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第四章(6)

 結局シアは、ジェイラスから話を聞けずにいた。


 目が覚めたヘリオスはジェイラスにすっかり懐き、一緒に食事を終えるまで彼の側を離れなかった。夕食のテーブルを囲む二人の姿を目にしたシアの胸には、温かさと同時にざわめきがこみ上げてきた。

 それに、ヘリオスの前で話せる内容ではない。


 授業の合間の昼休憩なら、ジェイラスと二人きりになれるかもしれない。だが、そんな話をした後、平静を装って授業を続けられるだろうか。ジェイラスが何を語るのか、シアには想像もつかなかった。不安と期待が交錯し、心は揺れ動く。


 結局、悩んだ末に、学校の授業がない日を選び、モンクトン商会の屋敷でジェイラスと話をする場を設けることにした。


 ジェイラスは、「どうせなら、ボブにも話を聞いてもらいたい」と提案した。シアは自分の不安を抑えるため、コリンナの同席を求めた。


 時間はヘリオスが昼寝をする午後。普段なら、彼は一時間以上ぐっすり眠るはずだ。

 場所は応接室。シアはコリンナと並んで座り、向かい側にジェイラスが腰をおろした。ボブはそんな彼らを見守るような位置に座っている。


 シアの胸は、緊張で痛いほど高鳴っていた。この場があまりにも重く、喉は乾き、息を整えるのも難しかった。


「つまり、ジェイラスさんはシアの素性を知っていると?」


 ボブの落ち着いた声が、静かな部屋に響いた。

 ジェイラスとボブは何度も顔を合わせてきたせいか、二人の間には親密な信頼感が漂う。


「恐らく、そうだろうという話であって、絶対ではないのだが……」


 ジェイラスは慎重に前置きし、言葉を選びながら続けた。


「彼女が自身に関する記憶を失っているため、それを証明する手段がない。それを承知のうえで聞いてほしい」


 テーブルの上に置かれているお茶に、誰も手をつけない。白い湯気がゆらゆらと立ち上っては消えていく。


「シアは、恐らくアリシア・ガネル。ガネル子爵家の令嬢、王国騎士団、第二騎士団に所属する人物だ」


 その言葉にシアの心は凍りついた。自分のことだと言われても、まるで遠い物語の登場人物のようで信じられなかった。頭の中で言葉を理解するが、現実感はまるでない。


「ヘリオスは……俺とアリシアの子……だと、思っている……」


 その告白に、ボブもコリンナも驚いた様子はなかった。どちらかといえば「ああ、やっぱり」と納得した感じである。

 シアはそんな彼らの反応に戸惑い、まるで自分が場違いな存在のように思えてきた。


「つまり、シアとジェイラスさんは、結婚されていた?」


 コリンナの質問に、シアはどこか他人事のような気分で耳を傾けた。自分の過去が語られているのに、心が追いつかない。


「いや。結婚を前提とした付き合いをしていた……つもりだ」


 ジェイラスの最後の言葉は、吐息と共に消えていく。


「シアが女性騎士というのであれば、あのときのあなたの行動も納得できるわ」


 コリンナの目は遠くを見つめ、過去の記憶を辿っているかのよう。


「あのときのシアはとても勇敢だったわ。シアが通りかかってくれなかったら、私たちは今頃、ここにいなかったかもしれない。だからシアには無理を言って、サバドまで一緒に来てもらうことにしたの」


 何度もコリンナから聞かされ感謝を伝えられた話だが、それでもシアにはまったく覚えがない。


「王都からサバドへ移動中、急に馬が暴れ出したの。そのまま馬車に乗り続けるのは危険だってフランクが言って、私たちは馬車から飛び降りたわ。シアはシェリーをしっかりと守ってくれたのよ」


