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†ジェイラスの希望

「殿下、伏せてください」


 鋭い叫び声が広間に響き渡った。そこにいた者たちが一斉に声の主へと顔を向ける。


 そのとき、二階から放たれた矢が、冷たく光を反射しながらランドルフへと向かっていた。鋭い音が、空気を切り裂く。


「殿下!」


 ジェイラスは咄嗟にランドルフを庇うべく身を投げ出そうとしたが、距離が遠すぎる。間に合わない。


 ――ガシャンッ!


 激しい音と共に、ランドルフが椅子ごと倒れた。衝撃で広間の空気は、一瞬、凍りついた。彼をかばったのはアリシアだ。


 ジェイラスはすぐにランドルフを助け起こすつもりだったが、彼は侵入者を捕まえるようにと、視線で訴えてきた。


 ジェイラスは部下に指示を出す。広間に残ってランドルフを守る者、二階へと上がって侵入者を捕らえる者。


 ジェイラスもすぐに二階へと向かった。だがそこには信じられない光景が広がっていた。

 一羽の鳩が、侵入者の顔を執拗につついているのだ。くちばしと羽と爪と。白くて小さな身体のどこにそのような力を隠しているのだろう。


 侵入者は異国の言葉で何かを叫び、必死に鳩を払いのけようと腕を振り回すが、鳩はその攻撃をひらりひらりと舞うように交わす。


「取り押さえろ!」


 ジェイラスの声で、部下たちが一斉に侵入者へと飛びかかり、その自由を奪った。

 しかしそのとき、背後で何かが倒れるような重い音がした。


 ――ドサッ!


「アリシア!」


 彼女が力なく床に崩れ落ちていた。


 ジェイラスはすぐに彼女の側に駆け寄って、その身体を抱き起こす。手に温かく粘つく血の感触が伝わった。


 アリシアはランドルフをかばった。そのおかげでランドルフに怪我はなかったが、アリシアが矢を受けた。


「おまえたち、侵入者を拘束して領主館へ連れていけ。地下に牢があるはずだ。そこにぶち込んでおけ」


 怒りに満ちていたジェイラスだが、その感情を言葉に乗せるようなことはしなかった。


 領主館の地下には、どの地方でも犯罪者を閉じ込める牢が備えられている。


 アリシアを抱き上げたジェイラスは、急いで階下へと向かう。とにかく彼女の手当をしなければ。

 傷口は幸い浅かったが、彼女の額に浮かぶ汗と異常な発熱、そして微かに震える唇。恐らく、矢の毒によるものだ。


 モンクトン商会の使用人に声をかけると、ぐったりとしたアリシアの姿を見て彼らは慌てふためき、すぐに人を呼びに行った。


 会長夫人のコリンナだ。客室を使うようにと、案内してくれた。


 ランドルフも屋敷内の安全な部屋へと移動したようだ。会長は青白い顔をしていたが、状況を考えればそれも仕方あるまい。


 だがランドルフは決して会長を責めないはずだ。むしろ、アリシアが身を挺してかばったことを評価するだろう。


「すまない。彼女の手当をしたいのだが……」


 ジェイラスはアリシアの服を脱がせることに躊躇いを感じていた。この状況で自ら手を下すのは適切ではないとわかっていた。


 だから誰か女性に手伝ってほしかった。


「では、手伝いを呼びます」


 そう言ってコリンナは年配の女性を呼んだ。


 それからジェイラスは持ち歩いている解毒薬を彼女の患部に塗り、包帯を巻くようにと指示を出した。薬のにおいが室内に広がる。


「彼女の目が覚めたら教えてほしい。解毒剤を飲んでもらう必要がある」

「わかりました。ありがとうございます」


 礼を口にして深々と頭を下げたのはコリンナだった。


 アリシアがモンクトン商会の会長夫妻と深い絆で結ばれていることは明らかだ。彼女がこうして大切に思われている姿に誇らしさを感じると同時に、自分をまるで覚えていないことへのもどかしさに胸が締めつけられた。


 アリシアが眠る部屋を後にしたジェイラスは、ランドルフの元へと向かう。彼はまだ、この屋敷にいる。急いで移動するのはかえって危険だと判断したのだろう。


 屋敷で最も安全な部屋といえば、プライベートな空間を除けば、会長の執務室だ。


「ジェイラス。彼女の様子は?」


 部屋に入るなり、ランドルフがそう尋ねてきた。その声には普段の威厳に加え、微かな不安がにじんでいる。彼の前に座るボブもまた、顔を曇らせていた。


「必要な処置を終えました。傷は深くありませんので、一か月も経たないうちに回復するでしょう。ただ、毒の影響を受けていますので、解毒が必要です」


 ジェイラスの報告に、ランドルフは小さく頷いた。


「なるほど。状況はわかった。さっきから会長が平謝りだが、こちらの騎士よりもモンクトン商会の者が良い動きを見せたと褒めていたところだ。この屋敷に侵入者が入り込んだのは、私がいたからだろう。となれば、それを防ぐべきは君たちだった」

