第四章(4)
「おかえりなさい、ヘリオス」
シアは教室の入り口で、満面の笑みを浮かべる息子を迎えた。
「まま、まま。だっこ~」
ヘリオスが小さな両腕をいっぱいに伸ばし、弾んだ声で抱っこをせがむ。その無垢な笑顔に、シアの心は温かさで満たされた。
「もう、仕方ないわね」
笑いながらそう言い、ヘリオスを抱き上げようとした瞬間、傷口に鋭い痛みが走った。
「うっ……」
「まま?」
ヘリオスの大きな瞳が心配そうに見つめてくる。
「なんでもないわ。リオ、今日から新しい先生がきたのよ。テリー先生っていうの」
傷の痛みに顔をしかめつつも、なんでもないように装い、テリーをヘリオスに紹介した。
「こんにちは、ヘリオス。テリーです」
テリーがヘリオスの顔をのぞき込んで笑いかける。ヘリオスは少し恥ずかしそうに「リオよ」と答えた。
「ヘリオスが赤ちゃんのときに会ったことがあるんだよ。大きくなったね」
テリーは時の流れを懐かしむように目を細め、ヘリオスの頭をそっとなでた。
「ジェイラスさん。ヘリオスを迎えにいってくださってありがとうございます。必要な話は終わりました」
シアが礼を口にすると、ジェイラスは落ち着いた様子で軽く頷いた。
「そうか。それはよかった。俺も会長と話ができたしな。ヘリオス、おいで」
ジェイラスが意外にもヘリオスを抱き上げようと手を伸ばした。その仕草があまりにも自然であり、シアは一瞬驚いた。
「ママは王太子殿下をかばっただろ? まだその怪我が治っていないんだ」
ジェイラスの声には、シアへの気遣いとヘリオスへの優しさが込められている。ヘリオスは困ったようにシアとジェイラスの顔を交互に見つめ、しばらく迷った後、ジェイラスの腕に手を伸ばした。
「リオ?」
シアは目を大きく見開いた。ヘリオスとジェイラスが顔を合わせたのは、シアが倒れた翌朝以来、二回目だ。それなのに、ヘリオスがこんなにも自然にジェイラスに懐くとは信じられない。
「まま、いたい?」
ジェイラスに抱かれながら、ヘリオスが小さな声で尋ねてくる。その純粋な気遣いに、愛おしさでいっぱいになる。
「心配してくれたのね?」
ここで「痛くない」と嘘をつくのは、ヘリオスに正直でいたいという思いに反する。
「まだ、怪我が治っていないから、少しだけ痛いの」
そう言うと、ヘリオスは目を輝かせ「いたいのいたいの、とんでけ~!」と小さな手を大きく振り回した。その仕草に、シアは思わず笑みをこぼし、痛みすら一瞬忘れた。
「あれ?」
そこでテリーは首を傾げ、好奇心に満ちた瞳でジェイラスとヘリオスを交互に見つめる。
「ジェイラスさんとヘリオスって……なんか、似てますね。なんだろう……?」
まるで宝物を掘り当てたように、目を輝かせる。
シアの心臓がドキリと鳴った。シア自身もヘリオスとジェイラスにどこか似ている雰囲気を感じていたからだ。
「そ、そうかしら?」
その声は動揺を隠しきれていない。
「どうやら世界には、自分とそっくりの人間が三人はいるそうだ」
落ち着いたジェイラスの声に、テリーもはっとして耳を傾け始める。
「そして、自分にそっくりの人物と出会ったときは、三日間、わけのわからぬ高熱にうなされ、その後、衰弱してしまうらしい」
「え? そうなんですか?」
テリーが肩をふるわせ、驚きと少しの恐怖を浮かべる。
「と言われているだけで。それが真実か嘘かは、俺にはわからない」
ニヤリと笑ったジェイラスを見たテリーは「うわぁ。騙された」と悔しそうであった。
ジェイラスはいたずらっぽく肩をすくめ、シアもそのやりとりにくすりと笑う。
「シア先生。やっぱり大人向けの授業をやりましょうよ。嘘と噂と真実の見分け方」
悔しがるテリーの言葉に、ジェイラスは「なんのことだ?」と不思議そうに尋ねてくる。
シアはテリーと顔を見合わせ「新しい授業についてです」と、答えた。
「それよりも、そろそろ帰りましょうか。私、院長先生に挨拶をしてきますね」
「そうですね」
四人は院長室に立ち寄り、今日の授業の日誌を提出して別れを告げた。
院長のあたたかな笑顔に見送られ、養護院を出ると、空は燃えるような橙色に染まっていた。街の喧騒も夕暮れと共に落ち着き始めている。
「では、僕はここで。商会の寮に住んでいるので」
モンクトン商会では、商会で働く者のための寮が、商会の屋敷の裏に用意されている。
「では、また明日」
テリーは片手を上げ、軽やかな足取りで寮へと歩いていった。
「リオ。帰るわよ。降りて歩きましょう?」
だが、ジェイラスに抱かれたままのヘリオスは「や」と駄々をこね、ジェイラスの胸にしがみついた。その様子に、シアは苦笑するしかない。
ヘリオスにとって、ジェイラスの腕はよほど居心地がいいらしい。
「シア嬢。このまま送っていこう」