 ジェイラスは満足そうに頷いたが、シアにはその記憶がまるでない。まるで別人の物語を聞いているような気分だった。


「だけど、あなたが王国騎士団に所属する騎士だと聞いたら……納得できるかもしれないわ」


 コリンナの顔は、感謝してもしきれない様子を物語っている。彼女のあたたかい眼差しに胸を締めつけられつつも、自分の過去が遠い霧の向こうにあるような感覚に襲われた。


「シアはあのとき、仕事を辞めて実家に帰るところだと言っていたの。もしかして、ジェイラスさんとの結婚が決まって……?」


 コリンナが口元に手を当て、首を傾げた。三年前の記憶は、誰にとっても曖昧なものだ。


「なるほど。そうであれば、つじつまが合うかもしれないな」


 コリンナの言葉の先を奪ったのはボブだった。


「客観的に見ても、ジェイラスさんとヘリオスはよく似ている。親子と言われても違和感はない。もしかしたら、ヘリオスを授かったから、騎士団を辞めて実家に帰ろうとしたところを、コリンナと出会ったのかもしれない」

「ガネル子爵に連絡を入れたところ、アリシアが戻っていないことが判明した。王都からガネル領に戻るには、サバドを経由する必要があったが、サバド行きの馬車の名簿にはアリシアの名前がなかった。だが、モンクトン商会の人間と行動を共にしたのであれば、名簿に名前がなかったことにも納得ができる」


 まるで過去を悔やむように吐露するジェイラスの姿を見れば、シアの心がしくしくと痛み出す。彼がどれほどの思いを抱えてきたのか、それが伝わってくる。


「サバドの養護院での取り組みを聞いたとき、そこで子どもたちに勉強を教えているのはアリシアではないかと疑った。こうして彼女と会い、話をして、剣を交わらせ、シアがアリシア・ガネルであると確信している」


 ジェイラスは紫色の瞳で真っすぐにシアを見つめた。シアもすべてを見透かすようなこの視線から、目が離せない。


 だけどこの眼差しを知っている。ときにやさしくて、ときに甘えたがりで、ときに心強い。

 記憶の断片に触れるようなもどかしさが、シアの心に渦巻き始める。


「会長にはアリシアを保護してもらった恩義を感じている。だが……アリシアを返していただきたい」


 切なさがにじむ声で懇願され、シアの心臓は痛いくらいに激しく動いていた。


「ジェイラスさん。勘違いしないでいただきたい。シアを返すも何も……。私たちは行き場のないシアを、モンクトン商会で雇い、生活の場を与えていただけ。彼女が本来の場所に戻りたいというのであれば、それを止める権利など我々にはありません」


 それは、今後の人生をシア自身で選べと、そう言っているかのよう。


 シアは膝の上においた手で、ワンピースのスカートをぎゅっと握りしめ、感情の波に耐えた。


「なあ、シア。君はどうしたい?」


 幼子を諭すような口調で尋ねるボブからは、やさしさと気遣いが見え隠れする。


「私は……」


 モンクトン商会で目覚めた日。シアが不安がらないようにと励ましてくれたのはコリンナだった。妊娠がわかり、出産の後押しをしてくれたのもコリンナだ。ヘリオスが生まれると、シェリーが弟のように可愛がってくれた。


 記憶もない、お金もない、仕事もないシアに手を差し伸べてくれたのはボブだ。養護院での教師役はシアにとって天職だった。


 ジェイラスと出会わなければ、きっとこれからも養護院で子供たちに教え続けただろう。


 だけど、それではダメだとシアの心の奥が訴えるのだ。

 家族はどうしている? ヘリオスの父親は?

