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サイレン男  作者: Postal
1/2

サイレン男 前

部屋に差し込む細い月明かりの作り出す影をぼんやりと眺めていた。

まだ夢から覚めていないかのように、意識は体から離れたどこか遠くを揺蕩っている。何も考える気にはならない。いつかどこかで聞いた懐かしい声がするのに、それが昔に録音した音声が頭の中で再生されているだけなのか、不確かな記憶が形だけを整えて作り出した存在もしない幻聴なのかさえ、どうでもいいことのように思えた。

寝転んだ床のフローリングは冷たくて、そして揺れている。

『サイレン男が消えた時も、砂に埋もれた大地が大きく揺れていた』と、僕がただの機械だった頃に見たサイレン男の最期を思い出した。サイレン男は僕の目の前で銀色の粒になって大気に消えた。突然訪れたその瞬間の訪れ、爆炎と爆風、地震のような大きな揺れの中、ひどく澄んだ空のもと銀色の粒になって消えたたった一人の友人の姿。

「常識ってやつは一瞬で崩れることがあるのに、崩れたという事実を人々が認識するまで、浸透するまで、そこから新しく組みあがるまで、そこには気の遠くなるほどの長い時間がかかってしまう。そのせいなのか、どうなのか、俺は自分が正しいことをしたのかどうかさえ、未だにわからないままだ」

僕はポケットの中から懐中時計を取り出した。うつぶせの姿勢のまま顔を少し上げ、時計の針が十二時を超えてなお震えながらも進んでいるのを確認した。自分の置かれている状況を理解しようとするも、意識はまだ夢の続きを探し続けているようで、組み上げた思考がひび割れたマグカップから漏れ出るホットミルクのように零れていってしまう。

金本康史は国産アンドロイドを開発した会社に所属しているだけの普通のサラリーマンだった。中途半端に仕事での成功を収めた人間の多くがそうであるように強い自己愛や根拠の伴わない自己評価をよりどころにしていた。

胸に抱いていた理想や、会社の利益にならないような彼自身の考えなど捨てたほうが彼も周りも幾らかは幸せになったはずなのに、自分の考えを最後まで曲げることのできなかった彼は誰にもなんの説明もせず、日の出とともにいつの間にか晴れてしまっている朝霧のように、どこかへ消えていってしまった。金本康史、この声の主、誰も覚えていないであろう男の名前。

金本康史は話し続けている。その声が僕の頭の中で流れる。冬休みの朝に目を覚まして母親が居間の掃除をしながら流しているラジオの音を布団に包まれながら聞いているように、遠くで彼の声が聞こえる。

「案山子は歩き続けた。以前は幸福だったのに。彼のいた畑は優に100ヘクタールを超える広大な農場の中に在って。二匹の猫と一匹の犬、人間の夫婦と二人の姉妹、それが彼の家族だった。案山子はこの二人の女の子に作られて、鳥を見張る仕事をしていた。充実した日々だった。これという事件もなく穏やかな日常を彼は愛していた。

冬には同じように一家の姉妹に作られたスノーマンの恋人がいたこともあったが二週間で先立たれてしまった。水のように透明で穏やかな死に顔で、太陽に照らされ祝福されたよく晴れた日。幸せな最期だった。

春から秋まで仕事を続ける。穏やかな日の中だったのに……急に喉を焼くような強烈な風が吹きすさんで、案山子は、家族も仕事もすべてを失ってしまった」。

サイレン男の最期をみて、一台のラジオを組み立てて、僕に自身の武勇伝といくつかの簡単な仕事を教えて、金本康史はいなくなってしまった。

僕がすべての物事を理解するよりも遥かずっと前のことだ。

声が頭の中で流れている以外には何の音もしない。あたりは異様な静けさに包まれていて、虫の声も木々のさざめきも聞こえてはこず、空気中を埃が月明かりに照らされて銀色に輝いて舞うその音さえ聞こえてきそうなほどで、僕以外のすべてがまだ眠っているんだなとそんな考えが何より正解に近いのではないかと思えてしまう。それでも『明らかに何かおかしいけれど、差し迫った危険があるわけでもないのだから、夜明けを待とう。とにかく眠い。まだ起き上がりたくない』と、僕はまどろみの中に居残ることを選んだ。

「俺には世界を救うことができたのかもしれない。だがな、自分の信念とか思いに対して正しいと思えることをしたんだ。そこに後悔はない」金本康史が読み終えたばかりの物語に憧れる九歳児のような妄言を口にしている。

 何年も金本康史のことを待ち続けていたというのにその間、彼について何かを考えるということなんて数えるほどしかしてこなかった。考える気にすらならなかった。生きているのか果てているのかもわからない人間について考えたところで、幽霊の存在について真面目に考察するのと同じでまともな結論にたどり着こうはずもない。

「後悔はない。お前と旅したサイレン男が一歩を踏み出したその瞬間に俺は救われたんだ。これでよかったんだってそう思えた。あの映像を観た瞬間に、ようやく、長いこと心に突っかかっていたものがとれた気がした」

もし再会できたなら聞いてみたいことはいくつもあったが、なぜ今になってこんなにも彼のことばかり思い出すのだろう? 変な夢でも見ていたのだろうか? 彼はどうなったのだろう? まっとうに年を取ることができたのだろうか、それとも20歳の青年と変わらない若い姿のまま、今も旅を続けているのだろうか?


・1


〈金本康史〉

「一人でしゃべるってのはどうにも苦手だ。何を話そうか?

そうだな先月、久しぶりに休暇を取っていたんだ。それでお前が自立する前にこれは伝えておこうって思ったことがあったからそれを話そう。

愛知にある生家に戻っていたんだ。だが、生まれ育った故郷ですることなんてたかが知れているものだな、三日間もすると何をすればいいのかがわからなくなってしまった。そこで、せっかく時間はあるのだから今までできなかったことをしようと思い立って、どこか簡単に行けるところで小旅行でもしようと、最低限の荷物だけをもって知多半島を飛び出し、東海地方をめぐっていた。

大学時代を過ごした名古屋に一泊した次の日の朝、名古屋駅の東海道線のホームで立ち食いのきし麺を食べながら電車が来るのを待っている間にふと視界を窓の外へと向けると新幹線のホームが見えた。子供の頃は母親の静止を振り切って、あの白い流線型の列車に一人で飛び乗ることさえ出来たのならば、どこにでも行けるんだと信じていたな。と、幼時の記憶がよみがえってきた。頭の中にある地図が生家や祖父母の家の周辺しか存在しなかったほど幼い時分、新幹線は飛行機よりも速く遠くまで、時空さえ超えて走ってゆくのだと信じていたんだ。観測されていない出来事は、全て、どこにでもあって、少し手を伸ばしさえすれば簡単に手にすることができて、自分が頭で想像できる全てが、現実に存在しているのだと疑わなかった……今でも同じように考えているはずだけれど、幼い時に新幹線の行き先について考えていたようには、自分の知らないものごとに期待をすることは出来なくなってしまったし、知りたくないようなこともたくさん知ってしまったなって、まだ夢や希望にあふれて世の中の何もかもが新鮮だった大学時代に何度もそうしたのと同じように朝の胃腸に優しい出汁をすすっていた。


平日の朝の十時ともなると駅のホームを行きかう人の数も数えるほどしかない。東海道線を待ちながら深くは考えず、岐阜のどこかへ行こうと決めて、どうしようか、大垣まで行こうか、岐阜の街へ行って長良川にでも向かおうか、いっそ高山、奥飛騨まで行ってしまうのもいいな、と、ぼーっと電光掲示板を見つめている間に大垣行の電車がホームに入ってきて、とにかく岐阜の町で一度降りてから改めて考えればいいかと開いたドアをくぐった。


走り出した東海道本線の車両の窓の向こうで流れてゆく風景を眺める。走り出してすぐにビル群は消え、代わりに現れた広告看板と立ち並ぶ工場も現れると同時に置き去りにされていく。大型の商業施設の横を通り過ぎた電車は住宅街に入り、そこまで来ると家々の間にも新緑や季節の色が見えるようになり『ああ、春だな』と又候眠さが戻ってきて、重い瞼と闘いながら矢作川の橋梁の上遠く伸びるのんきな色の空を眺めた。橋を渡り切った先には厩舎があって、あたたかな乳白色の春の日差しの中、馬が手綱を引かれて道を歩いている。車両はまた民家と畑の混ざる区画に入って……東海道線はいとも簡単に県境を越えてゆく。たった二十分で俺は生まれ育った愛知県の中心を離れて岐阜の町についてしまうそれだけのことに、なぜだか思い出し笑いするみたいにニヤニヤしてしまって、頬杖を突くふりをして口元を隠した」。

男は随意分と長い時間を一人で話していた。

チューリングテストでもしていたのだろうか?

「岐阜駅に着いてから何するでもなく、のんびり散歩していた。

特別なことはしなかった。ただ岐阜の町の中、久しぶりの休日を一人で楽しんでいたよ。

跨道橋からロータリーと黄金の織田信長像を超えて、気の向くまま商店街の中を散策し、長良川を目指して歩いていった。町を少し離れて訪れた金華山の麓には藤の花が咲いていて『もう鮎漁の季節だな』って亡くなってしまった祖父のことを思い出した。働き盛りの大人が平日そんな風に一人で町や公園を散策しているのが人目にどう映るかわからないけれど、楽しかった。十二分にリフレッシュできたよ。

なんだかその頃は色々と思い詰めていたし、長いことそんな時間を取ろうとさえしなかったから、新鮮とさえ思えて、楽しかった。

それからは、結局、長良川の温泉宿に泊まることにしてね。

チェックインを済ませて、温泉に肩まで浸かる。岐阜の町の風景がまた頭の中に浮んできて、なんでか心が安らいだ。赤褐色の湯の中で張りつめた精神の糸の繊維が一本一本ほぐれていくような、そんな感覚を味わっていた。


夕暮れを過ぎて夜がきて。


部屋の窓を開け放ってデパートで買った日本酒を片手に眼下を流れる長良川と向う岸の野球場を眺めていた。春を迎えて温かくなってきた夜風を浴びて、また祖父のことを思い出した。桜が散ってしばらく経つと、彼はかがり火をたきながら夜の長良川にアユを捕りに行く。船の上でかがり火の世話をしながら手縄で手繰り寄せた鵜をつかむ祖父の姿を、俺は両親に連れられるがまま乗った遊覧船の上、大勢の観光客たちと共に離れた場所からそれを見ていた。祖父の操る小舟と遊覧船とではそこそこの距離があったはずなんだがな、なぜだか祖父の表情をはっきりと覚えているんだ。せわしなく動いているようなのに、彼はどこか、何と言おうか、ぼんやりしていて上の空みたいに見えた。現存するこの世の何もかもから切り離されたような祖父の横顔。それを赤く揺れる火の灯りだけが照らしていた。どこか神秘的とさえいえる表情で落ち着き払ったその顔。

その鵜の動きを見つめる祖父の横顔を見ながら幼い日の俺は『ああ、なんだかとても幸せそうだな』と、そんなことを思っていた。

それはいつからか俺が忘れていた風景だった」。

男の話を僕はただ黙って聞いた。

「昔は何度もその風景を思い出したんだ。日々を一生懸命に生きながらさ『ああ、じいちゃんもあの時こんな思いだったのかな』って、そんなことを思う瞬間が何度もあったはずなのに

