第四章(5)
夕食を何にしようかと悩みながら、シアは食料庫の棚の食材をのぞき込んだ。棚に並ぶ食材を見つめ、ミートパイを焼くことに決めた。それにスープとサラダを添えればいいだろう。
ジェイラスは身体が大きいからたくさん食べるかもしれない。足りなくなったら困るから、一緒にパンを焼くことにした。残ってしまったら明日の朝、食べればいいのだ。
オーブンにミートパイをセットし終えたとき、シアははっと気づいた。ジェイラスにお茶すら出していない。
感謝の気持ちを改めて伝えようと、急いでお湯を沸かし、トレイにカップを並べた。
居間に足を向けると、ジェイラスはソファに深く座り、腕を組んで目を閉じている。膝の上には、ヘリオスの小さな頭が乗っていた。微笑ましい光景に、シアの心は一瞬軽くなったが、ジェイラスの目の下にうっすらと見える隈に気づく。
彼は忙しい日々を送っているのだろう。それなのに、子どもたちに剣術を教え、ヘリオスを連れてきてくれた。感謝と申し訳なさが、シアの胸に複雑に絡み合った。
起こすのも悪いと思い、ティーセットを手にしたまま引き返そうとしたとき、カチャリとカップが音を立てた。
ジェイラスの目がぱっと開く。
「あっ。ごめんなさい、起こしてしまいました?」
シアは慌てて謝ったが、ジェイラスは穏やかに首を振った。
「いや、こちらこそすまない。なんだか居心地がよくて、ついうたた寝をしてしまった」
彼の素直な言葉に、シアはティーセットを手にした。
「いえ。もう少し時間がかかりますから、まだ休んでいてください。お茶も出さずに申し訳ありません。……飲まれますか?」
「そうだな。いただいてもいいか?」
「はい」
シアはジェイラスの前にお茶の入ったカップを置いた。それを手にしようとした彼は、膝の上に乗っていたヘリオスの頭をそっとどかす。
「こぼして火傷させたら大変だからな」
そういった些細な気遣いが、シアの心をくすぐる。
「ヘリオスはよく寝ているな」
「そうですね……もしかしたら、朝まで起きないかもしれません。たまにあるんです。夕食も食べずに寝てしまって、そのまま朝までって」
「そうか」
頷くジェイラスの視線は、ヘリオスに向いていた。
「こちら、ギニー国の黒茶です。お口に合うといいのですが」
「黒茶?」
「はい。茶葉が黒いから、そう呼ばれています。あまり出回らないので、ほとんどこの街で消費されてしまいます」
シアの話を聞いたジェイラスは、恐る恐るカップに口をつけた。初めて飲む茶の香りに、ほんの少し緊張しているようだった。
シアは彼の反応をそっと見守った。
「これは、香ばしくて後味がさっぱりしているな」
「はい。渋みがないので、砂糖やジャムをいれなくても飲みやすいのです」
「なるほど」
ジェイラスも気に入ったのか、それとも喉が渇いていたのか、ゴクリゴクリと喉を上下させながら飲んでいた。
「ごちそうさま、うまかった」
カップを置く音が、静かな部屋に小さく響く。
「お口に合ったようで、よかったです」
パイの焼き具合を確認するために、立ち上がろうかどうか、シアは迷った。
だが、ジェイラスと話をするのなら、ヘリオスの寝ている今が絶好の機会だろう。あの言葉の真意を確認したい気持ちもある。
「あの……ジェイラスさん」
声をかけた瞬間、緊張がシアの喉を締め上げた。心臓が早鐘を打つ。
「ジェイラスさんは、どうしてあのとき……私に結婚前提のお付き合いと言ったのでしょうか……」
「あ、あれは! すまない。舞い上がっていただけで、順番を間違えた」
ジェイラスの顔は一瞬で赤く染まり、普段の落ち着きが崩れた。
何に舞い上がって、なんの順番を間違えたというのか。
初めて出会ったときから感じた彼の視線。そして突然の告白。何よりも、ヘリオスとよく似ている顔立ち。
それらがシアの空白の記憶を刺激する。
「もしかして、ジェイラスさんは……昔から私のことを知っていますか?」
ジェイラスがひゅっと息を呑み、紫色の瞳を大きく見開いた。その反応は、シアの言葉が核心を突いたことを物語っていた。
「あの……会長から聞いているかもしれませんが……。私は、自分に関することの記憶がありません。気がついたら、会長の屋敷で寝ていました。どうやら、コリンナやシェリーと一緒に王都からサバドへ向かっていたようなのですが……それまでの記憶がまったくないのです。名前も年もなんのためにサバドへ行こうとしていたのか、王都で何をしていたのか、まったくわかりません」
シアの声がむなしく響き、ジェイラスは耳を傾ける。しかし彼は、口を真っすぐに結んだまま、何も言わない。
