第四章(3)
「先生、さようなら」
最後の子どもたちが元気よく手を振って帰路につくのを見送り、シアはほっと息をついた。
夕暮れの光が窓から入り込み、教室内に長い影を落とす。
今日はテリーとジェイラスが子どもたちの指導に当たってくれたから、いつもより負担は軽かった。しかし、子どもたちの学びへの貪欲さは増すばかりだ。
普段は他の子に遠慮して質問ができなかった子も、積極的に質問をし、さらにもっと難しい問題に挑戦したいとまで言い出す始末。
その姿にシアも嬉しくなった半面、今まで彼らの学ぶ意欲を抑え込んでしまっていたのかと、自己嫌悪に陥った。
「シア先生」
隣の教室からテリーがやってきて、シアははっと顔をあげた。テリーの後ろにはジェイラスもいる。彼も最後の剣の指導が終わったのだろう。汗ばんだ額に少し疲れた色を浮かべつつ、それでも満足そうに笑みを浮かべていた。
「今日の授業は終わりですよね。今後について、少し相談したいのですが」
新しい教師としてテリーが加わった今、お互い、足りないところを補いながら、子どもたちの教育をよりよいものにしていきたい。
「ええ、それはお願いしたいところですが……」
そう言ったシアは、教室の前方にある時計にチラチラと視線を送る。
「あ、ヘリオスのお迎えですか? 大きくなったんでしょうね」
テリーの明るい声に、シアも少し恥ずかしくなる。
「そうなの、ごめんなさい」
「だったら、俺が迎えにいこう。ちょうど会長にも話があったところだ。ここに連れてくればいいのか?」
名乗りをあげたのはジェイラスだった。
「俺が迎えに行けば、その間、二人で相談ができるだろう?」
「え、と……そうですけども。だけど、ジェイラスさんに、そんな……申し訳ないです……」
シアは戸惑いを隠せない。それはやはり、彼の身分が原因だ。
「気にするな。さっきも言ったように、俺は会長に用がある。そのついでに君の息子を迎えに行く。そう思ってくれればいい」
「そうですが……」
ヘリオスがジェイラスと顔を合わせたのは、シアが毒で倒れた翌朝、ジェイラスが様子を見に来たときのことだ。
ジェイラスを見たヘリオスは、興奮した様子で「きしさまだ、きしさまだ」と声をあげていたが、その一回ぽっきりしか会っていない。
ヘリオスがジェイラスを受け入れてくれるかどうかが問題だ。
「もし、息子がぐずっていたら。フランクかコリンナに相談していただければ……」
「フランク? あぁ、君の代わりにここに来ていた教師だな。人のよい青年だった。わかった、ヘリオスに何かあったときには彼に頼ろう」
その言葉を聞いて、シアは胸をなでおろした。それになんとなく、彼にならヘリオスを任せても大丈夫だろうという思いもあった。
「では、ジェイラスさん。ヘリオスのお迎えをお願いしてもよろしいですか?」
「ああ。では、いってくる」
教室を出ていったジェイラスの足音が遠ざかる。その足音に耳をすませながら、感謝の気持ちに包まれた。
「では、シア先生。早速ですが、今後の授業について相談しましょう。そして、そのやり方を会長に提案して、会長の承認がおりたら実践する」
テリーの積極的な提案にシアも驚きを隠せない。いつの間にこれほどまで成長したのだろう。
「え、と。シア先生。僕の話、どこかおかしかったですか?」
どうやらシアも自分では気づかぬうちに笑みを浮かべていたようだ。テリーの成長を誇らしく思う気持ちが、自然と顔に表れていたのだ。
「いいえ、違うの。あなたがこんなに成長して……感慨深いというか……きっと、私は嬉しいのね」
シアの言葉に、テリーも釣られるように口元を緩めた。その笑顔が、二年前、シアの授業を受けていたテリーの姿と重なる。
「シア先生にそう言ってもらえて、僕も嬉しいです。会長がおっしゃった社会経験をという意味が、今になってよくわかります。僕、王都では魔石の納品作業をしていたんです。魔石を買ったお客様に、魔石を届ける仕事です」
モンクトン商会の魔石は安価で質が高く、国内だけでなく国外でも人気がある。彼はその仕事を通じて、さまざまな人々と出会い、世界を広げてきたのだ。
「それで、魔石を届けるために貴族学校へ行く機会もありました。授業風景は見られませんでしたが、学びの場を目にできました」
シアはテリーの話に耳を傾けた。外の世界で得た経験が、彼の視野をどれほど広げたのかが伝わってくる。