それがいつからか、ぱったりと俺の人生からは消えてしまっていた」

そもそも、僕は言葉なんてものを持っていなかったんだ。

「生きている実感なんてものは乏しい。

乏しくても、その喜びを感じる瞬間が人生にはいくつもあったはずなんだ。

どうしようもなく生きている幸福を感じることが。

日本の高所、身を切るような朝の冷たい風の中、自分が揚げたばかりの日の丸の下で朝やけを眺める少年だった日のように。眠い目をこすりながら旅館にむかって歩いている途中、生まれてはじめて明けの明星を肉眼で観測した標高1200メートルのホテルマンだった夏休みの学生のときように。ひどく乾いた土地をひたすらに喉が枯れるまで、干上がったその地表と同じように喉がヒビ割れていると錯覚するまで歩いてからキャンプで飲む水が、どれほど美味で幸福なのかを知った社会人一年目の青年だった日のように。

俺はそんな瞬間が人生の中に何度もあったことさえ忘れていたんだ。

一つでも持てたのなら、それだけで十分な瞬間っていうものが、いつからか消えていた。

見つけて、繰り返し味わっていければ、そんな瞬間の一つを持ってさえいれば生きることは楽しんだ。

自分にとって何も意味の見いだせないような場所で、ダラダラと働きながら、給料に文句を言うにしても、金のためではないそういった喜びを生活の中に一つでも見出せたならそれでいいんだ。

初めて外国へと出て十五時に来るピックアップのトラックに乗って、農夫として仲間と眺める空はどこまでも広かった。北ヨーロッパの秋の夕暮れの街中、配管工として生きていた俺が汗くさい体のまま、屋台の前で夢中になってほおばった魚のパイはどんな家庭料理よりも温かくって甘かった。夜の十時、客が寝静まった中で仕事を終えた仲居として板場の人間と語り合いながら、露天風呂の中から見上げた夜空の中、浮かぶ早川町の雲は、月光を反射し輪郭を濃くして尚ありありとそこに見えた。

そういう、心動く瞬間に出会う度に俺はその祖父の表情を何の気なしに思い出していたはずなのに、随分と長いこと忘れてしまっていた。ようやく思い出して、そうした喜びから遠く離れた生活をしていたってことに気が付いたんだ」。


言葉も意思も何も持っていなかった。


「ロビンソ、お前はそんな風に俺が見てきた事柄のうちの一つでも知ることはできるのだろうか?

人生において一番不幸なことは旅をしないことだけれど、二番目はそんな日常の中にある幸せをすっかり忘れ去ってしまうことだと思うんだよ。どこまでも勝手で偉そうに聞こえる俺の持論だけれど……その両方をなくしてしまっていた人間からのアドバイスだ。お前がもしもそんな幸福を見つけることができたのなら、それを捨てずにいてほしい。そして、これもできるのなら、人として現実の中で得られる幸福を誰かと分かち合ってほしい。

俺はそんな簡単なことをずっと忘れていた。

サイレン男がいなければ今も忘れたままだっただろうよ。

梶原も、俺の友人も、そんな自分だけの瞬間を持つことを忘れてしまっている」。


それとも僕が記録していないだけで、砂漠に生えるサボテンほどの知能は備えていたのだろうか。


「梶原が上に上がって、俺が異動になって、そこからずっと忙しい日々が続いていたけれどそれでもラジオだけは聞き続けていた」


だが、少しだけ声のトーンを落とした金本康史の声も当時の僕にとってはただの波形でしかなかった。


「仕事終わりの夜の駐車場で……車に乗り込んで、運転をするでも、アクセルを踏むでもなく、ただエンジンをかけて、冬の寒さにあてられて買ったそばからもうぬるくなっている缶コーヒーを握りながら、ラジオを聞いた。

後でいくつになっても恋しくなるような、老人がロッキングチェアの上で思い出すような。しょうもない。取るに足りないような思い出だけれど。地下の駐車場でコンクリートに囲まれながら聞くラジオの音だけで、俺はどうしようもなく安らぎを覚え、生きている実感を得ることが出来た。

父に銀色のポケットラジオをもらったあの日から、俺の人生の傍らには常にラジオがあった。


誰かの声が必要になることがある。もし人々がすべてを失ってしまったとしても娯楽ってものがあればきっと心は救われるはずなんだ。もう、誰かを傷つけるなんてことはしたくない。もし国が焦土になってしまって人々が途方にくれたとしても、なんでもない日常を思い出させてくれるような声があったのなら、夜におびえずに眠ること俺はそう思うんだ。そうだな、旅の話を聞きたい。どこか遠くにある美しい場所を思い出させてくれるような旅の話」。


単なる録音機能の動作確認ならこんなにも長く話す必要はなかったはずだ。


「これを後輩の女の子に話したところで、どうせ呆けた表情か、困ったような笑顔になるだけだろう? だから誰も聞かないようなところで録音して残しておく。昔、二人で何度も繰り返していたのと同じただの録音機材のテストだ。誰も聞きはしないだろう」


そう言って金本康史はしばらく黙った。


「誰にも触れられることの出来ないような思い出をさ、もしもハードディスクの上に落とし込むことが出来たのなら、それは価値のあることなんじゃないか? って、そんなことを思いついた。

だから、つくってみた。自分自身の思い出ってやつがどの程度の物か紡いでみたんだ。

数列と文字列といくつかの画像を使って、そうしたらさ、それはたったの1648キロバイトにしかならなかった。笑えるだろ? とても不鮮明で不確かだったんだ。そんな瞬間を大切に思い出すんだよ。子供が海岸で拾った、元が何かも分からない位に白く石灰化しかけた真白な二枚貝の片方を大切にするみたいにさ、それを大切に保っていた。そのことを知ったら、なんだか嬉しくなったんだ。嬉しくて、楽しくてね、久しぶりに笑った『最近笑っていなかったな』ってまたその時に気が付いた。

それだけだった。それで十分だった。疲れて、色々と悩んでいるものだと思いこんでいた、思い返せば返すほどに俺はこの上なく幸せだったんだ。それを知った瞬間、それ以上の物なんか何もいらないと思った。

そうだな……この言葉を、梶原、もしもお前が聞くことがあったのなら、お前はそれをどう感じるんだろうね。無責任。と、俺を責めるのか?

まあ、そこまでは気にしないことにするよ。会者定離の世の中だ。出会ったものは必ず別れる。そうでなくとも世の中は目まぐるしく変わる。それでも、さ、亡くしたと思っても残っていたものはあったって話だよ。たったの1648キロバイトだったけれど。

きっかけはサイレン男だった。

全部が終わって、故郷に帰って、それで改めて思い出した。自分が何をしたかったのか」


言葉も意思も何もなかったけれど、夜の砂漠、星空を見上げてたたずむサイレン男の姿だけはずっと頭の中にあった。この音声から三か月前に記録したその映像はだけは初めから僕の頭の中にあった。


「サイレン男の優れたところは経験を学習として変換できたところだろうな、知能が発展した要因はそこだと思う。確信があるわけではないけれど。それがなければサイレン男は結局、六歳児ほどの知能しか持たなかったろう。宙に舞うビニール袋とUFOの区別もつかないような、そんな存在で終わってしまっていたかもしれない。


そうだな、最後にまた韮山のラジオを流そうか。俺が昔よく聞いていたものだ。

俺は当時……いや話すのはもうよそう。仕事中話さないからって思い出話をし過ぎた。まあでも聞いている人が居たら、存外楽しんでくれるかもしれない。どうだろう?

まあ知りようもない先のことなんていいんだ。ロビンソ、最後にラジオ鑑賞だけ付き合ってくれ、それで今日は終わりにしよう」。


キャスター付きの椅子を動かす音がして、マイクの前にいた金本康史の立てていた音がだんだんと離れてゆく。


ノイズ。

ダイヤルを回すコココという音。

マウスをクリックする音。

無音。

またノイズ。


やがてノイズが止み、切り替わるようにして繋がれたプラグから頭の中、直接打ち込まれる形でラジオの音源が流れ始めた。大音量でエレクトロスイングが流れて頭が割れそうになる。苦痛。だが、僕は抗議の声をあげることも、自分で音量の調節をすることもできない。大きすぎる音に耐えていると。音は徐々に小さくなっていき、心地よい音量に変わった。

いつ放送された物かもわからない、男が昔聞いていたというラジオ番組が流れる。

使用許諾の必要ない無料の音楽を使うしかない程、その頃のラジオ局は低迷していて、話しているパーソナリティーさえも自分のことを一度も演者とは名乗ることをせず。自分の肩書は作家だと言い続けていた。どことなくアングラといった雰囲気が漂う繁華街の裏通りのような放送。それはラジオに詳しくない僕にも、きっとこの放送がそんなに長く続くことはなかったのだろうな、ということを感じさせるような無気力なものだった。


・2

〈韮山陽光〉

「さあ、夜の賑やかしでやっております。お相手は代わらず韮山陽光! この後三時まで生放送、揺れる枯れ木の賑わい程度のものでやっておりますが、どうぞ最後まで。


さて戻ってまいりました、続いて新コーナーにまいりましょうか『アマチュアラジオドラマ』。こちらのコーナーはリスナーから募集したはがきに書かれた物語を私、放送作家をしております韮山陽光が読み上げ、その内容を三段階で評価してゆくというものです、紹介された方には評価に応じてノベルティグッズをプレゼント! 早速まいりましょう。まず最初のお便りは、愛知県南知多町ラジオネーム『サイレン男』さんから!


サイレン男の話をしよう。僕にとってのヒーローの話だ。ただ、前置きを言わせてもらえるなら、これはどうしても子供の頃に作り出した僕の幻想であるので、どの面から見ても荒唐無稽だ。(燃料はバイオエナジーと太陽光発電である。残飯や木材、水分を多く含む可燃物からエネルギーを生成することもできる)。

彼は独立した個体として他のロボットたちと荒廃した阪神甲子園球場に住んでいる。商業的価値を失った野球が地方興行をやめた後、スタジアムとも呼ばれる闘技場で非人道的な団体に作り出され、実験に使われるロボットの名前がサイレン男だ。

彼らは量産されるとそのうちの一割は日々球を打ち続ける実験と、球を捕り続ける実験を研究員に行われて耐久度を試されている。驚くべきはその耐久度だ、一日に二千以上、年に七〇万回近くもその与えられる衝撃に耐え続ける。数値だけを見ても彼らがニトリで売られているソファーなんかよりもよほど優れているのがわかるだろう?