「え、いえ。そこまでしていただくわけには……」
シアは遠慮しようとしたが、ジェイラスの言葉がそれを遮った。
「俺は殿下から言われているんだ。シア嬢を怪我させたのは我ら騎士団の責任。君の怪我がすっかりと治るまで、支えるようにと」
夕陽がジェイラスの黒い髪を橙色に染め、彼の真剣な瞳がシアを捉えた。その熱い視線に、シアの心臓はいつもより大きく鼓動した。
それは先ほど、テリーが指摘した言葉も原因かもしれない。
(ジェイラスさんとヘリオスは似ている……)
今だって、ジェイラスと彼の腕に抱かれるヘリオスと交互に見れば、親子と言われても違和感はないし、知らない人が見たら誰もがそう思うだろう。それくらい二人には共通点が多い。こうやって二人並ぶと、よけいにそう感じるのだ。
シアは失われた記憶に手が届くようなもどかしさを覚えた。
「シア嬢……? どうした? 顔色がよくない」
ジェイラスの心配そうな声に、シアは我に返る。
「あ、ごめんなさい。なんでもありません。ヘリオス、帰るわよ」
「や。ラシュ、いっしょよ」
意地でも歩かないという意思表示なのだろう。ジェイラスの上着をしっかりと握りしめている。
「そういうことらしい。ここは素直に俺に送られてくれないか?」
ジェイラスの声には、シアを安心させようとする優しさが込められていた。彼に甘えたい気持ちと、遠慮すべきだという葛藤の間で揺れた。なぜこんな感情が湧くのか、シア自身もよくわからない。
「まま、かえるよ」
ジェイラスに抱かれたまま、ヘリオスが偉そうに言う。その天真爛漫な声に、シアは笑いを抑えきれなかった。ヘリオスがこんなにも楽しそうなら、それでいいのではないか。
「では、よろしくお願いします」
「承知した」
だが養護院からシアの暮らすアパートメントまでは歩いてほんの数分。暗くなる前に家路を急ぐ者たちとすれ違う。年齢も性別もさまざまな人たち。中には親子連れや夫婦、恋人たちの姿もある。沈みかけの太陽が背中を押し、身体もぽかぽかと温かい。
他の人たちから見れば、シアたちも親子に見えるのだろうか。
ジェイラスが近くにいると、心が乱される。
「あ、ここで、大丈夫です。リオ、おうちに着くから、ここからは歩いていきましょう」
「や。おうちまで」
ヘリオスは絶対に離さないという強い意志を見せ、ジェイラスにしがみついた。
「どうしちゃったの? リオ……」
「まあまあ、俺は気にしないから。家まで送る」
シアはヘリオスにじっと視線を向けてみたが、幼い息子はジェイラスに顔をすり寄せて今にも眠りそうだった。
「すみません。ありがとうございます。多分、眠いんだと思います」
「なるほど。たくさん遊んできたんだろう。子どもは遊んで食べるのが仕事だからな。でも、寝るのも大事だ」
ヘリオスを抱き直したジェイラスは、その背をぽんぽんと優しく叩いた。
家に着いたシアは、ヘリオスをソファに寝かすようにとジェイラスへ伝える。室内は、木の家具と柔らかな布の匂いが漂い、夕陽の光がカーテンを通して穏やかな色を投げかける。
「では、俺はこれで」
「あ。あの……」
ジェイラスが帰ろうとした瞬間、シアは無意識に彼を引き留めた。
「あの……夕食、食べていきませんか?」
もう少し、ジェイラスと話をしたいと思っていた。わけもわからずざわつく胸の原因が、彼にあるような気がしたからだ。
それにヘリオスを迎えにいってくれたことへの礼のつもりでもあった。何も持っていないシアにとって、お礼と言えば食事に誘うことくらいしか思い浮かばない。
ジェイラスの驚いた顔が、モンクトン家の屋敷で、みんなで誕生日を祝ってもらったときのびっくりしたヘリオスの顔と重なる。
「あ、えっと……その、特別やましい気持ちがあるわけではなくて……ヘリオスの面倒をみてくださったから、そのお礼のつもりなのですが……」
どんな顔をしたらいいかがわからず、シアは下を向き、言い訳のような言葉を口にした。
だが、ジェイラスはしばらくの間、無言だった。困らせてしまったのだろうか。
「だから、あの。決して無理にとは言いませんので」
慌てて言い繕い、彼の顔を見上げた。
「あっ」
ジェイラスは先ほどと変わらぬ驚いた表情のまま、口をぽかんと開けていた。
「ジェイラスさん? あの……その、今の言葉は忘れてください」
「いや、忘れない。是非ともご相伴にあずかりたい」
真剣な面持ちでジェイラスは答える。シアの心臓は、激しく鼓動を打つ。
「あ、はい。どうぞ。えっと……これから用意しますので。ええと、座ってお待ちください」
緊張のあまり、シア自身も何を言っているのかわからなかった。
ジェイラスは、ヘリオスが寝ているソファに座る。そのまま、慈しむかのような眼差しをヘリオスに向け、金色の髪をやさしくなでていた。