「申し訳ありません」


 ジェイラスは頭を下げたが、ランドルフは手を振ってその言葉を遮った。


「そういうことで会長。今回の件は、我が騎士団の落ち度だ」


 その口調は、話をここで終わらせることを明確に示していた。


「さて、そろそろ我々はお暇しよう。ジェイラスはここに残り、彼女の治療を続けてくれ。毒による後遺症が残っては大変だ。会長、彼を残していく。万が一のことがあっても、彼がいれば問題ない」


 そうは言っても、ランドルフが領主館に戻る間、ジェイラスも同行せざるを得なかった。その後、彼は一人でモンクトン商会の屋敷に戻ってきたのだ。


 アリシアが目覚めるまで、ボブの執務室で彼と話をしていた。


 ボブは、シアについて教えてくれた。


 シアという名前は、コリンナとシェリーが彼女をそう呼んでいるだけで、本名かどうかはわからない。知能も運動能力も高く、驚くほど多才な彼女だが、自身の過去については何も覚えていない。

 それでも、彼女はシェリーの命の恩人であり、記憶を失った彼女を見捨てることはできなかったとボブは言う。


 だが、ただ養われるだけの生活をシア自身が嫌がったため、養護院で子どもたちに勉強を教える役割を与えたが、これが彼女にとっては天職だったようだ。彼女の下で学んだ子どもたちは、国内外問わず活躍しているらしい。


 これはランドルフから見せられた報告書の内容とも一致している。


 ジェイラスはボブから話を聞けば聞くほど、複雑な感情に支配された。アリシアはここで新たな生活を築き、重要な役割を果たしている。


 だが、ジェイラスは彼女の過去を呼び戻したい。その結果、今の生活を奪うかもしれない。

 その葛藤が、彼の心を重くした。


「だから、私はあの記憶喪失が魔法のせいではないかと思ったのですよ」


 そこでボブは顔を曇らせた。

 魔法は魔力を用いる。また、魔力が込められた石を魔石と呼んでいるが、魔法が使えぬ人間も魔石の力を利用することはできる。


 しかし稀に、魔力を備えている人間がいて、そういった者たちが魔法を使えるのだ。


「シアの失われた記憶は、彼女自身に関するものだけです。ここに来るまでの記憶をすべて失ったなら、この街がどこで、どんな場所なのかもわからないはず。だが、彼女はサバドの街の代表の名を知っていた。この街の特徴も、ギニー国の言葉も理解している。わからないのは、シア自身のことだけ。息子の父親すら覚えていない」


 ボブの視線は、ジェイラスの心を見透かすようだった。魔法による記憶喪失という言葉が、ジェイラスの胸に深く響く。


 いったい、それはどういうことなのか。


 そのとき、扉を叩く音が響き、サマンサが現れた。


「シアさんがお目覚めになりました」


 ジェイラスはサマンサに手伝ってもらいながら解毒薬を作って、アリシアが休む部屋へと向かった。

 扉をノックする瞬間、柄にもなく緊張した。手は震えていたかもしれない。


「……はい」


 部屋から彼女の声が聞こえ、心が揺さぶられた。


「ジェイラス……さん?」


 寝台の上で彼女は身体を起こしていた。しかし、その足元には何かがある。ぬいぐるみかと思ったら子どもだ。


 彼女の傷の具合を確かめながらも、ジェイラスはしがみついている子どもから目を離せなかった。


「息子です。そこで眠ってしまったみたいで」


 アリシアの声は弱々しかったが、息子を見つめる目は温かかった。


 彼女が気を失っているうちにやってきて、そのまま母親にしがみついて眠ってしまったらしい。だがそのままにしておけば風邪を引いてしまうだろう。


「この子の名前を聞いてもいいか?」


 できるだけ平静を装ったつもりだ。それでも内心は期待と不安で押しつぶされそうだった。


 もしかしたらジェイラスの子かもしれない。いや、この子の特徴からいっても、間違いなくケンジット家の血を引いている。


「ヘリオスといいます」

「ヘリオス……」


 その名を聞いた瞬間、ジェイラスの胸に熱いものがこみ上げた。


 間違いない。ヘリオスはジェイラスの子だ。そして、アリシアは無意識のうちにその名を覚えていたのだ。


 三年前、恋人同士の戯れで、一度だけ、子を授かったらどんな名前をつけたいかという話をしたことがあった。


『……ラスと似た名前がいい』


 いつもの情交のあと、少しだけ恥じらいながら彼女はそう言った。シーツにくるまり、頬をほのかに染めた彼女の姿が、今もジェイラスの記憶に焼きついている。


『俺に似た名前?』

『そう。男の人って、不安になるって聞いたの。本当に自分の子かって。だから、ラスがそんなことを思わないように、不安にならないように、ラスに似た名前をつけるの。そうすれば、名前を聞いただけでも、ラスの子だなって、みんなわかるでしょ?』

『俺の子は俺に似るから、俺は俺の子だって自信をもって言える』

『そんなの、わからないじゃない。めちゃくちゃ私に似るかもしれないし。ラスの要素が一個もないかもしれないよ?』


 それもあり得ない話ではない。


『だからね、名前だけはラスに似たのがいいかなって』


 そこで彼女は、男の子だったら、女の子だったらと、いくつか名前の候補をあげ、そのうちの一つがヘリオスだった。


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