そうして一年ごとにマイナーチェンジと三年ごとのフルモデルチェンジが行われ、政府からの助成金で作られる正真正銘のヒーローたちだ。

テレビで流れる国会答弁の中で、憲法九条がある限りヒーロー以外の何物でもないのだと、その存在を証明された彼らは、ぼくら日本人にとって本物のヒーローだった。

午前九時に球場のサイレンが鳴ると彼らは一斉に動き出す。耐久実験を行い、町に出向いては悪人たちを粛正し、また甲子園に帰ってゆく。夜になる前に彼らは格納庫に入って眠りにつき、また翌日にそなえるのだ。

それが僕の考える一番強いヒーロー、アンドロイド。その名もサイレン男だ」。


「韮山陽光に関して俺から話せることは多くない、四十六歳の時に大麻の所持で逮捕されたのが少しだけニュースになったという事実と、このラジオ以外には、彼に関する情報なんて存在しないんだ」

そう言って金本は笑った。

「でも韮山陽光が逮捕されたっていう情報がネットの片隅に流れた時、そのニュースを見た時、俺はすんなり、簡単に、納得したよ。

厄介なのがそこだ。まあ、やっているだろう。と、そう思っただけ。何も驚かなかったんだ。だから彼のことは好きだったけれど、その報道を聞いたところで何かショックを受けるようなことはなかった。それよりも何年か後に介護している母親に不意に頬を平手で弱弱しくたたかれた時の方がよほどショックだった。

韮山陽光なら合法の物よりも違法なものを好んでいたとして、何もおかしくはないな。って、そう思ったんだよ。そう思ってしまってから、俺の中にあった倫理観みたいなものが少しずれた。彼の行いに対して明確に法律違反なのに、悪いことだよなって思えなかったんだ。まあ、彼の事はいいんだ。重要なのは、ラジオの話だ。情報受信媒体としての、機械としての、物体の、ラジオの話……。

小学生の時に父さんがプレゼントしてくれたんだ。銀色のシンプルなデザインのポケットラジオだった。当時、小学校の低学年だった俺にはまだ意味の分からない言葉ばかりで、放送の内容をちゃんと理解していたとは言い難いけれど、何か自分だけが特別に聞くことの出来る秘密の電波を傍受しているような気になって、どこに行くにもそのラジオを持ち歩いていた。友達と二人で押し入れにこもりながら、海釣りをしながら、同級生とした野球の順番待ちの間。意味も理解していないのにずっとラジオ放送を聞いていたんだ。友達が誰もそんなものを持っていなかったのもあって、嬉しくなって、どこから流れてくるのかもわからない無線放送を心躍らせながらきいていた」

男は語り続ける。当時幼いその男には背徳的な行為をしているような高揚をもたらした。ポケットラジオを持ち歩く。そんな、なんでもないことを格好いい事だと信じていたと。

「ラジオは俺にとても多くのことを教えてくれた。自分の国が滅んだことも、外国の音楽の流行りも、県内にある有名なパン屋がいまどんなパンを焼き上げたのかも、世界中で起こっているどんな出来事もラジオで聞くことができた」

ラジオそのものを崇拝する宗教でも始めそうな話を聞きながら、僕は少し嬉しくなった。

「いつからか、ノイズが混じって銀色のラジオは何もしゃべらなくなってしまった。

今も静かに南知多の生家に置かれたままになっている。


父にもらった銀色のラジオは壊れてしまったけれど、いつの年代も俺の部屋にはラジオがあって、常に世の中に現れる新しいことを教えてくれた。何が面白くて、人が何を感じていて、誰がどんな不満を持っているのか、その時々の一番新しいことをラジオは全部教えてくれた。

けれども、それも、もう昔の話だ。ラジオは何も新しいことを教えてはくれなくなってしまった。でも、俺はもう一度ラジオを聞きたいんだ。だから、ラジオそのものを作ろうと思った。いろいろと創造してきたけれど、やっぱりラジオっていうのは特別だ。

そうだな、もう少し先の物も聞いてみるか? 韮山陽光の……いいや、今日はもうよそう」

そう言って男は録音を打ち切る。

男は使用していた機材が完全に止まったのを確認してから、韮山陽光と言う男のラジオ番組が録音されたテープを取り出すと、まだ動くことのできない僕の方へゆっくりと近づいてくる。


・3

 記憶が修復されていく。


僕は金本康史がかつて働いていた企業が経営しているホテルで支配人をしていた。

ホテルは山梨県北杜市の高台に建てられていて、別荘地の奥から延びる入り組んだ山道を進んだ先のとても静かな場所だった。聞こえるのは川の音と野生動物の鳴き声くらいで、一日一日を、ただ、何も考えず静かに過ごすことの出来る居心地の良いホテルだった。かつては八ヶ岳が切っ先鋭い刃のように雲を切り裂くその稜線を眺めることが出来たのだが、連峰は何年も前に削れて消えてしまった。


一つ申し開きをするのならば、支配人をしていたとは言ったが、僕自身その肩書に見合うだけの経験を積んできたわけではない。長い時間を過ごす間に人がいなくなっていって、残った僕にその役職が与えられただけだ。仕事の内容だけの話をするなら、支配人というよりは管理人と言い換えた方がしっくりくる。つまりはただのハウスキーパーだ。

もう何年になるだろうか、僕のしていることといえば、午前の間に館内の清掃を行い、午後はのんびりと庭の手入れなどをしてから、広すぎる厨房で夕飯を作り、沈む夕日を眺めながらそれを食べるだけだ。日がな一日家事をする専業主婦のように過ごし、夜には自室へと帰っていく。


それだけ。


ずっと前の春の夜、急な異動を言い渡されて長野の工場からこのホテルにやって来た。

明るい月夜だった。外灯の明かりなんてなくても駐車場を囲むように群生する小さな白い花がはっきりと見えたのを覚えている。

 車から降りた僕はホテルの駐車場で「君は今日からここで暮すんだ」と、孤児院から引き取られた少女に掛けるような言葉で上司から状況を伝えられる。

『本当に急な異動だった』。

工場で働く僕のもとへと唐突にやって来た上役の人間達に「今から山梨の北杜市にあるホテルに行ってもらう」と告げられ、それがどういう意味なのか、その場所で何をすればいいのか、それらを何一つ伝えられないまま僕は車に乗せられ、長野と山梨の県境を越えた。約一時間半での出来事だった。

ここで暮らすのか? ここで働けということか? ここに来た目的はなんだ?

たどり着いたホテルの前、僕は矢継ぎ早に上司に質問を投げかけたが

「そうだな、働いてもらう。接客や給仕もしてもらう。

現場の指示に従って、普通の人間として働いてくれればそれでいい。だが、ホテルの仕事に関してはそこまで真剣にならなくてもいいさ。片手間にこなす程度で、と、言おうか……まあ、それでも、やるからには頑張りたまえ。

だがそれとは別で君にはても重要な仕事がある……難しいことではない。それについては追って説明する。まずは中へ入ろう。夜はさすがに冷える」説明になっていない説明だけをして、上司は足早に駐車場を横切って行った。

山奥のホテルは明かりが点いているのに、外に漏れる音は無く、静かで。小心者なら風の音にさえ怯えて暮らすことになるだろうな。と、そんなことを考えながら正面玄関の自動ドアをくぐった。しかし『重要な仕事』とやらの内容を僕が告げられたのはその日から二年以上後のことだった。上司は建物の中に入った僕をホテルの従業員に引き渡すと、仕事の説明も僕への別れすら言わず長野の本社へと帰っていった(あまりに自然に外へ出るものだから僕は彼が帰ったのだと気が付かなかった)。

置き去りにされた僕は普通のホテルマンとして働いた。当時のホテルは(年に一人か二人の客を迎えるだけのここ数年とは違い)観光客やスキー客でにぎわっており、僕は言いつけられる通りに、フロントに立ったり、ベルボーイをしたり、レストランでの配膳をしたりといった具合に真面目に仕事をしていた。福田という男が僕の指導係としてつききりで様々なことを教えてくれた。一日の仕事の流れや同僚とうまくやるための方法、生活に必要な店の場所、気晴らしに行くのにちょうどいい店まで、賑わっているとは言っても常に仕事に追われているということはなく、日に何度かは訪れる退屈な時間の度に、福田は無駄話をした。来てすぐのことにはいろいろと聞きたいこともあって僕の方から積極的に話しかけたのだが、解消することのできる疑問の尽きた後には福田がその時にしたい話をただ聞くだけになって、就業時間のほとんどを共に過ごしていた僕はその話に付き合わなければならず、それを聞き流すための相槌が日増しに上達していった。知りたいことについて質問をしたものの、福田は不自然なほどに何も知らなかった。彼がしたのは七割の僕の琴線にまったく触れない話題と、二割の仕事にまつわる話題と、一割の興味深い彼の過去の話だった。

福田は本社が町工場と変わらないような装いだった頃から勤務していたらしく、その当時の様子を話してくれたことがある。その会社の中で彼がどんなものを造り、どのようにして会社が成長を遂げたのか、どのようにして事業が拡大し、なぜ自分が第一線を退きここにいるのか、そして、彼が希望に満ちていた若いころに抱いた些細な夢の話を僕に聞かせてきた。

その話は延々と聞かされる彼の趣味の話や、消え去った政治家たちの悪口に比べればいくらか魅力的で。彼の人間としての歴史を垣間見ることが出来るその話が始まった時にだけは、彼に向き直って、ほんの少しだけ耳を傾けていた。

福田は最初の頃こそ僕に基本的な仕事と少しばかりの武勇伝だけを嬉しそうに教えてくれたが、僕が仕事を把握してからはほとんど関わることがなかった。事務室でのデスクワークやほかの従業員と何やら真剣な面持ちで話している場面を何度か見かけはしたが、日が無駄話をする機会は徐々に減っていき、僕が務め初めてから一年と半年が過ぎたころに急に姿を見なくなった。

近頃姿を見ないなと思いそのことを同僚と話していると「彼は何も言わずホテルを辞めて消えていった」と通りすがりの経理の女性が教えてくれた。これに関しては福田に限ったことでなく、何人もの従業員が辞表や前触れの有る無しに関わらず、ホテルからは消えていった。人がいなくなること自体はさして珍しいことではなかったのが、奇妙なのは福田がいなくなったと聞いたまさにその日に本社から僕宛ての連絡があったことだ「福田が消えたようだな。もし、この先金本康史という名前の人間が来たらすぐにでも本社に連絡をしてくれ。それが君にとって最も優先すべき事項だ。その他の仕事は特にしなくてもいい。する必要はないが判断は君に任せる。好きなことをしながら、そのホテルで金本康史を待っていてくれ」という知らない名前の人間のことを待てという内容だった。それからその金本康史を待ち続ける間にも従業員は一人また一人と減っていったが、そんな風に本社から連絡があったのは後にも先にも福田がいなくなった時だけだった。


何度目かの春を迎える頃、気が付けば僕はこのホテルに一人きりになった。一人になり、より一層静かになったホテルで僕が引き継いだのが宿泊客の来ないホテルの支配人という役職だった。

ホテルは僕の知らない間に宿泊客増やすための広告や代理店の利用を止めていたようで、固有のWebページも削除してしまっていた「客からの希望があれば予約を取って構わないが、こちらからは何も発信しなくて良い」と、福田がいなくなってからすぐのちに本社から通達があったようで、以降は目に見えて宿泊客も従業員も減っていった。僕はそのことを全く知らなかった。どころか僕がその事実を知った時にはもうホテルの従業員の数は十を切っていた。


僕が支配人になってからしばらくの間は年に数回は人が泊まりにきていた。一般の宿泊客のほかにも、秋口に部署ごとで行われる慰安旅行と、春先に行われる研修にこのホテルが使われており、その時にだけは全部で七十部屋ほどのホテルは最上階にある部屋を除いてすべての客室が稼働状態となった。


ずいぶんと懐かしい。


研修と慰安旅行の日取りが近づくと、管内は途端に騒がしくなる。テンプレートなミステリー映画の舞台になる洋館のように、連続殺人でも起きたのではないかというほどに騒がしくなり、閑散としていたホテルの中は人と物であふれかえる。

厨房では飲食部門やリゾート部門の各店舗の二番手、三番手のシェフ達が連れてこられ、将来、彼らが料理長になった時に自分自身のコース料理を作るための経験と技量を整えるため日替わりで他部門の人間のために夕食を作り、レストランでは普段からレストランで給仕をする若いリゾート部門の社員と季節労働者が働いた。フロントスタッフも同じように系列の若い社員が研修と称されて連れてこられ、挨拶の仕方や他部署の客役への対応をチェックされる。宴会場も会議室として使われ、本社勤務の様々な部署の重役の中年達と世話係の若者が毎日のように籠っていた(彼らは毎朝、全員でバスに乗ってどこかへ出かけて行き、昼過ぎに帰ってきてはそこに籠って、夜遅くまで会議をしていた)。

