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プロローグ

 遠くで子どもたちの笑い声がこだまする。風がそよぐ穏やかな街角を、夕暮れの光が柔らかく包み込んだ。


「シア……」


 その声に彼女は息を呑んで振り返る。


 名を呼んだのは、濃紺の髪を風になびかせる男――王太子の近衛騎士だ。


 街を視察に訪れた高貴な一行の中でも、彼の存在は王太子と並んでひときわ目立っていた。

 その瞳は宝石のような深い紫色を宿し、まるで彼女を射抜くように真っすぐに注がれる。


 一瞬、時間が凍りついた。


 男の唇は何か言葉を紡ごうとわずかに開いたまま、動かない。


 彼女の心臓は高鳴り、風が彼の髪を揺らすたびに、止まったはずの時間が少しずつ動き始める。

 言葉もなく見つめ合う。西の空に沈みかける太陽が、二人の姿を燃えるように染め上げた。


「まま~、かえるよ~」


 腕の中の息子が小さな手を伸ばし、彼女の胸に顔をすり寄せた。この仕草は「飽きた」「眠い」「お腹が空いた」など、不満を訴えるとき。愛らしい姿だと思う反面、どうやってご機嫌をとろうかと悩むものだ。


 彼女は我に返り、騎士の視線から逃れるように笑みを浮かべる。


「本日はご足労いただき、ありがとうございました。息子がぐずっておりますので……これで失礼いたします」


 急ぎながらも、できるだけ丁寧に言葉を紡ぐ。

 相手は王太子の護衛を務める騎士である。失礼があってはならない。

 そう自分に言い聞かせ、背を向けようとした。


「待て……!」


 抑えきれない熱を帯びた低い声が、彼女を引き止めた。


「はい…?」


 そう言って振り返ったとき、男は一歩踏み出す。


「俺はジェイラス……ジェイラス・ケンジット」


 息子が小さな手で服を握りしめる中、男の突然の名乗りに、彼女は戸惑いとほのかな苛立ちを覚える。


「俺と……結婚を前提に、付き合ってほしい」


 彼女はキャメル色の瞳を、まるで目に異物でも入ったかのように、何度も瞬く。だが、そうではない。それは彼の言葉があまりにも信じられず、動揺したからだ。


 なぜ、王太子の近衛騎士ともあろう男が、素性もわからぬような子連れの女にそんなことを言うのか。王太子の護衛となれば、それなりの身分を持つ者だと記憶している。


「ご……」


 そこで彼女はひゅっと息を吸う。


「ごめんなさい……無理ですっ」


 声が震えた。


 息子が「まま、かえる、まま、かえるよ!」と繰り返すなか、しっかりと抱き直し、彼女は逃げるように小走りでその場を去った。


 男の視線は彼女の背を追い続け、夕日がそんな彼の影を長く伸ばした。

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