「そこで、時間割というものがあると知りました。クラスが年齢や能力別に分かれていて、一日に五科目や六科目も学ぶんです。この時間割なら、効率よく教え、学ぶことができると思いました」
この学校では、時間割といった概念がない。集まってきた子どもたちに、何を学びたいかを聞いて、それをひたすら教えていく。今日は昨日の続きを、明日は今日の続きをと、そんなふうに流れにまかせて教えていたのだ。
「もしかして、テリーはその時間割制度をここにも取り入れたいのかしら?」
「そうです、さすがシア先生です」
テリーの目は子犬のようにはしゃいでいた。その純粋な熱意に、シアは笑みを抑えきれなかった。だが、彼の提案に水を差すのは気が引ける。それでも、教師として意見を伝えるべきだ。
「時間割制度を採用するのは、いい案だと思います。ただ、これには二つのやり方があって……」
「二つ? 選任の教師が、その科目を教えるのではないんですか?」
「ええ、そう。そのやり方は科目担任制と呼ばれるやり方ね。だけどもう一つ。一人の先生がすべての教科を教える、固定担任制というやり方もあります」
「つまり、ギニー語の苦手な僕が、ギニー語を教えなければならないということですね?」
「そうなりますね。例えば、テリーが十歳以下の低学年のクラスを受け持ち、すべての科目を教える。私が上学年のクラスを受け持ってすべての科目を教える。となれば、固定担任制になるわけです」
テリーは腕を組んでう~んと唸った。
「時間割を取り入れるところまではできそうなんだけれどなぁ。やっぱり、僕とシア先生だけでは、先生の数が圧倒的に足りないですよね……あっ」
そこでテリーがポンと手を叩く。
「でしたら、その科目担任制と固定担任制の二つを取り入れるのはどうでしょう? 基本は固定担任制なんですが、一部の授業だけ科目担任制にする。つまり、ギニー語はシア先生が教えるんですけど、その代わり、僕は会計学を受け持ちます。もっと教師の数が増えたら、科目担任制にすればいいですよね?」
彼が言うようにその案であれば、実現できそうだ。
「そうね。すごいわ、テリー。では、まずはその案を会長に提案してみましょう。うまくいけば、教師の数も増えるかもしれないわ!」
「シア先生にそう言われると、なんか照れますね」
そう謙遜しながらも、テリーの顔は自信に満ちていた。
「あ、でも……」
シアが言いかけると、テリーは表情を曇らせる。
「何か気になることでも?」
「気になるというか……欲が出てきたの。今は子どもたちに勉強を教えているけれど、学びたい大人だっていると聞いているので」
「あ~、そうですね。僕がシア先生に勉強を習ったと言ったら、先輩たちはうらやましがっていましたし」
「大人向けの授業……始められるといいなって」
テリーはゆっくりと目を瞬かせ、驚きと興味が入り混じった表情を浮かべた。
「先生、それ、面白いです。でも、大人向けの授業って、子どもたちと同じですか?」
「そうですね、読み書きができない人は、やはりそれを学びたいと思うだろうけど。だけど、商売をしている人は、もっと世の中のことを知りたいのではないかしら? だから、大衆誌を使った授業とか……。嘘と噂と真実についてって、これはコリンナが言ったことですが」
「大人の授業すぎて、僕にはちょっと難しいです……でも、大人向けの授業、面白そうですね。例えば、会長が商売で儲ける方法の授業をしたら、商人たちがこぞってやってきますね」
「それだわ」
シアはひらめきに目を輝かせ、パチンと手を叩いた。
「授業とまではいかなくても、自分の経験を話してもらうの。えぇと……講演会?」
「なるほど。講演会ですね」
「それも一緒に会長へ提案してみましょう。授業の科目担任制、大人向けの講演会の実施。この学校がサバドの街以外にも広まっていけば、ここで教師をしたいという人や学びたいという人が、集まるかもしれないですね」
そこまで話をしたとき、廊下からバタバタと元気な足音が聞こえてきた。続いて、「こら、走るな!」という大人の声。
シアとテリーは顔を見合わせ、思わず笑みを浮かべた。
「まま」
走って教室に飛び込んできたのは、ヘリオスだ。金色の髪を揺らし、満面の笑顔でシアに抱きついてくる。
遅れてすぐにジェイラスが姿を現し、息を弾ませながらも穏やかな笑みを浮かべていた。