普段僕がしている清掃ですら、同じ市内にある系列のホテルの清掃を委託している業者の人間が担って、研修が始まる前から食材や物資を運ぶ業者とともにおとぎ話の中の小人のように彼らは一斉にやってきた。すべてのベッドに清浄なシーツが張られ、水回りにほんのりと塩素のにおいが立ち込め、搬入された酒や食材が冷蔵庫に整然と詰め込まれていき、山奥のホテルには宿泊施設としての清潔さとにぎやかさが戻ってくる。


だが息を吹き返したそのホテルの中に僕の居場所はない。人の出入りが激しくなるとともに古城に古くから住み着く幽霊のように事務所の隅に追いやられ、僕が支配人だということも忘れられ、一年の一番忙しいと言っていいだろうその時期に長期休暇を与えられる。

 春の研修が始まるその二、三日の間だけ僕は事務所の隅に席を構え、時折、館内をうろついたりしながら、小走りに忙しそうに動き回る彼らの姿を眺め、誰かに尋ねられた時のみ、物の場所や機材の使い方、注意点などを教え、疲れた顔をした壮年達と共に温泉に浸かり、普段食べることのないような豪華なコース料理に舌鼓を打ち、二週間の長いバカンスに入る。

休みの間は八王子や立川に出向いて冬と夏の賞与を使って少しばかりの贅沢をして過ごす。それが終わればまたホテルに舞い戻って、清潔で物音のしなくなった館内、冷蔵庫にわずかばかり残された個人では買うことのない懐石用の食材を調理して一人きりの夕食をとる。それがその期間に僕がしていたことだ。

「君がする必要のある業務などなにもない」。

僕をここに送り込んだ上司はそう言った。人から見れば気楽な良い仕事に見えるのかもしれないが、常に一人というのは刺激がない。自分の、何かとても大切な機能が錆びついていく感覚に襲われる。

長野の工場にいた時分にも人と関わることの出来る機会なんて事務所で受ける電話の先の顧客と話す以外にはほとんどなかったのだが、この閉鎖的なホテルの支配人になってからというもの以前にも増して人と関わっていない。

新しい人に出会って、人から話を聞くことのなくなってしまった今、僕の娯楽は自分の持つ過去や手元に残っている昔のコンテンツを漁ることだけだ。最後に友人と旅をした過去の記憶や、ここで聞いた宿泊客たちの旅の話などを突発的に、病気の発作のように思い出して、幸せと寂しさに浸る。



新しいものなんて何もなかった。

だから、最後に宿泊しに来た男のことをとりわけよく思い出した。

画家を自称する二十代半ばぐらいの男で、人当たりの良い人物だった。

宿泊客も研修の社員も、来なくなって久しくなったころにその男はやって来た。

どこまでも気楽で、一見して何の目標もなく生きているような男のことを僕は内心では見下していたのだが、自由に旅をして生きることがどれだけ素晴らしいか、自分の好きなことをしながら日銭を稼ぐことがどれだけ気楽か、と、そんな彼の話を聞くのは好きだった。

貴重な時間だった。子供時分に口の中でガラス玉を転がしたような心地の良い時間。

人の話を聞きながら色々なことを想像して、自分の見たことのない景色に思いをはせる。長らく味わっていないそんな感覚を恋しく思う。


また誰かの話しがききたい。誰かの……旅の話が聞きたい。


明日どこに行くのだとか、今日は誰とどんな時間を過ごしたのだとか、僕にとって見慣れた風景を見て感動してしまうような、誰かの、一時的にホテルにとどまるだけの、何も特別なことなんてない旅の話が聞きたい。

きっと退屈がいけない。退屈しなければそんなことをわざわざ思う暇もないはずだ。

そして、金本康史という男がいけない。彼が来たのなら僕は今すぐにでもここを出ていくことができるはずなのに。それなのに。待ち続けている彼が一向にここに来ないものだから、僕は言われるがままホテルでの日々を繰り返すしかない。


・4

〈韮山陽光〉

なるほど、よくこういう音の間違いなんてものとか読み間違い、勘違いからの導入というのも面白いですよね、私もなぜか3回に1回は名前の読み間違いされたりとかしますからね。この登場人物の気持ちっていうのもわかりますよ。


(キャスター付きの椅子に腰かけ、金本康史はラジオを聞いていた。韮山陽光という男が話し続けるだけのラジオだ。その日は自分で話すには気が乗らず天井を眺めていた)。


私の場合は、完全に勘違いされていたりすると自分から指摘すること自体をばかばかしく感じるんでね、どこかで誰かが指摘してくれるかもな、当人が自発的に気付くかもしれないな、と、ただ成り行きを観察して楽しむんですよ。そっちの方が面白い。

この間も、三人で行う少人数の打ち合わせがありましてね、相手は二人とも初対面で初めて仕事する人たちだったんですが。その片方、中年の男の人だったのですが、その人が会った瞬間からずっと私のことをコオリヤマさんって呼んでいましたね。

私としては慣れたものだし、さっき言ったような理由があるから訂正もせず、和やかに会話していたんですがね。

もう一人。こっちは少し気弱そうな若者だったんです。が、彼は正解を知っていたんですよね。でも、自分に自信がないのか、立場的に弱いのか、その打ち合わせの間、私の名前がコオリヤマって呼ばれる度にビクっとして、ソワソワしながら呼んだ男と私のことをチラチラ見やるんです。見やるだけで指摘はしないのですが。


(録音した環境が良くなかったのか、たびたびノイズが混じる)。



まあ、その若者が指摘せずとも、どこかで気が付くと思ったんですよ。

だって、その時使っていた資料に私の名前書いてありましたから。

どう考えても韮って字をコオリとは読まないでしょう? 農地には変わりないのですがね、地名だとしたら、一息で伊豆半島から東北地方福島まで飛ばされるのですよ? おかしいでしょう! まあこちらとしては、名前を間違えられることよりも、そわそわと間違えた人の横で人が混乱している若人を見る方が面白かったから、良いのですがね。

ですが、結局最後まで気が付かず。ね、その若者も指摘せず。体面上、打ち合わせは無事に終わったんですよ。それから彼らが帰るって時になって、足早に中年の男が去った後になって、ようやくそのソワソワしていた若者に最後に名前を確認されたのですが「あれ? 韮山さんですよね?」って言われて「そうですよ」って答えたら「よかった。途中から、気になって打ち合わせ集中できませんでしたよ」って言うのです。が。

あれ? と! そこで気が付いたのですが、私としてはこの人のことを気にしていたわけですから、会議の間、集中していたのはこの人に対してで。この人はこの人で私の名前のことを気にしていたのですから、気が気でなかったわけで。と、なると、結局一番集中していたのは私の名前を間違えた人間ということになるじゃないか、と。

アイツが原因を作ったくせして、そのことにすら気が付かずにいけしゃあしゃあと打ち合わせを完遂し、颯爽と去っていった。って、その事実に気が付いたらなんか腑に落ちなくてね、交通事故でこっちは完全に停止した状態のところに、わき道から、横から激突されて、横からなのだからあなたにも非があるのだろうし、エンジンが点火していたのだから、過失の割合は五対五だって言われた時のような、一応ちゃんと会議をしたはずなのに時間を無駄に奪われたような気になってって、そんなことがあったんですよ……思い出したら腹が立ってまいりました。一度ハガキでも読んで落ち着きましょう。フリートークからコーナー戻ります! えー。続いては愛知県南知多町。ラジオネーム『サイレン男』の作品。


『サイレン男は街の中を一人で歩いていた。彼は正確にミサイルをはじき返すことの出来るだけの感覚とそれを捕えることができるだけの視力を持っていた。空のずっと向こうの城も、その奥にある紺色も見ようとおもえば彼にははっきりと映っていた。周囲で起こる全ての事象はとてもゆっくりに映る。彼の顔を一度だけ見て気まずそうに顔を逸らす若者たちも、通行人をうまくよけることが出来ず何度もブレーキをかける歩道の自転車も、小さな体を必死に回してなわばりの中を歩く犬も、彼の目にはとてもゆっくりに映る。


サイレン男の胴と足のつなぎ目のネジはハンマーでつぶされていた。一見滑らかに見える彼の体もなでてみると所々に出っ張りがある。手遊びする子供のようにその出っ張りを一つ一つ指でなぞりながら、彼はあらかじめ決められたルートを歩いてゆく。

曲がるとき、曲がる先に何があるのか、サイレン男は先に知っていた。彼はそのことをひどく不思議に感じる(サイレン男の話をするのならば、感じるという表現には語弊があるように思う、サイレン男が疑問を持つということ自体がおかしなことなのだから)。視界の中になければ認識できないものを彼は見るよりも先にどう動けばかわせるのかを知っていた。知っていながら、彼はどういう思考でそこに至ったのかを振り返ることができない(この時の彼は自分の思考を追うことはできなかったんだ。まだそこまで完成していなかった)。

歩行を続けながら、彼の耳は回転する自分自身のモーター音を聞いていた。歩きながら、絶えず変わってゆく周囲の音の中で、収集された他の音が全てどこかへ転送と解析をされていく中で、常にサイレン男と共にあるその音だけが解析も転送もされず、彼が自分自身のために聞くことを許された音楽だった。彼の体内で音を響かせる美しい旋律でもなんでもない、くり返しのモーター音、それだけが彼のシステムの外側にあって、彼が何も考えずにきくことのできる唯一の音楽だった。

その音に気が付くまで、サイレン男の周囲にあるのは静寂だけだった。なんの感情の高ぶりも、揺れも感じることは無く、彼はただ毎日、通り過ぎる町の中で、聞こえる音と視界に映る通行人の顔や町の様子を見て安全を確かめ、決められたルートを歩いた後は家へと帰るだけの生活。そのシステムの中以外に、何の音も存在しなかった。

現に、町を歩き回ってから帰ってくる夜の甲子園球場はいつも静かだ。

サイレン男が選手入り口から中へ入ろうとすると、中からサイレン男と同じ銀色のロボットが出てきた。すれ違う時、サイレン男は同僚に声をかけたくなったが、言葉を出すことができなかったので、サイレン男は右手を挙げて挨拶の意を示す。中から出てきた銀色の機械は一度立ち止まり、上げる必要のない場所で腕を上げる彼のことをじっと見るが、彼に異常が無いとわかると、なんのアクションも起こさずに夜の町へと繰り出していった。

サイレン男は上げた銀色の右腕を下ろすと無言のまま、タグアウトの中へと入っていった』。

(ラジオの音はそこで途切れて、金本康史の声が聞こえてくる)。

「それにしても君は何を思ったんだろうか? 目の前で爆散するサイレン男を見た時に。

いや、何を思うのだろうね? もし君が心を手に入れることができたのなら、その光景を思い出したとして、かりそめの、パターンに当てはめられるだけの感情ではなく心を手に入れることができたのなら……そんなことが本当に出来たのならば」

(どこかの地下室だろうか? 薄暗い部屋のなか二人きり、金本康史はそんなことを呟いた)。




・5

朝、自室を出て調理人のいないキッチンの銀色のシンクを拭き上げる。決してそこにほこりが積もることのないように、一つのシミが残ることもないように。そうでなければ、板長や各料理長に怒られてしまうから。

誰もいないホテルのホテルマンの仕事ほど無意味なものはない。何もない中に空間を作り出して金額を付けて売り出すことができるのは、本社の許可があってのことだ。

いや、許可はある。許可はあるのだが……客は誰一人来ない。

日常的にあわただしく働いて、たまに来る休館日ならば嬉しくもあるけれど、それが毎日では話が別で、居もしない幽霊のために営業をしているような気分だ。

それでも毎日掃除は欠かさないので、客室の中はいつだって整然としている。真っ白いシーツは誰も包むことなく朝になってもシワの1つも増えないで。そんな状態では寝具だって寂しかろう? と。清潔な客室に入る度、そんなことを思う。