 会いたい、知りたい――。


 そんな気持ちが膨れ上がってくる。


「私は……できれば記憶を取り戻したいと思います。ヘリオスに父親がいるなら、三人で一緒に暮らしたい。ヘリオスのためにも……」


 ガタガタッと激しい音がした。驚き顔を上げると、ジェイラスが顔を真っ赤にして立ち上がっていた。

 ボブもコリンナも驚いて、ジェイラスを見上げる。


 そんな彼は、視線に気がつくと「失礼した」と言って、もう一度腰をおろした。

 それを見送ったボブは、寂しそうに目を細くして、静かに語り出す。


「私たちは、シアが決めたことに何も言わない。だが、君がモンクトン商会にもたらした成果には、誇りに思ってほしい」

「では、彼女の怪我が治ったところで、王都へ連れて帰りたいと思う」

「えっ?」


 ジェイラスの言葉に、シアは驚きの声をあげる。


「そんなにすぐ、王都に行かなければならないのですか?」

「君がアリシア・ガネルだとしたら騎士団の人間だ。アリシアは今、騎士団を休職している。だから、できるだけ早く、騎士団に戻ってきてほしい」


 心臓が鷲づかみにされたように苦しく、シアは握りしめる手にさらに力を込めた。


「でも、学校の子どもたちが……」


 ボブはゆるりと首を横に振る。


「シア。こちらのことは心配しなくていい。君は君のやるべきことをやってほしい」

「でも、困るのは子どもたちです」

「安心しなさい。テリーから提案書をもらった。あれはシアが教えながら、テリーに書かせたものだろう?」


 それは、教師を増やして学校を担任制にしたいという提案書のことだ。


「君の教えは確実に根づいている。学校についてはテリーが引き継ぐし、シアのような教師になりたいと言っている子も多い。その子たちにも教える機会を作ってあげたいんだ」

「私は……もう、いらない……?」

「そうじゃない。教えというのは引き継がれていく。シアの教え子たちが、次の世代に教える」


 それは院長も言っていたこと。


「だからシアにはシアにしかできないことをやってほしい」


 きつく握りしめた拳が、かすかに震え始めた。その手をやさしくコリンナが包み込む。


「シア。あなたは勇敢な女性よ。三年前に私たちを助けてくれた。あのとき、あなたが来てくれて、どれだけ心強かったかわかる? それに先日だって王太子殿下を助けたでしょう?」


 あのときは無我夢中だった。

 モンクトン商会主催の晩餐会で王太子が暗殺されるようなことがあれば、商会の未来にも影響すると思ったからだ。


「学校の教師はあなたの教え子が引き継いでくれる。だけど、私を暴漢から助けてくれたり、王太子殿下を身体をはって助けたりするのは誰でもできることではないわ。ましてヘリオスの母親は、あなたしかいない」


 本当の自分を知りたいと思う気持ちと、ここで今の生活を続けたいという思いが激しくぶつかり合う。


 それはジェイラスの言葉で過去を知りたいと思い、ずっとずっと悩み続けてきたこと。それでもヘリオスには父親が必要だと感じたから、本当の自分を知りたいと口にした。だけど、怖い。


 ――変化を恐れていては前には進めない。


 そう言ったのは誰だったろう?

 ふと頭に横切ったその言葉が、シアの気持ちを支配した。


「……わかりました。怪我が治ったら、ジェイラスさんと王都に向かいます。だけど、それまでの間は、養護院での仕事を続けさせてください。できれば引き継ぎをしたいので、後任の先生を紹介していただけると……」


 それがシアの選んだ妥協点だった。過去と未来を繋ぐための一歩。


「もちろんだよ、シア。それに、君が王都へ行ったからといって、私たちの絆が消えるわけではない」


 ボブの声にシアの心は少しだけ軽くなった。


「そうよ、シア。この人のことだから、王都でも同じような学校を作れないかって、考えているかもしれないわ。そのときはシアが学校の代表ね」


 コリンナがおどけて言えば、ジェイラスも「困ったな」と苦笑した。


「殿下からは、アリシアには騎士団に戻ってほしいと強く要望を受けている」

「やだぁ、ジェイラスさん。そんな今すぐの話じゃなくていいのよ。シアが騎士団を辞めた後、とかね!」


 コリンナの話を聞いて、そんな選択肢もありかもしれないと思えば、シアの心は軽くなった。いや、何よりも、離れていてもボブやコリンナとの繋がりが消えるわけではないのだ。


 その確信が、シアの心から重い悩みを吹き飛ばした。


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