。となれば未来の公爵様だ。

 そのような高貴な方と、本当に結婚を前提にしたお付き合いをしていたのかと不安が押し寄せてくる。


「シア、どうかしたのか?」


 スープ皿にスプーンを突っ込んだままぼんやりとしていたシアに、ジェイラスが心配そうに声をかけてきた。


「ううん、なんでもないです」


 シアは笑顔を装ったが、心の中ではもどかしさが渦巻いている。


 目の前では、ジェイラスとヘリオスが並んで座り、楽しそうに食事をしている。ヘリオスはジェイラスを「ラシュ」と呼び、すっかり懐いていた。

 だが、今のところ、その呼び方を訂正させようとは思っていない。


 ヘリオスがジェイラスの子だと断言できないからだ。シアが肝心の過去を思い出せない。もどかしい気持ちが、胸の奥で膨らんでいく。

 コリンナの言うように、一緒に暮らせば記憶が戻るのだろうかと思い、提案を受け入れた。だが、記憶への変化は訪れない。


 スプーンを握りしめ、答えの出ない問いに思いを巡らせる。


「ラシュ、くち、あけて」

「なんだ?」

「あ~ん、して」

「あ~ん……ん? 俺の口に何を入れた?」

「ちょっとリオ。嫌いな人参をジェイラスさんに食べさせたでしょ」


 シアが慌てて注意すると、ヘリオスはいたずらっぽく笑った。ジェイラスは苦笑しながらも、ヘリオスの頭をそっとなでる。


 一緒に暮らし始めてから、シアはジェイラスの新たな一面を知った。彼は養護院では厳格に子どもたちを指導するのに、ヘリオスを前にすると顔がへにゃりと緩むのだ。その甘さに、シアは微笑ましくも少し呆れてしまう。


「ジェイラスさんも、ビシッと言ってください。怒らないからリオも調子にのって……」

「す、すまない」


 ジェイラスはシアにたしなめられ、背中を丸めた。その姿に、近衛騎士団長の威厳は微塵も感じられず、まるで大きな子どものようだ。


「まま、ラシュ、いじめちゃ、めっ」

「ママはいじめていません。リオがジェイラスさんに人参を食べさせたから怒っているだけです」


 だけどジェイラスがここに来てからというもの、ヘリオスの食事量が以前よりも増えた。たまにこうやって苦手なものをジェイラスに食べさせようとするが、それも彼に対する甘えなのだろう。


 食事が終わると、ジェイラスがヘリオスに本を読みながら字を教える。室内にはジェイラスの穏やかな声とヘリオスの甲高い笑い声が響き、その間、シアは食事の片付けをしたり、入浴の準備をしたりする。


 ヘリオスをお風呂に入れるのはジェイラスの役目となった。怪我をしているシアにとってはありがたいのだが、彼はヘリオスを自分の息子だと思っているに違いない。今までの空白の二年間を埋めるかのように、ヘリオスとの時間を大事にしているようだ。


(もしかして……ジェイラスさんは、ヘリオスにとってよい父親なのでは?)


 そんな考えがよぎる。


 コリンナたちの後押しでジェイラスと暮らし始めたが、思ったほど気まずくなかった。変に緊張したり、気を遣ったりすることなく、自然に過ごせている。それが、シアには少し不思議だった。