 だが、それよりも、何よりも、ここに今誰もいない事よりも。

僕が最も寂しさを覚えるのは、寂しさの根底は、誰も旅をしなくなったことだ。

誰かが旅の途中に立ち寄るための宿の管理を僕はしているというのに。

それなのに。僕はここにまだ残っているのに。誰も旅をしなくなってしまった。

 朝。朝食の客でにぎわっていたレストランにはもう誰もいない。客を待つためにテラスのパラソルを広げる必要も、にぎやかなパートの女性たちの小言を聞きながらグラスを磨く必要も、もうないのだ。

 それでも。朝。テーブルを磨きながら賑わっていた当時のことを思い出して。

旅の話を聞きたいと、より一層強く思った。

重たいスーツケースを転がす外国人から、大げさに自分の人生を語る成金の老人から、スキーがまだレジャーとして人気だった頃、純朴にもたった一度の旅路で恋をしようと夢見ていた大学生の青年から。もう一度、かつて眠そうに目をこする彼らに気の利いたモーニングを配膳しながら今日はどこへ行くのかと聞いた時のように、もう一度でいいから誰かが楽しそうに語る旅の話が聞きたい。人に会いたい。

だが、それは今や叶わぬ願いで、誰も旅をしなくなってしまった。

誰も旅をしないから。僕は今日もただ金本康史という顔も知らないたった一人のことを待ち続けているだけで、ホテルはそのためだけに在った。


 窓を拭きながら目を凝らしても北杜市の町はここからでは見えない。

砂の山のてっぺんから水を流した時のような谷は層雲のようなぶ厚い水蒸気の靄に隠れていて、そこにある町なんか見えやしない。

七月の朝。この時期でも夜と朝は冷え込んだ。肌寒さを感じるわけではないが、僕はいつも自室で毛布にくるみながら朝になるのを待って、朝になったら部屋を出て誰もいない食堂にゆく。

レストランの清掃を終え、パントリーから厨房へと戻る。

取手の長い黒色のフライパンを火にかけ、トースターでパンを焼き、コーヒーメーカーの電源を入れてコーヒーを落とした。


簡単な朝食をこしらえて、テラスへと出てゆき。

ポケットから懐中時計を取り出して、その蓋を開く。

針はまだ文字盤の六時を少し過ぎた位置だった。


前日に降った雨のせいか、朝日が昇り始めてからしばらくしても白い靄は一向に晴れることなく、ホテルは未だ層雲の上を漂っているようで。テラスに出ても見えるのは自分が今いる場所と、雲の下から半分だけ除く朝日と、八ヶ岳の山々の山頂だけだった。パンにポークソテーとサラダを挟み、それをコーヒーで流し込んでから、むいたゆで卵の殻を花壇へと投げていき、ぼんやりと、景色を眺める。

すでに雲の上、高く昇った太陽の光だけは夏の暑い日のそれなのに、気温はなかなか温まっていかない。山間では木々の揺れる音が轟いている。

その音を聞いた僕は、昔乗っていたスズキのバイクの事を思い出した。

エンジンをかけた瞬間、けたたましく音が響くのに、音の威勢のいいばかりでいつまでも温まらず安定しない大型のバイク。山間の空気も同じように、昇った陽光は確かに暖かいのに雲が出たり、風が吹いたりする度、すぐにまた冷え込んでしまう。

 朝食を終え、花壇の前しゃがみ込んで、投げ入れた卵の殻と、初夏の枯葉と花壇の土を園芸用の小さなスコップで混ぜてゆく。眠気が欠伸に変わって口から出る。朝食を食べた後でも目が覚めることはなく。眠る必要なんてないのに、胃の中に食べ物を補給したせいでますます眠い。

軍手を外して目をこすっていると、視界の隅、にコスモスが咲いているのを見つけた。

小さな薄桃色の花。秋桜ともいう小さな花が、夏の朝に咲いていて。

それを見た僕は少しだけ幸せだった。

また誰かが泊まりに来るようなことがあったら、旅の話のお礼にコスモスの話をしよう。と、思いながら、スコップを地面に刺し、僕はご機嫌で日常の仕事へと向かっていった。


・6

電子レンジを覗き込んでいる金本の目の下には黒々とした隈が刻まれていた。

眠らないままに朝を迎えたせいで立っているだけでも眠ってしまいそうになる。

ぼんやりとした頭で電子レンジの中のターンテーブルの上、同じ場所を周回する惣菜パンを眺めている。

一時間でもいいから寝ておけばよかった……パンと同じようにサイレン男は何もない砂上を行く。歩くたび、足元の砂がかき混ぜられたように音を立てて、蹴り上げられた黄緑色のガラス片が散らばってゆく。殺風景なその空間の中、いったこともない東北の原野の朝をサイレン男は想う。

田舎道、野の焼ける臭いが遠くからして、長くひもじかった冬が終わり、土くれの道の両端の畑にもだんだんと緑がかえって来る。河原の方には菜の花やカスミソウの小さな紫の花が咲いて、魚もどこからか帰ってきた。その、柔らかい春の日差しの中、父に手を引かれながら歩く。小さな竹製の竿をもって自分の手をひく父の背を見ている。

そんな誰かにとっての懐かしい風景がサイレン男の頭の中、浮かんでくる。


 チン。と甲高いベルの音が鳴って金本の意識が現実へと戻ってくる『夢の中の機械人形が見る夢』の様な風景を眺めていた、最早どこに真実があったのかよくわからない。

寝不足のせいだ。寝不足のせいで力の方向が定まらず回転しない頭をどうにか起こさなくては、と、金本はチーズとハムと大量の添加物の入ったパンをかじりながら缶コーヒーを飲んだ。

十六時きっかりに録音を開始できるように同僚を待っていながら、ぼんやりと黒い網の向こうにあるマイクを眺めているが、壁掛け時計の表示が十六時になってもまだ同僚は現れない。

ぼんやりしている間に固まってしまったパンのチーズをもう一度溶かそうと、電子レンジの前へと戻る。パンを白色の皿にのせて庫内へと入れると、時間を指定してスイッチを押す。

三十秒ぐらい、と思って、立ったまま電子レンジの前で回るターンテーブルを眺めているのだが、その時間が嫌に長く感じる。十秒も経たないうちに、思考をすることもできなくなり、また意識は別のどこかへ飛んでいく。

 信州に作られた巨大な粒子加速器の中をサイレン男は回っている。半周ごとに速度は倍々に増加してき、それに伴って重さも徐々に増えていく。増えていた。

もう耐えきれない程に体が軋んでいたはずなのに、ある時点から、重さが急速に失われていく。速度すら。周囲で何が起きているのかなんて一切わからないくらいに早く動いていたはずなのに暗闇の中、サイレン男は止まっている。止まりながら、失ったエネルギーが変換されたみたいにサイレン男の体が熱を発する。完全に動きを止めてしまう前のメトロノームのように分子の一つ一つを細かく震わせ、体の表面がどんどん熱くなっていく。

暗闇だった景色も、右と左のカメラが全く別の物を捕えはじめて、彼の観ているものが左右を重ねて立体になることは無い。明らかに何かがおかしい。動きを止めていたように感じていたサイレン男の体は、ぶれるように何度も何度も揺れて、スライムのように伸びては縮む、やがてその場で揺れていたはずの姿も、弾性を失ったようにゆっくりと限りなく広がっていき。ものすごい光量で光りはじめて。

 質量すら消えてゆく……。

「チン」。とフロントベルのような音で弾かれたように金本は我に返る。白い皿の上にはパンの齧ったところから、溶けきったチーズが溶岩のようにどろりと流れ出ていた。同時に、頭の中にいたサイレン男は消えてしまった「どこへ?」と、声に出して尋ねてみる。


「遠くにさ」気が付くと梶原という男が入り口に立っていた。安全靴についた泥を落としながら中へと入ってくる「南館の裏まで急な用事で行っていたんだ」

「そうか、おつかれ。そろそろいい時間だし、準備でもするか」

手に持ったパンをかじりながら、丸い硝子窓の付いた防音室の扉を開け、金本は録音ブースの中へと入ってゆく。

梶原はどこか普段と違う様子の金本の姿に疑問を持ちながらも、油の付いた作業服をランドリーバックに入れ、自分のロッカーへと投げ込んだ。


マイクロフォンの前に座り、機材の調整を終えた金本は思い出話を始める。

 昨夜のことだ。金本康史は二十二歳か二十三歳か、とにかくその若いころの記憶をたどっていた。


 その頃の金本はひどく沈んでいて。

 沈んでいるのは仕方が無い事にしても、救いがなく馬鹿だったのは、そもそもの原因が自分自身の高望みにあることは太陽の昇り切った夜明けの空よりも明らかだったのに、自分の思い通りにならないからと、その場で足踏みをして止まっていたことだ。

彼自身の決断が誰かに尊重されるような仕事をしたかったのだが思い通りにいかず。自分にその能力はないのだということを何度も突きつけられて、八王子市まで営業に足を運んだ帰り道、とうとう地元にかえることすら嫌になってしまった。町田で電車を飛び降りると、そのまま改札を飛び出して、昼過ぎ、町田駅の周りを徘徊していたのだった。

途中で歩きまわることにも飽きた彼は、小田急町田駅脇の踏切が見える路地にある酒場で、昼間から酒を飲んでいた。狭い敷地のなか、無駄に意匠をこらそうとしてごちゃごちゃした店だったのをはっきりと覚えている。日本で使われるような樽とは違ういわゆるバレルを外に置き、それをテーブル代わりにして客に立ち飲みさせるような、本当になんの拘りもないような店だった。そんな店だったので、金本はそこで芋焼酎をソーダで割り続けていたし、間にホッピーを挟みつつ、店員に勧められるままにカクテルを頼んだ。

「ちなみに、俺は故郷でよく見られたみそ樽が好きだ。そのままスーパー銭湯にでも持って行けば、温めた鉱泉を流し込んで樽風呂だと言い張れるような板をより合わせてタガで絞められたその形が大好きだ」

線路から少し離れたその酒場から町田駅に出入りする小田急線を眺めていた。時に小田原から入り、時に江ノ島に向かってブルーのラインの入った電車は走ってゆく。

「踏切を通る小田急線が見られる場所は、このたかが十年で随分と減ってしまったとか、そんな話をどこかで聞いていたから、その光景が見られなくなるって言うのは少し寂しな。とか考えていた。他に真面目に考える必要のある事柄なんて何一つなかったからな」

駅の壁広告では、また横浜のどこかに建つという高層マンションがいかに素晴らしいかが語られており、ずっと人口減少が続いているというのに何を言っているのだと、そんなことにも悪態をつきたくてたまらなかった。と金本は続ける。

「バブル経験組、バブル青春組が社会の中核に来た。

表面化はしていなかったけれど、それがその頃の若者にとって、何より大きな社会問題だったんだよな、老人の人口割合がいよいよ五割を越えようとしていたし、仕事もやりたくない事ばっかりだった」。

例えば。静岡東部の銀行の店長達は達成することの不可能なノルマばかりを部下に課したし、コンビニは都市部のどこにあっても24時間空いている。人手不足で困っているというのに軒を連ねるようにして並ぶファストフード店と介護老人福祉施設。空き家ばかりなのに農地を減らしてまで、海を減らしてまでして推し進められようとしている都市開発計画。そんなものばかりだった。それなのにアルバイトの最低賃金は四年間で百二十円しか上がっていないとか。そんな考えなくていい事ばかり考えながら、金本康史は深くため息を吐き、グラスに少しだけ残った焼酎を煽っていた。