「ここに来てから二ヶ月くらい経ってから妊娠がわかって……自分がなんで子どもを授かったのかわからなくて……それでもコリンナたちがいてくれたから、生む決心をしました。結果論かもしれませんが、あのとき、子どもをあきらめなくてよかったと思っています。ヘリオスがいてくれるから、なんとかこうして生活できています」
ジェイラスは何か言いかけようと口を開く。少し息を止めてから「そうか……」と吐息と共に言葉を吐き出した。その声には、抑えた感情がにじんでいた。
「それでも、やはり不安になります。私がどんな人間だったのか。もしかして犯罪者かもしれない、逃亡者かもしれない。そう考えたら怖くて……。だから私は、本当にここにいていい人間なのだろうかって……」
部屋は静けさに包まれ、ミートパイの焼ける香りとともに、シアの言葉が重く響く。
「王太子殿下が養護院に視察に来られたときから、誰かに見られている感じがしたのですが……ジェイラスさん、ですよね?」
「す、すまない」
「ジェイラスさんは、どうしてそこまで私を……?」
「うっ……」
ジェイラスは言葉を詰まらせ、きょどきょどと視線をさまよわせる。
シアは自分の不安を吐露する勇気を振り絞った。
「私、自分が誰なのかわからないから、怖いんです。もし、私を知っているなら、教えてくれませんか?」
「……だが、君には今の生活がある。例えば、真実を知って、この生活を手放すようなことになってもいいのか?」
ジェイラスの言っていることも理解できる。記憶がないのも不安なのだが、記憶が戻ったときのことを考えても心配になるのだ。
コリンナたちのことを忘れてしまうのだろうか。養護院や学校の子どもたちのことを覚えているだろうか。教師を続けられるだろうか。
そんなことを想像すれば、胸が苦しいくらいに締めつけられた。
「俺は……君に思い出してもらいたいと願いながらも、その結果、君から今の生活を奪うことになるのが怖い」
ジェイラスの声は、痛みを帯びていた。彼の気持ちが、シアの心に深く響く。
記憶がないことも、取り戻すことも、どちらも怖い。
だが、シアは子どもたちにいつもこう言っていた――未来がわからないからこそ、今を精一杯生きるのだと。
「ジェイラスさん。未来のことは誰もわかりません。だけど、そのわからない未来をよりよいものにしたいから、私たちは今をもがいているのではありませんか? 私は、ヘリオスがいれば幸せです。でも、この子に父親がいるのならと、最近考えるようになって……」
フランクとじゃれ合っていたヘリオス。ジェイラスに甘えていたヘリオス。その姿を見て、父親の不在を埋めようとしているのかもしれないと、シアは思わずにはいられなかった。
「わかった……。君が記憶を取り戻したら、今と生活が大きく変わるかもしれない。それでも、いいんだな? 後悔しないな?」
「後悔……するかもしれません。だけど、そうやって逃げていたら、私はいつまでもモンクトン商会のシアで、ヘリオスの母親で、それだけの存在なんです。本当の私を見失ったまま。それに、もしかしたら、私にも家族がいるかもしれませんし……」
そもそもシアは、実家に帰る途中にコリンナたちと出会ったのだ。その実家がどこにあるのかはわからないが、その話を信じるならば、確実に実家は存在するはずだ。
「わかった……今、俺が言えることだけ伝える」
そこで、オーブンのブザーがけたたましく鳴り響いた。ミートパイが焼き上がった合図である。
部屋に広がる香ばしい匂いが、緊張した空気を少し和らげた。
ブザーの音に反応して、ヘリオスがむくりと起きた。
「リオ、目が覚めた? そろそろご飯の時間よ?」
「まま~」
ヘリオスがシアに向かって抱っこをせがむ。シアが手を伸ばそうとした瞬間、ジェイラスが先に動いた。
「ヘリオス。ママじゃなくて、俺でもいいか? ママは今、腕を怪我しているだろ? それに、ほら、美味しそうな匂いがする。お腹は空いていないか?」
そう言ったジェイラスは、ひょいっとヘリオスを抱き上げた。
ヘリオスが泣くかと思ったが、そうはならなかった。ジェイラスにひたっとくっついて、ぼんやりと目をこする。
「ジェイラスさん。ありがとうございます。今のうちに、夕食の準備をしてしまいますね」
寝起きでぼんやりしているヘリオスだが、ぱっと目が覚めれば、今度は「おなかすいた!」と騒ぐのが目に見えている。今のうちに、夕食を仕上げてしまおう。
シアは急いでキッチンに戻り、ミートパイを取り出し、スープとサラダを整えた。食卓に並ぶ温かな料理によって、部屋は穏やかな空気に満たされた。