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第三章(2)

*†~†~†~†~*


 シアは耳を疑った。


 その日の朝、ヘリオスを預けるためにモンクトン家の屋敷を訪れたときのことだ。

 王太子ランドルフがサバドに滞在している影響か、朝の街はどこか浮ついた熱気に包まれていた。いつもと異なる喧騒が、どこか落ち着かない。


「王太子殿下がシアのことを非常に気に入ったようでね。だから、今日の視察は同行してほしいと依頼を受けたのだが……」


 ボブは言葉を濁しながらも、その顔には隠し切れない喜びが浮かんでいる。


「え、と……」


 信じられない気持ちが先に立ち、シアはきょどきょどと視線をさまよわせる。


「私が、ですか?」


 そうだ、とボブは自信満々で頷く。隣に立つコリンナも、先ほどからにこにこと微笑んでいたのは、これがその理由なのだろう。


「とても光栄なことじゃないか。このモンクトン商会の人間が、王太子殿下から指名を受けるとは。今日と明日、お願いしたいそうだ。特に今日は、ギニー国の商人とも会うから、そこで通訳もお願いしたいとのことだ」

「それは……コリンナが……」


 シアの声は小さく震えた。コリンナはギニー国の出身だ。それも貴族の出だと聞いている。ましてや会長夫人なのだから、彼女が適任ではないのか。


「王太子殿下のご指名よ? 昨日の授業の視察の後、私とこの人と、シアのことをベタ褒めしちゃったのよね。そのときについ、シアはギニー語もできるから、子どもたちにも教えているって言ったら、是非とも通訳で同行してほしいって」


 コリンナの言葉は明るく弾むが、シアの心はますます縮こまる。突然のことに頭が整理しきれず、自信のなさが重くのしかかる。


「でも……」


 あまりにも急なことで戸惑いを隠せない。


「私なんか、恐れ多いです……」

「シアが引き受けてくれると、私は晩餐会の準備に専念できるし」


 今日の夕方、モンクトン商会は王太子一行を招いて晩餐会を開催するが、商会の商品を宣伝する重要な場も兼ねている。ボブの抜け目ない商売魂が、こんな機会を見逃すはずがない。


 そうなれば、会長夫人であるコリンナが準備を仕切る必要がある。彼女が会場にいるかいないかで、使用人たちの動きも変わるだろう。シアにはその理屈がわかる。わかってはいるのだが。


「でも、私も子どもたちが……」


 シアの声はさらに弱弱しくなる。

 気になるのは養護院の子どもたちだ。ただでさえいつもと異なる街の雰囲気、そして王太子による授業見学。子どもたちにこれ以上負担をかけたくない。


「シア。君が思っているほど、あの子たちは弱くないよ。事情を話せば理解してくれる。むしろ、王太子の視察に通訳として同行するシアを誇りに思うんじゃないかな?」


 ボブの言葉は優しく、しかし確信に満ちていた。シアの心は揺れる。


「でも……」


 先ほどから「でも」しか言葉が出てこない。自分の声が情けなく聞こえる。


「もう。じれったいわねぇ? こう言えばいいんでしょ? 王太子の視察に同行すること。これは、会長命令よ」

「おいおい、コリンナ」


 会長命令と勝手に口にしたコリンナを、ボブは呆れたように見つめていた。


「だって、そうでも言わなきゃ、シアは引き受けてくれないでしょう? 学校には、他の人を行かせるわ。そろそろシア一人では大変だと思っていたときだし、教室も分けてもいいかなって考えていたときだから。教師の数も増やしたいのよ。ね、あなた?」