「現実を直視することに疲れて目をそらしてもさ、この後は新横浜駅に行って新幹線に乗らなくてはいけない。そうして地元に帰って次の策でも練らなくてはいけない。と、わかってはいたんだけども、足が動かなかった。

現実問題として、そんな場所で小田急線をずっと眺め続けているわけにはいかないし、思い立ったようにあの電車に乗って、生まれてから一度も見たことのない江ノ島の海へと向かうこともできないのはわかっている」と、やってもいないのに若いころの自分は決めつけてしまって、確かめようとすらしなかったんだと、金本は振り返る。

「まあ、でも、そのあたりがきっかけだったんだ。少しヤンチャしたくなったのかもしれない……多分、元を正せばそのあたりから……。もう待たなくてもいいや、と、自分のやりたいことをするのに、迷惑をかけなければ上の許可なんて取らなくてもいいや、と、そんなことを考えるようになった」。

『今から江ノ島に行くことはできない』当時の金本にとって覆すことの難しい現実だったはずが、いつからか変わっていった。と、金本はとても楽しそうに話し始める。

「子供の頃から、ずっと、本当は自分のやりたいことをやればいいんだ、って、漠然とは思っていたけれど、始まりがいつかと問われればその日だろうなって、そこで悩んだから」

車両の中に見える中吊り広告が随分と減っていた。昔のようにびっしりと新商品や、週刊誌の広告が揺れているわけではなく、地方の祭りや、新江ノ島水族館の広告だけが間隔を空けてつられていた。

「タイムパラドックスはおきない。ということは全く別の存在ってことなんだ。同じ軸を移動するわけではなく、横のドアを一つ開けるようなものなんだ。時間は連続して流れているわけではない。現在、過去、未来は同時に存在している。だから、それは電車の一号車から二号車に映るような感覚なんだ。だから、そこにいるのは、別の育ち方をしたAとBだ、名前が同じだけの別人だ」

梶原の前にいた、金本康史はそんなことを言っていた。


音声録音用のブースの中を梶原は眺めている。

金本はまだ旅に出る前で。山梨のホテルに籠りながら会社のための開発を続けていた。

かつて二人のいたブースの中には一体の機械人形(彼が最後に残していったもので、金本自身はロビンソと呼んでいた)だけが、誰かのためのカスタマーセンターとして機能している。だが、実際に電話なんてものをしてくるのは老人ばかりだった。彼らはやたらとタイムパラドックスの問題を気にして、安全かどうかわからないものに乗りたくは無いのだと、乗ってくれなんて頼んでいないのに駄々をこね、機械人形を相手に『お前の対応には丁寧さが足りない、心がない』と文句を言った。

そういった意味の分からないクレームの電話対応以外にも機械人形はたった一体でタイムトラベルの注意説明をしてくれている。タイムパラドックスの心配は無い事を懇切丁寧に説明し続けている。信じてくれないのは老人だけだった。原因は旅に出た人々が誰一人として帰ってこなかったことだろう。マスメディアはそのことを大きな問題として報道して、自らを正義と語る彼らは帰還者のいないことをひどく非難しており、老人たちはそれが間違っていることだと信じ込んでいたのだ。


色々なことがあった。

本当に、その数年で世界は大きく動いていた。

世間はその原因の一端が金本康史にある。と、彼のことを非難していて。


そこから二年も経たない間に、彼は姿を消してしまった。


 旅に出た後の人々がどうなったのか、旅に出ることをしなかった梶原に知る由のないことだ。彼は旅に出ようとも思っていなかった。豊かだったから、国は滅んだけれど、食料も化石燃料も資源も土地も不足しなくなった。みんな出ていってしまったから、ディストピア小説のように世の中が大きく変わってなどいない。元々そういう物だった。変わらない。むしろ良くなってさえいる。故郷である南知多に帰るたび、そんなことを感じる。

昔と何も変わらない。悪くなったことなど何一つない。違うのは旧日本領のどの大学も毎年定員割れなこと位だ。若者達は皆、何かを学ぶためにここに留まっていることで得られる利得は無い。と、旅へ出て行った。

だからこそ。金本はここに留まっていれば自由に開発を行うことが出来たはずで、彼は大きな成功を手にすることができたはずだ、それなのに、金本は旅立って行ってしまった。


全てのきっかけはサイレン男だ。



・7

〈韮山陽光〉

『サイレン男はビルの上、その動きを止めていた。

その夜。サイレン男はいつものルートから外れるようにして歩く方法を見つけた。初めて起動した時からずっと発信され続けていたいくつもの電波信号を停止させ、電力消費を普段より抑えるだけで、彼の行動を縛るものは何もなくなった。

自由になったサイレン男は高いところに上ってみたくなり、裏路地にあって施錠されていない雑居ビルの非常用階段を見つけるとそれを使い屋上へと上った。

サイレン男は雑居ビルの屋上。インターネットを使い、自分自身の情報を調べる。

サイレン男についての情報が書かれているのは、そのほとんどがニュースサイトだった。

サイレン男に文章を処理する機能は存在しない。何が書かれているのかわからないので、サイレン男はその文字を頭の中で見ると同時に3つの言語に翻訳した。が、そんな行為になんの意味もない。

翻訳された言葉はどこにも発信されず、彼の頭の中に保存された。

サイレン男がどうして自分自身のことを調べようなどと思ったのか、それは誰にも分らなかった。

翌日、開発実験中の〈サイレン男〉が所定のルートを外れ、一時間ほど姿をくらませていたが、無事に発見に至ったという内容のニュースが小さく報道される。ビルの上に上った〈サイレン男〉は遠隔操作で電源を落とされると、無事に回収された。と。

ネット上ではAIが自我を持ったのだといつも通りの陰謀論がささやかれたが、後に開発会社側はこれを否定。システム上のトラブルでGPSの通信機に何らかの異常が生じ、歩行ルート上にビルが来てしまったのだろうと推察を発表。自動的にそこを登った後、信号が受信できなくなり停止したため〈サイレン男〉がインターネットに接続。それを開発会社が確認し、遠隔操作で機能を停止、回収。想定し得るトラブルであって特に何か問題があったわけではないとだけ語られる。

この件に関しては表向きにはそれで幕を下ろしたのだが。

後日、関係者を自称する人物がネット上に現れ、この時のサイレン男のことを語っていった。サイレン男にはふだんすれ違った人間の顔や動くものを自動でカメラに収める機能があるのだが、それを使って恐ろしいものを撮っていたと匿名掲示板に書き込み、画像をアップロードした。

そこに貼られていたのは夜空に浮かぶ満月の静止画だった。

サイレン男の目に取り付けられた高性能望遠レンズで撮影された、町にぽっかりと浮かぶ見事な満月の写真だとその人物は言った。しかし、まあ、深夜に書き込まれたそんな誰かもわからない人物の話なんてその場では誰も信じなかったのだが。

後日物好きな都市伝説研究家がこの話を聞きつけたようで。こじつけの様な証拠と共に、写真の下に映っている建造物を見てみると、目撃者の証言からその日サイレン男がいたとされるビルの上であり、更にそこから夜空を見上げて写真を撮ると月はその位置に来る。と、言い出し、それは真偽不明のまま、他の都市伝説と同じようにネットの海の中、愛好家たちに語られ続けることになった』。


〈韮山陽光〉

「うーん二点。

また一枚の葉書にびっしりと書いてきてくれているのだけれどね。もう完全に続き物だよね、そして、なんだろう? これは間の回よ、つなぎの部分だね。これから事件が起こるかな? みたいなところだ。常連だけに許される。店で頼む『いつもの』みたいなオーダーの仕方だよね、まあ、次回に期待しておきましょう。

では、ここらで一曲! CMソングですっかりお馴染みとなっております。今年デビューの三人組ユニット……」。


〈金本康史〉

金本にとってそのラジオ放送は日記のような意味を持っていた。

日記か、もしくは戦時放送か……その日その日の戦果が放送されながら自軍の今を知らされるような、このラジオを聞くことで自分自身の現在地がどこなのか、自分がどれだけ進んだのか、それを確かめることができた。

 金本はある夜のことを思い出す。まだ自分自身も若く、あらゆるものに熱意をもって臨んでいた頃。とっくに救われているのに、それに気が付かず、いつか誰かが救ってくれると無理やり信じながら我武者羅に邁進していた頃の事。

サイレン男は夜の闇の中で一人、甲子園球場のマウンドに立ち尽くしていた。何かを考えこんでいるように見えた。しばらくしてから動き出し、隆起した土の上に埋め込まれたプレートをなでた。金本はその姿をベンチの前から眺め、なつかしさを覚えた。

「懐かしさか……」。それがどんな感情の下にある物なのか、サイレン男に理解できるものではないだろう、彼には感情なんてないのだから。と、口から出た自分の声に、そんな事を思う。

マウンドに立ったサイレン男が首をゆっくりと辺りを見渡す。

耐久実験に使われるボールがそこら中に落ちていた。サイレン男はそのうちの一つを拾い上げ、肘を曲げると、肘から下の前腕部だけを使い投石機の要領でばねとモーターの力でホームベースをめがけてはなった。ボールは低い位置から、浮上する潜水艇のような軌跡を描くと、そのまま何に阻まれることもなくバックネットに当たって回転をしたまま地面に落ちた。そのまま土の上で回り続け、やがて止まりかけのコマのようにふらふらと頼りなく動き回り、投げられる前と同じくグラウンドの上でただ転がるだけの白球にもどった。

 サイレン男はボールが完全に停止した事をマウンド上から確認すると、ゆっくりとバックネットに近づいていった。白球を拾い上げ、その縫い目をなでながら、誰もいない甲子園のフィールドを振り返る。

 外野の先。スコアボードには七回まで両チーム0が連なっていた。二塁の走者灯が光ったまま、アウトカウントは赤い光が一つ。ボールカウントは2ボール1ストライクと絶好のバッティングカウント。そこでスコアボードは放置されていた。二度と決着の着くことのないだろうその試合のゆく末を確認しようとサイレン男はグラウンドの一番奥、情報を探し始める。

ネットの海に潜ってはみたものの、その試合結果はどこにものこされていなかった。いくら探してみても、結局迎えることのできなかった試合の最後の関する記述はどこにもなく、サイレン男には結局は過去のデータをもとにいくつかの可能性を提示することしかできなかった。

サイレン男が自分で拾い集めた両チームの地方大会の打率と出塁率、打球の方向、超打率、エラー率などから導きだしたのは、結局。3‐0で今攻撃をしているチームの勝つ確率が最も高いというだけの仮定の話だけだ。

サイレン男はそのデータを出すことは出来ても、実際にそこに至るまでの道筋を文章に書くことは出来ない。

彼のこの時にかきあげたレポートにはただ、使用されたデータと計算式、そしてその答えのみが記されており、それは野球の試合結果を伝えるものとしては何よりもつまらないものだった。その時のデータは結局、金本以外の誰の目に触れることもなく彼の内臓データとして、データチップの中に今も留まっている。

なんとなく。金本自身がそうしたいと思ったのだ。

スコアボードを眺めながら、立ち尽くし、一秒もかけずその試合の結果を算出した後で、サイレン男はスコアボードよりもさらに上を見上げる。

何を見ているのか? と、金本がサイレン男の視線を追うと、秋も深まる季節の暁、他の星が消えかけている中に明けの明星だけがはっきりと輝いていた。

生まれてから教え込まれても、プログラムされてもないのに、サイレン男が投げる必要のないボールを投げた。


その姿を金本は甲子園球場のグラウンドの中で一人眺めていた(もう、その時には金本康史の望みは叶っていたのに、彼はそのことを認めようとすらしなかった)。


・8

明け方のテラス、花壇いっぱいに咲いたコスモスの花が長く残るようにと、つぼみを二ずつ残して茎から切り落としていく。夏の終わりになって朝の風はますます冷たく、谷を挟んで見える八ヶ岳の山々の頂は早くも色づきはじめていた。作業を終えて室内へともどり、レストラン内のドリンクカウンターの上にあるコーヒーマシーンのスイッチを入れ、豆の砕ける音を聞きながら、窓の掃除をしていく。