「ヘリオス、やっと寝たよ……」


 寝室から戻ってきたジェイラスが、疲れた笑顔で呟いた。

 シアは洗濯物を畳む手を止め、彼を見上げた。部屋には、夜の静けさとランプの柔らかな光が広がっている。


「ありがとうございます。なんか……ヘリオスがべったりで、申し訳ありません……」

「いや。それはそれで、俺も楽しんでいるから」


 照れた仕草は、彼をぐっと幼く見せる。


「お茶でも飲みますか?」

「ありがとう、いただく」


 彼が笑って答え、シアも自然と微笑み返していた。


 お茶を用意し、シアはジェイラスの向かい側に座った。

 二人きりの時間は、いつもヘリオスが寝た後。特別なことをするわけではない。ただ、お茶を飲みながら他愛のない話を交わすだけ。話題の中心は、たいていヘリオスになる。


「ジェイラスさんは、アリシアさんのどこが好きなんですか?」


 シアが尋ねると、ジェイラスはぶほっと咳き込んだ。


「きゅ、急に、どうしたんだ?」

「あ、いえ……話を聞けば、何か思い出すかなと思ったのですが」


 ジェイラスと暮らし始めて十日ほど経つが、記憶が戻る気配はなかった。彼の存在を自然と受け入れているのに、過去の彼を思い出せない。


 シアの心に、もどかしさが募る。


「なるほど……だが、アリシア本人を目の前にして口にするのは、少々恥ずかしいというか……かなり、恥ずかしい!」

「ジェイラスさん、照れ屋さんなんですね」

「いや、そんなことは……」


 ジェイラスは誤魔化すようにゴクゴクとお茶を飲み干し、頬を赤らめた。


「とにかく、俺にとってアリシアは特別な女性だ」

「二人はどこで出会ったんですか?」

「それは、仕事……君は第二騎士団の伝令係だったからな。俺のところに伝令を聞きにきたのがきっかけだ」


 職場恋愛らしいが、シアにはピンとこない。


「まぁ、あのときは俺も、団長になったばかりでいろいろあったからな。そんなときに支えてくれたのが、アリシアだ」


 だからこそ特別な関係になったのだろう。互いに支え合う関係は、少しうらやましい。


「お付き合いは、長かったんですか?」

「半年くらいか?」


 シアが思っていたよりも長くはなかった。だが、愛情の深さが付き合いの長さに比例するわけでもない。


「お二人は結婚を意識されていた?」

「あ、あぁ……少なくとも俺は……」


 ジェイラスの歯切れの悪さに、アリシアはそうではなかったのかと疑問を抱く。


「アリシアさんが実家に帰ろうとしたのは、やっぱり結婚が理由ですか?」

「それは……俺もよくわからない。俺も理由を聞きたい」


 彼が少しだけ声を荒らげた。


「あ、ごめんなさい」


 ジェイラスを困らせてしまったことに、シアの口からは謝罪の言葉が出た。


「あ、いや……こちらこそ、取り乱してすまない……」


 記憶の欠片すら掴めず、シアはしゅんと肩を落とした。

 ジェイラスがその様子に気づき、声をかけた。


「……やはり、心当たりはないのか? まったく覚えていない?」

「あっ……ごめんなさい……」


 二度目の謝罪に、ジェイラスの表情が曇った。シアの心は、申し訳なさと切なさで締めつけられる。


「いや……記憶が戻らなくて辛いのは、アリシアのほうだよな。こちらこそ、すまない」


 先ほどから、互いに謝ってばかり。テーブルの上では魔石ランプの明かりがゆらりと揺れる。


「あっ。聞いた話なのだが……」


 ジェイラスが話題を変え、シアはホッと息をついた。


「記憶を刺激するには、五感を刺激するといいらしい」

「五感の刺激ですか?」


 思ってもいなかった答えに、シアは首を傾げた。


「見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる。例えば……懐かしい味で記憶を取り戻したとか、そういう話があるそうだ」

「懐かしい味……」

「王都に、君が好きだった焼き菓子店がある。戻ったら、そこに行ってみよう」

「それは、記憶云々関係なく、楽しみですね。ヘリオスも喜びそうです」


 単純に王都の菓子店に興味があった。シアの声が明るくなり、ジェイラスの表情も晴れる。これで味覚の刺激はできそうだ。


「他には聴覚、視覚、嗅覚、触覚……?」


 シアがぽつりと呟くと、ジェイラスの目が大きく開いた。


「……その……触れてもいいか?」

「え? あ、はい……?」


 二人が恋人同士であることを考慮すれば、触れ合いがあってもおかしくはない。


「いや、あの、その……やましい気持ちがあるわけではなく。その……手を握れば、少し何か、刺激になって思い出すかと……」


 先ほどからジェイラスの表情はころころと変わり、幼い我が子を見ている気持ちにもなる。


「あぁ、触覚の刺激ですね」


 シアは微笑み、躊躇わず両手を差し出した。


「あまり、きれいな手ではありませんけれど……」

「……いや、アリシアの手だ」


 ジェイラスは、まるで壊れ物を扱うように、シアの左手を両手でそっと包んだ。


「ここに傷跡があるだろう?」


 彼が示したのは、左手の人差し指の付け根にある小さな傷跡。よく見なければわからない、薄い線だった。


「初めての野営の訓練中に、食事の用意をしたときにできたものだと聞いている」

「アリシアさんって、意外と不器用なんですね」


 シアは笑って答えたが、ふと気づく。ここで暮らし始めたとき、包丁も難なく使えた。世の中の常識も知っていたし、生活するには困らない知識を備えていた。なによりも、養護院で子どもたちに勉強を教えることもできるし、自国の言葉だけでなく近隣諸国の言葉まで理解していた。


 だけど、それまで出会った人、自分のこと、それらの記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。その矛盾が、心に影を落とす。


「やはり、これはアリシアの手だ……」


 慈しむように手を愛でている彼は、熱っぽい眼差しをシアに向けてきた。


「口づけてもいいか?」

「え? はっ……はい?」


 何を言われたのか理解できぬまま、勢いに押されて返事をしてしまった。


 彼にとられた左手の甲に、熱い唇が押しつけられる。一瞬の熱が、さざ波のように全身に広がる。ドキリと心臓が跳ねた。


「あっ……」


 ジェイラスもシアの視線に気づいたようだ。ちゅっ、ちゅっ、と音を立てながら、手の甲を余すところなく口づける。そんな戯れに、心が蕩けそうになる。


 シアの身体は、未知の感覚にふるりと震えた。

 この淫猥な戯れに終わりはくるのだろうか。

 このまま全身を舐め尽くされるのではないだろうか。

 その考えに、心が乱れる。


 突然、寝室から子供の泣き声が響いた。ヘリオスだ。


「お、俺が様子をみてくる」


 慌ててシアの手を解放したジェイラスは、立ち上がって寝室へと向かった。


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