第一章(1)
大陸の東、青々とした海に面したユグリ国。その玄関口である港町サバドは、王家直轄の領地として賑わい、朝夕は船が行き交う。海の向こうのギニー国とは、古くからの条約で結ばれ、穏やかな交易が続いていた。
港町サバドから馬車で三日かかる場所に、王都セレが広がる。街の喧騒を静かに見守るように、緩やかな丘の上には白亜の王城がそびえ、陽光を受けて柔らかく輝く姿は、この国の象徴でもある。
夜がセレの街を包み、星々と家々の光が遠くで瞬く頃、王城の大広間は華やかな祝宴に沸いていた。
今日、王太子ランドルフとアイアンズ公爵令嬢クラリッサの結婚式が執り行われ、陽が落ちる前から始まったパーティーは、今もまだ、笑い声と杯の音で賑わっている。だが、主役である王太子夫妻はすでに広間を後にし、静かな部屋へと戻った。
「シア。俺たちも戻ろうか」
名を呼ばれたアリシアは、式典用の装飾の多い真っ白な騎士服に身を包むジェイラスを見上げた。「普段より三割増しほど格好よく見える」と言ったら、彼は怒るだろうか。
ほんの少し襟足の長い濃紺の髪はシャンデリアの光を受け夜空のようにきらめき、紫色の瞳はやさしくアリシアに向けられる。
だが、ジェイラスは近衛騎士らをまとめる者として、広間の喧騒を離れるわけにはいかない立場だ。
「団長様が戻ってしまってもよろしいのですか?」
少し戸惑ったようにキャメル色の目を揺らして、アリシアは尋ねた。
「寝ずの番を買って出てくれた者がいるからな。俺の仕事はもう終わりだ」
それよりも、とジェイラスは身をかがめ、アリシアの耳元でささやく。
「今日のおまえ……すごく興奮する」
そんなことを言われてしまえば、顔がかっと熱くなる。
アリシアも第二騎士団に所属する女性騎士だ。伝令係の下っ端騎士であるため、このような場で仕事があるわけでもない。だから騎士服を着て、待機している必要もない。
さらに恋人のジェイラスからの強い希望もあり、アリシアは淡い紫色のドレスに袖を通し、彼の隣に立った。
ドレスは春の風をまとったような柔らかな生地で、胸元と袖口には白糸の花柄の刺繍が繊細に施されている。淡いラベンダー色の裾は歩くたびに軽やかに波打ち、落ち着いた色合いの中にも、華やかさと深い気品を添えていた。
式典では騎士服の正装で済ませてしまうアリシアにとって、こうした装いは珍しい。いつも一つに束ねている金色の髪も、今日は両サイドを編み込み、残りを背中に流した。
ふとジェイラスが手を差し出すと、アリシアは迷わずその手を取る。
ジェイラスと恋人同士になったのは、半年前。
アリシアは騎士団の伝令係であり、さまざまな場所を走り回る。場合によっては王都から他の街に馬を走らせて向かうことだってある。また、なぜか昔から鳥に好かれる体質で、それを生かして伝書鳩も手懐けており、伝書鳩を使った伝令は誰よりも早く正確に伝えることができた。
そんな仕事を通して出会ったのがジェイラスである。
彼は近衛騎士らを束ねる団長であり、アリシアよりも四歳年上で、凜々しい姿にひっそりと憧れを抱いていた。それは異性として好きだとかではなく、尊敬するといった意味で。
伝令係のアリシアが近衛騎士団長である彼から命令を受け、他の騎士に伝えることは多々あった。つまり仕事場において、二人の接点はありすぎたくらいなのだ。
その結果、半年前に彼から気持ちを伝えられた。
アリシアも一年前に成人を迎え、結婚のけの字も意識しなければならない年頃で、さらに憧れの騎士団長様から告白されたとなれば、断る理由など見つからない。
ただ、その現実が信じられないだけで。
ジェイラスが言うには、王太子ランドルフの結婚も決まったため、自分も腰を落ち着けようと思ったとのこと。そしてその時期にアリシアと出会い、惹かれたと。
アリシアは彼の相手が本当に自分でいいのかと不安になったが、ジェイラスから熱い気持ちをぶつけられ、それに答えた。
それから半年間、アリシアはジェイラスと恋人関係を続けている。
しかし今日がランドルフとクラリッサの結婚式であったため、これをきっかけに自分たちの仲も進展があるかもしれない。
アリシアは密かにそんな期待を寄せていた。何か特別な言葉があるのではないか、と。そうしたら自分も彼の恋人だと自信を持てるのではないか。
賑やかな場を抜け出した二人は、ジェイラスが与えられている部屋へと向かった。
近衛騎士団長でかつ王族の近衛を務めている彼は、王城内にも私室を与えられている。
部屋に入った途端、ジェイラスはアリシアを強く抱きしめ、激しいキスを求める。
彼の唇が触れた場所からは熱が生まれ、それが全身に広がっていく。
「俺は、おまえと一緒になるつもりだから……」
その言葉が嬉しくて、アリシアはさらに口づけをせがんだ。
ジェイラスもそれに応える。
一糸まとわぬ姿となった二人は、絡み合い、熱に浮かされた身体を何度も重ねた。
同じ騎士であっても、男と女。そして所属している部隊も異なれば、アリシアの身体は小さく細く、ジェイラスの身体にすっぽりと覆われてしまう。
むつみ合った後、こうやって向かい合って抱き合って眠るのは、嫌いではない。むしろ好きだ。
アリシアは、少し上目遣いで彼の顔を見て、甘えるように声をかける。
「ラス」
その呼び方がアリシアだけに与えられた特権のようなもの。
「ん?」
他の人の前では仏頂面なのに、アリシアにはこうやって笑顔を向けてくれる。
「ラス、大好き」
またジェイラスの顔が緩んだ。
「シア……俺たちもそろそろ……」
――結婚しないか?
そうささやかれ、アリシアを抱きしめている腕に力が込められた。
アリシアも望んでいた言葉を耳にして、心臓が爆発するのではないかというくらい、激しく音を立てている。
「俺たちの子が殿下の子を護衛する。それに憧れがあるんだ……殿下たちも結婚したことだし……恐らく殿下のあの溺愛ぶりからすると、子はすぐに授かるだろう」
「え?」
その言葉で、アリシアの心の中にあった期待の風船が、一気にしぼんだ感じがした。多幸感が満ちあふれていたのに、それがしゅっと吹き飛ばされたような。
「シア?」
だが、なぜかジェイラスはすっかりと興奮しきっていて、二回戦、いや三回戦に突入する気満々である。
「んっ……」
ジェイラスはアリシアの口を己の唇で塞いだ。