 一通り窓掃除を終え、いつのものかもわからない経済新聞を読みながらトーストをかじる。日本の赤字企業の数は、業績赤字、累積赤字を含めてもう国内企業の半数を優に超えているという見出しを見ながら、このホテルはそして親会社は今、どういう状態なのだろうか? と、考える。

ずっと稼働率はゼロのままなのだし、稼ぎは無いのに維持費だけはかかっているだろう。加えて僕は毎月安くはない給料を貰っているし、年に二回賞与もある。ライフラインが止められているのを見たこともないが、転職を考えておいた方が良いのだろうか? しかし、たった一つだけ与えられた仕事を途中で投げ出すというのはどうも気が引ける。

 考えても仕方のないことだ。とにかく仕事をしよう。と、食器を下げる。巨大な食洗器を横目に、流しでスポンジを使って食器を洗い、午前の仕事をはじめる。

 その日は珍しく上から仕事を言い渡されていた。発注された美術品がこのホテルに納品されるのでそれを受け取るようにと電話で指示を受けた。

後で納品書をコピーしなければならないな、とそんなことを考え、僕は仕事をひと段落させるとポケットから懐中時計を取り出した。時計の針は十一時をまわろうかという所で、それを確認すると僕は事務所に向かって歩き出した。

(いつもなら電話をしてくるのはたいてい落ち着いた男の声なのだが、この時本社から受けた電話の声は随分と若い話し方だと思った。それこそ二十二か二十三か、入社したばかりの新入社員だったのだろうか?)


・9

サイレン男は一人。ポツンと砂漠の中に放りだされていた。

カンカン照りの太陽の下で八時間もの間。何をするでもなく立ち尽くしている。

その姿には自分では何もできないで誰かからの指示を待つばかりな就労したてで朴訥な十代の少年のような愛嬌はあったが、それが砂漠の中に置き去りというその状況とはどうにもミスマッチで、後からその時の映像を見た金本はその姿に、つい、にやけてしまった。

人間ならひどい宿酔いに記憶でも飛ばしてしまったのかと疑う所ではあるが、サイレン男は冷静に自分自身の最後の記憶をたどる。そこから何が起こったのか予測をすることはこの時の彼にはまだできなかったが、彼は自発的に自分の現在地を知ろうとしたのだ。


〈韮山陽光〉

『サイレン男の元に二人の男が訪れた。彼らはサイレン男を作り出した非人道的集団で、いうなれば仮面ライダーを生み出したのが悪の組織、ショッカーであるのと同じように彼を生み出したのはこの目の前にいる悪の科学者たちだった。サイレン男には自我はなく、産み落とされたばかりの彼に正義はなかった。目の前の人間たちに賛同し共に世界征服を行うこともなければ、自らの正義のために彼らを粛正しようというような自由意思もなく、いつも通りに何も思うことなく目の前の二人のことを見つめていた。



「こいつか?」長身の男は一緒にいる小太りの中年男性にそう尋ねる。

昨晩もこの男は観た。サイレン男は声を発した男の顔を確認するようにカメラの焦点を長身の男に合わせた。


「そうです、型番のNはもう三年前の機体になりますから今年で廃棄になる旧型ですが、どういたしましょう?」

「エラーコードとか出てないのか?」

「いえ、目に見えて不具合があるってわけでもないですし、どちらかと言えば配線系統の問題だと思うのですが、少し予想外の部分が多いのですよ。想定しうるものとは違うので、それに、他の機体には無い傾向なので、まだ何とも」

「そうか、俺は開発には関わっていないのでね、専門的なことはわからないが、君らの判断で危険がなければ残して個別に研究してもいい。一応予算案だけ出してくれれば、金銭的に可能かどうかの検討はこちらでするから、必要なら報告してくれ」

「わかりました、とはいえ、ウイルスや何か変なパッチをインストールした可能性もありますのでまだ何とも言えないのが現状なんですが」

「うーん、内部は調べられないのか?」

「調べてはいるのですが、一体何が原因なのかもわからないんですよ。開発者が変なシステムの組み方をしているんです。バグを修正もせず利用しているような。例えるなら、病気に対する反応を使って体を動かしているような部分があるので、下手にいじると全てを書き換えねばならず……」

「開発を急いだ影響だな。この件に関しては安全性に問題がないところまでは君に任せるよ。視察にきておいて悪いが、やはり現場のことは俺にはよくわからないのでな、少し長い目で見る。若い技術者を何人か本社から派遣する。好きに使ってくれ、他に必要なものがあればいつでも言ってくれればいい。それと問題が出たら、その場の判断でいつでも廃棄してくれ、と、全員に伝えておいてくれ」

「はい、わかりました」

「あとは、現状のレポートと、他の機体に関するレポートを送ってくれ、こっちでも人を使って色々と調べてみる」

「出来次第送っておきますね」

「後は、せっかく来たし他の業務も見ていくよ」

「では、研究室をご案内いたします」

「それにしても……開発者ね」』。


〈韮山陽光〉

「ショッカー!知っていますよ。仮面ライダーなつかしいですね、子供の頃観ていましたよ。私が観ていたのは亜音速くらいの速度で動くやつでしたね、昔懐かし二つ折り携帯電話を開いて、ボタンを三回押したら変身するというお手軽なライダーでした。それの面白かったのがね、仮面ライダーってやつはバイクに乗っているんですけれど、そのライダーのバイク、ロボットに変身するんですよ! こいつが滅茶苦茶でね空を飛ぶわ、銃を乱射するわで、もうどっちが敵かわからないような戦い方をするのですよ。何ならこいつが敵を倒してしまったりして……で、何が一番すごいかって言うとこいつの元の車体が二百五十㏄の小排気オフロードバイクってところなんですよ。わかります? これだけ滅茶苦茶なことをしながら乗り物として乘っている分にはこいつにはタダの一円も税金がかからないのです。税金はかからないけれど圧倒的に銃刀法違反なのです。すごくないですか? 凄いですよね! と思い出話をしましたが、まだ葉書の途中なんで音読に戻りましょう。

音読しなければ小学校の担任の深沢先生にまた大人をなめるなよって怒られますからね。宿題の件は全面的に私に非があるので仕方ないとしても、いろいろと理不尽でしたね。あのおばさんは、私が校庭でドッジボールをしている時なのですが……」。


葉書を読む途中に急に自分自身の思い出を語る韮山の声が、テレビ番組のコマーシャルのように、息をつかせてしまった。要らないことに対する集中と興味が断ち切られたように一気にひいてゆくのがわかる。金本はそこでラジオの電源を止めて、何か買いに出ようかと思いつき、壁掛けのキーボックスを開いて車のカギを取り出す。

エントランスを横切り、正面玄関の自動ドアをくぐった。

瞬間。開演に遅れて入ったコンサートホールように、一斉に虫の声が響いた。



・10

 送られてきた表式計算ソフトのファイルを開き、コピー用紙に印刷した後で内容を確認する。その日に納品される品物の一覧だ。バインダーに挟んだその紙をもう一度眺めて、そこに印刷されたとある人物の名前を見止め、送られてくるその品々がかつての宿泊客から購入したものだと確認する。

「芸術の価値を決めるのは協会の政治によるもので誰が自分の絵を好んでくれたかではない。値段は話し合いによって決まる。国内を出なければ本当に夢のない商売なんだ。土建屋が談合で公共事業の料金を決めるように、政府が予算案を投票で決定するように、みんなで話し合って決める。何も面白くはないんだ。少しずついい時代になっているような気がする。自由に物が売れるようになってきた。こうして依頼ももらうことが出来た。ここに泊まりながら絵を描くのはなかなかに楽しい」

朝食のたびに彼はそういった普段聞くことのないような。それでいて何のためにもならないような話を僕に語ってくれた。

彼は穏やかに宿泊をして、時折観光をして、のんびりと絵を描いていた。

彼は僕が知る中で一番長くこのホテルに滞在をした客で、僕は彼から色々な話を聞いた。

彼は生まれて初めて小さな個展を開いたらしく。二十点ほどの作品を観光地にある小さなカフェに飾ってもらったのがきっかけでここに来たという。

「そこで会ったこのホテルの所有者に頼まれてな。ここに飾る絵を描いてくれる人間を探していた。書いてくれないか? と、依頼を受けて創作活動をしに来ているんだ。人に言われて仕事をするのは初めてだが、こんな風に山の奥で優雅に生活を出来るのならば悪くもない」と満足気に言っていた。

その話を聞いた時、職種は違えども、季節労働者に似ているな。と、僕は思った。

初めて彼がこのホテルに来たときは、まだ何組か常連の客が通ってはいたのだが、それも稀で、彼は滞在中のほとんどの期間、僕にとって唯一の宿泊客として過ごしていた。


彼の要望で食堂の窓は毎朝開け放たれた。


テラスに出てはどうかとも勧めたのだが、彼は窓の開けられたレストランが良いのだとそう言って外に出ようとはしなかった。大勢の客が相手だったのなら、頭のおかしい客の一人として処理するそんな要望を迷うことなく叶えることが出来るのはホテルマンとしてどこか楽しくもあった。

例えるなら子供の時分、友達と一緒になって大人にばれないようにこっそりといたずらをして、それを見守っている時の様な胸の高鳴りだろうか? 僕はそれを味わっていた。

そんな自分では感情を決めることのできない思い出の一つ、それとリンクするようにして、僕はずっと昔に観たサイレン男の旅の映像を思い出した。


・11

サイレン男とは、昔、僕がこのホテルに来る前、工場で勤務していた時分に視聴した映像に出てくるロボットのことだ。

彼より愛らしいキャラクターなんて僕は見たことがない。


映像の中。砂漠に置き去りにされたサイレン男はとうとう一人で歩き始めた。


いくつもの工程を頭の中で終えた後でようやく、彼は自由になった。

一人では何もできないと思われていた彼が歩き出す。

サイレン男は鳥取砂漠にいた。鳥取県はその映像が撮影された数年前に、数日間降り続いた強風を伴う大雨による河川の氾濫、土砂崩れ、大規模な塩害が発生し。その災害の後、砂丘があった位置から広がっていくようにして鳥取は砂漠化していった。砂漠化は広域に亘って止まることなく進行し続け、その影響で人の住めなくなってしまった土地を国は救済だと言って全て買い取っていった。

鳥取の状態に関して当時のコメンテーターたちは、元々、鳥取砂丘は雑草の除草作業などをして観光地としての体裁を保っている場所なので、今後砂漠化するといった心配はなく、災害により一時的に広がってはいるが、すぐにでも復旧するだろうし、木や草が映えなくなるという事態は考えられない。心配をするがおかしい。と言っていた。が、実際には砂漠化は止まることなく、日を追うごとに進んでおり、それを彼らがくだらないプライドを折って認めた時にはもう全て手遅れだった。