「うん……ま、まぁ。そうだが……」


 ボブはコリンナの勢いに完全に呑まれている。シアは二人のやり取りをぼんやりと見つめながら、押し寄せる現実をどう受け止めればいいのかわからない。


「ね? シア。ここは引き受けてみて?」


 コリンナの声は柔らかだが、その裏には「断る選択肢はない」と言わんばかりの圧があった。

 シアはとうとう折れた。


「わ、わかりました……そこまで言うなら……」

「ありがとう、シア。ね? あなた!」

「そ、そうだな。コリンナが少々強引なところもあったが……それでも引き受けてくれて嬉しいよ、シア」


 ボブの笑顔に、シアも頷くしかない。


 国側がモンクトン商会に一目置いているのは知っている。そして他国、特にギニー国との結びつきが強いことを懸念している。だから今回の視察なのだ。


 もし失敗したら、商会の名誉を傷つけることになるのではないか。


「では、視察の流れについて説明しよう」


 ボブの説明にシアははっとした。彼も視察に同行するが、ギニー語は商売用に限られ、通訳は務まらない。


 本来はコリンナが通訳を務める予定だったが、王太子がなぜかシアを指名したという。コリンナがシアのギニー語の能力を伝えたとしても、それだけで通訳に選ばれるのはいささか腑に落ちない。

 シアの胸には微かな疑問が残る。


「あっ……それよりも、こんな服で大丈夫でしょうか……」


 シアはふと我に返り、自分の姿を確認した。今日も学校で子どもたちに勉強と剣術を教える予定だったから、動きやすいズボン姿だ。王太子の視察に同行するのに、このような格好でもいいのだろうか。


「そう言われると、そうね……」


 コリンナが視線を下から上、上から下へと動かして、そのままそこで止め、ふと笑みを浮かべる。


「着替えましょう。私のドレスを貸してあげるわ。動きやすいドレスがいいわね。そうね、色は……ラベンダー色のものがあったでしょう? それにしましょう」


 コリンナのてきぱきとした指示に、シアは別室へと連れていかれた。


「せっかく王太子殿下の通訳として同行するんだもの。それなりの装いをしなくちゃ」


 やはり、それなりに見目が求められるのだろう。子どもたち相手とは違うのだ。

 他人に着替えを手伝われることに慣れないシアだったが、時間がない今は文句を言っている場合ではない。


 ズボンを脱がされ、代わりにラベンダー色の簡素なドレスを着せられた。短い髪もサイドを編み込まれ、普段とはまるで別人のような姿に仕上げられていく


「やっぱりシア。似合ってる。普段から、こういう格好をすればいいのに」


 コリンナがうっとりとした視線を送ってきた。ことあるごとにシアを着飾らせたいと思っていた彼女だから、ここぞとばかりに気合いを入れてきたのだ。


「まま、かわいい」


 いつの間にか部屋に入ってきたヘリオスが、目を輝かせて言った。シェリーもその隣で無邪気に笑っている。


「そ、そう? ありがとう、リオ」


 息子に褒められ、シアの頬が熱くなる。子どもの純粋な言葉にはどうにも弱い。


「大丈夫よ、シア。そんな顔をしないで。いつもと同じようにしていればいいんだから」


 不安で顔が曇りがちのシアの肩を、コリンナがぽんぽんと叩いて励ました。

 それからボブが待つ執務室へと向かう。


「これは……」


 シアを見たボブも、なんと言ったらいいのかわからないのか言葉を呑み、目を丸くした。


「あら、ボブ。浮気はダメよ?」


 コリンナがからかうように言うと、ボブは慌てて手を振った。


「いやいやいや。驚いただけだよ。これでは、他の男が放っておかないだろう? フランクもヒヤヒヤするな」

「か、会長!」


 ボブと話をしていたフランクは、急に話を振られて頬を赤く染める。


「フランク。こいうときは気の利いた言葉の一つや二つ、言うものよ?」


 コリンナがさらに畳みかけると、フランクは口をぱくぱくと動かし、ようやく絞り出すように言った。


「シア……よく似合っていると思います……」

「あ、ありがとうございます……」


 フランクの視線に、シアもまた恥ずかしさで顔を赤らめた。互いに気まずい空気が流れる。


「そうそう。学校のほうを、フランクに任せたんだ。子どもたちも、彼ならよく知っているしね」


 ボブの言葉にシアも安堵する。フランクであれば、安心して子どもたちを任せられる。


「では、私は晩餐会の準備をすすめておくわね。あなた、シアのことをよろしくね」

「まかせておきなさい」


 ボブとコリンナは軽く抱き合い、キスを交わした。


 それを見たシアとフランクは、顔を真っ赤にして互いに目を合わせ、慌てて視線を逸らす。

 シアはボブに連れられて、領主館へと向かった。王太子一行が滞在するこの館は、普段のシアには縁遠い場所だ。荘厳な建物が近づくにつれ、緊張が胸を締め付ける。


「今日は、よろしく頼みます」


 ランドルフの声は、驚くほど丁寧で穏やかだった。ボブに向けられたその笑顔には、王太子らしい威圧感や高慢さは微塵もない。


 シアはほのかに安堵するが、同時に、自分の存在がこの場にそぐわないのではないかという不安が頭をよぎる。


「こちらこそ、よろしくお願いします。これを機に、殿下にはこのモンクトン商会の商品を広めていただきたいと思っておりますので」


 王族相手にも堂々した振る舞いができるボブは、慣れたものだ。


「今日はギニー国の商人とも会いますので、通訳はこちらのシアにお願いしました」


 ボブの言葉に促され、シアは一歩前に出た。足が震えそうになるのを必死で抑え、深呼吸する。


「シアです」


 たった一言なのに、声が震え、息が詰まった。


「昨日の学校の先生ですよね。昨日とは雰囲気が異なって驚きました」


 ランドルフの声は温かく、どこか親しみやすい。


 だが、そのときランドルフの視線とは別の視線を感じ、シアは横目でそっと確認する。

 やはり、そこには王太子の近衛騎士、ジェイラスが立っていた。


 昨日の帰り際、『付き合ってほしい』と告げたジェイラスの熱い視線が、シアの頭を離れなかった。なぜ初対面のシアに対して、そのようなことを言ってきたのか。理由がわからない。


 だが今は、そのような事実はなかったかのように、彼は無表情でそこに立っている。


「私も、ギニー語は少しはできますが……それも世間話程度ですから。シア先生は、子どもたちに教えるほどの腕前だと」


 ランドルフの言葉に、シアは慌てて首を振った。


「いえ……私も必要だから話せるようになっただけです。子どもたちも、学校を卒業した子は、ギニー国で仕事をする子も多いので……」


 謙遜するつもりが、言葉がどんどん小さくなっていく。こんな場で、自分の能力を過大評価されるのが怖い。失敗したら、モンクトン商会に迷惑がかかる。

 そんなプレッシャーが、シアの肩に重くのしかかる。


「相変わらず、シア先生は謙虚な方ですね」

「あ、あの……」


 このようなことを王太子相手に言っては不敬かもしれないと知りつつ、シアは勇気を振り絞って口を開いた。


「ここでは私は先生ではありませんので……どうか普通にしていただけると……」


 声が震え、言葉が途切れがちになる。ランドルフの目を見つめるのが怖くて、視線を少し下げた。


「失礼しました、シア嬢」


 その呼び名も慣れないため、くすぐったいような、落ち着かない気持ちが胸に広がった。


「では、ご案内いたします」


 ボブの声が場を切り替え、シアの気持ちがゆるやかに解放された。


 ボブが港を案内し、一行はそこへ向かう。海の向こうのギニー国の荷物を運ぶ船がサバドに到着し、その取引の様子を王太子が見たいのだという。


 モンクトン商会に不正はない。だからこそ、ボブは快く案内を引き受けたのだろう。

 一行は港を訪れた後、サバド各地にあるモンクトン商会の店舗を見て回り、夕方には王太子を招いた晩餐会が控えている。


 シアにとって、今日一日は気の休まる瞬間がない。だが、引き受けた以上、逃げるわけにはいかない。


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