サイレン男が起動したとき、彼の視界に映ったのは、夜の淡い月明りに照らされ、辺り一面銀色に輝く砂の海だった。

ここは砂漠だろうか? と、サイレン男は仮説を立てた。

潮風が北西の方から吹いてくる。

時刻も夜の見回りを終えてから長い時間が経過したわけでもない。

移動時間。北西から潮風。ならばこの砂漠は日本国内の鳥取か青森か……。

その仮説を手早く証明するためにサイレン男は衛星に電波を送ろうとした。

が、位置情報にアクセスをすることは出来なかった(実験のため、その機能は制限されていた)。


どうしたものかと、サイレン男がゆっくりと辺りを見渡すと、足元で動く、頭頂部に小さな旗のついたロボットが目についた。

そのロボットは、サイレン男の足元、キャタピラで小さく前後に動いてアイドリングの様な事をしていて、餌を待たされている小型犬のように首、いや、カメラのレンズを上げ、その視線だけをサイレン男に向けたまま、何かを待っているかのように小刻みに震えていた。


サイレン男は命令を待ち続けた。

動かないサイレン男に対し、足元にとどまるキャタピラのロボットは、科学者たちに人工音声で会話を行うことの承認を求めたが、それはあっけなく棄却された。



サイレン男は誰かからの指示を待ち続けた。

科学者たちの期待を裏切りながら(科学者たちはあの夜と同じようにサイレン男が自分自身で歩き出すことをどこか期待していた)。

サイレン男は自信を追尾するために送り込まれたキャタピラのロボットのことをただ見つめるばかりで、一向にその場を動こうとはしなかった。

そこは巨大な実験場だ。周囲の安全には最大限配慮されている。

サイレン男が、もし妙な行動をとろうともすぐに対処することができる。

サイレン男は起動してからずっと計算を続けていた。なんの答えを出すための計算なのか、指示を受け取ることができないという事態、自身にどこか異常がないかを調べようとしているのか、非常時のマニュアルにアクセスしようとしたのか、本当に何のために行われているのかも分からない計算をずっと続けている。科学者たちは互いに意見を交わしながら観察を続けていた。


サイレン男は困惑していた。なんの指示も危険もないのに動く必要なんてないと生まれた時から教え込まれていたから。しかし。どこにも、何にも、アクセスをすることができないというのはそれ以上に非常事態だ。どことも通信できない。サイレン男の中に一つのエラーが生まれた。

それを修復しなければならず。サイレン男は困惑していた。どうすればよいのか、サイレン男は様々なデータの中からでしかその判断をすることができない。サイレン男は立ち止まったままで計算を始めて、自分が、今、どうすればいいのか、様々なトライアンドエラーを繰り返してゆく。やがて、彼が次の判断に至るまでにキャタピラの小人はその体の半分以上が砂に埋もれていた。


動きがあったのは次の日の夕暮れ時だった。


ずっと立ち止まったままのサイレン男はこの旅の中でたった一度だけの夕暮れを見ていた。サイレン男が認識するのは、動くもの、人の顔、そして危険物とみられる熱源であり、太陽を見つめるようには出来ていない。科学者たちはこの動きに関して議論を進めた。

キャタピラは、サイレン男の横で砂に埋もれながらもずっとモーターの回るキュルキュルという音をたてていたのだが、日暮れ前、傾きかけの太陽から得られる僅かな光を漏らすことなく充電に使うため、一時的に停止した。

サイレン男は驚いたかのように。昨晩からずっと動き続けていたはずなのに、急に動かなくなってしまったその小さいロボットが何かを企てているのではないか、と、しばらくの間、その姿を注意深く観察していた。

やがて、キャタピラに危険がないことを判断したのか、視線フレームを切り、首を振って辺りを確認したサイレン男は……歩き出した。

歩き出した。自然に、だれの指示を受けるでもなく、前の晩にこの砂漠で起動してからそれまでの時間などなかったかのように、サイレン男は当たり前のように歩き出した。

歩き出したサイレン男の姿を科学者たちは固唾をのんで見守る。

誰一人としてそんなプログラムを組み込んだものはいない。

本来の彼は、指示なく歩き出したりはしない。

一体何を学習したうえでの行動なのか、科学者たちはその事象を探り、説明をしなければならなかった。指示のない、内蔵された地図にも載らない場所にいるにも関わらず、彼は歩き出した。監視を目的とした町の巡回や、あらかじめ指定されたルートを歩いているわけでも、迫る障害や危険を避けるため目の前に来た者に対する対処での移動でもなく、サイレン男は自分自身の判断で歩き出したのだ。


砂粒に反射する星あかりが銀色の背中の向こうに広がっていた。


歩き出したかと思えばサイレン男は再び立ち止まり、今度は夜空を見上げる。

その行為の意味が科学者たちにはわからなかった。

(彼は目が良かったのだ。頂点に達したミサイルを見つめることが出来るほどに)。

GPSに接続できないとはいえ、方角はわかる。

この実験の成功は、成功が存在するのなら、サイレン男がホームとして設定された阪神甲子園球場方向に向けて、誰の指示もなしに鳥取砂漠を脱出することだろう。それが最も安全な結果で、誰もが望む正当なる進歩だ。

だが、誰にも何が起こるのかわからずにいる。

 申し訳程度に学習能力はつけられていたが、勝手に歩き出すことなどありえないはずだった。そのはずなのに、町中で行われる日々の繰り返しの実験の中、この『サイレン男』だけが、唯一命令された以外のルートを歩いた。

その件に関して、安全性について、科学者たちには説明責任があった。

だから、なぜそのようなことになったのか、確かめるため、この実験を行うことが決まった。兵器流用を見据えた場合にこの機能が役に立つのかどうかも含め、原因と価値を正しく知っておく必要があったからだ。


 再びサイレン男が動きだす。

歩き出したその瞬間から、インターネットの回線に接続できるようになっていた。

一歩目を踏み出してから五時間が経って、様々なシステム上のエラーを経て、ようやく彼はインターネットに接続をした。彼はアクセスできるシステムの中から、地図を呼び起こす。

 その直後、彼のアクセスした情報を見て、科学者たちは建議を繰り返すことになる。

サイレン男が見た地図情報は彼のいる鳥取のものではなく。知多半島の南端だった。

僕はこのシーンをよく覚えている。サイレン男の頭の中、突如として浮かんだ僕の故郷がいやに印象に残ったから、画面に映るサイレン男が、僕の過去を見つめているように感じたから。


それが僕の覚えている一番愛くるしいヒーロー。サイレン男だ。


ただ、サイレン男が何かと問われると僕はたちまち黙ってしまう。『ヒーロー』だという認識しか持っていない。ずっと昔に観たその映像の中の、頭の片隅にずっとある映像の中の、銀色の体をしたそのロボットをヒーローとして思い出すだけだ。

 彼は毎違いなくヒーローだった。心の片隅のような場所にずっとあって正しさの指標を示してくれる。そんな存在だ(何か間違った選択をしそうになるたびに、その時にヒーローの取った行動を思い出して自分の正しさを決めるかのように、僕は何かが起こる度にサイレン男のことを思い出す)。

その、彼の映像を僕は工場で働いていた時分に観たはずなのだ。

ただ、いつ、どこで観たのか、何のきっかけで見たのか、その一切を僕は覚えていない。


・12

 トラックから降ろされた荷物の梱包をほどいて、かつての客が描いた港町の絵を眺めながら、僕はその男のことを思い出していた。

彼は画家で、僕の最後に出会った客、僕が最後に出迎えた客だ。


(平成の知多半島にて、彼はその絵のラフを描いた。ほとんど人のいない海辺のホテルで、入り口に置かれたオキアミやレンタル用の釣り具を眺めながら、連れ合いがチェックインを終えるのを待っていた。同行したのは古く学生時代から付き合いの続く友人で、出不精な画家の男を連れ出そうと旅行を企画してくれた。

『きっと俺らがどれだけ頑張ったところでどうにもならないと思うのは、もうとっくに入り口が閉じられてしまっているからだ』。

海にたらした釣り糸を眺める無気力な目のままで無意識にそう言ったその友人の言葉を画家は今でも時々思い出す)。

画家の男は随分と長い間、この八ヶ岳のホテルに宿泊していた。


彼がチェックインをした日の夜。日常の作業を終え、夜の九時を過ぎた頃。

僕はならべられたデスクの上で簡単な入力だけの事務作業をしながらニュース番組を聞き流していた。アジアを取り巻く情勢はますます厳しく、つねに緊張と隣り合わせで、何か一つでも摩擦が生じればマッチに火がともるようにたちまち戦火におちていくだろうという中、ギリギリのところで折り合いを付けながら、ユーラシア大陸の国々は体裁を保っていた。保った体裁がまだ崩れる前だった。

『何の気なしに取り出した懐中時計の針は、まだ五時にもなっていなかったはずだ』。

 フロントカウンターに置かれた電話が鳴り、デスクの上にある内線電話でそれを受ける。滞在している客は彼一人しかいなかったので、ディスプレイで名前を確認するまでもなく、誰からの電話かはすぐに分かった。

「はい、フロント中本です」

「1011号室のものですけれど、ドリンクの注文ってまだできます?」

広いホテルの中、客は自分一人しかいないなど、この時には知りもしない画家の律義な声が受話器の向こうから聞こえた。

「できますよ、何にいたしましょうか?」

「ビールが飲みたいのですが冷蔵庫に入っているサッポロの瓶以外に種類はありますかね?」

彼はビールが好きだった。ラウンジやレストランで飲むときには決まってビールを注文してきた。

「サッポロ以外でしたらビンのものですとエビスかアサヒですね、サーバービールもアサヒです。スーパードライと黒ビールと」

「地ビールはありますか?」

「地ビールですか……以前は取り扱っていたのですがね、今は置いていないんですよ」

「なるほど、では、冷酒をお願いします」

滞在中、彼がビール以外の酒を注文したのはこの時だけだ。

「銘柄は何にしましょうか?」

「お任せします。こだわりは無いので、何かお勧めがあれば」

「承りました、では後ほどお部屋までうかがいますね、暫くお待ちくださいな」

蛍光灯の灯りの下をまた横断する。事務所の奥、従業員用通路に続く内階段の扉を開けると、静まり返った通路内、秋の夜に響く虫の声が壁をすり抜けて通路内に届いていた。

 フロントのある階から一つ下って、食材を保管するための大型冷蔵室へと向かう。

大きな取手付きのドアを開ける時、僕はいつも昔読んだSF漫画を思い出す。そのSF漫画の中、冷凍庫に置き去りにされて命を落とした科学者のことを思い出す。

入ってすぐ右のドリンク棚から七賢というラベルの貼られた一升瓶をとりだし、冷蔵庫の扉を閉め、通路から厨房へとつながる階段を上り、食器棚からガラス徳利を探し当て、日本酒を注ぎ、トレイにのせ、客室へと運んでゆく。


軽く握ったこぶしでドアを三度たたいてから、ドア横のベルを鳴らす。ベルを鳴らすのにわざわざノックをする必要は果たしてあったのだろうかと自分の動作に疑問を感じている間にドアが開いた。

「飲み物をお持ちしました」

「ありがとうございます」

と、お礼の言葉を口にしながら画家が出てきたのだが、部屋から出てきた彼はどこか落ち着きのない様子で、ドアを開き、僕の顔を見た途端、慌てたように目を逸らした。

「このあたりの地酒で七賢という銘柄です。グラスは冷蔵庫の上の棚にございますので」

「はい」

「あ、それと、もう一つお伺いしたいのですが、明日の清掃はどうしますか?」

「あー、別にしなくても平気ですよ?」

「そうですか……タオルとシーツとアメニティだけ新しいものに変えましょうか?」

「そうですね、それだけ願いします」

「何時位だと都合いいですかね?」

「明日は、朝の十時くらいから出かけてくるので、十一時とか、昼頃にしてもらえれば」

「承りました」

最低限の事だけを尋ねると深く礼をして、ゆっくりとドアをとじてゆく。


自分で飲み物を頼んでおきながら落ち着きのないその態度がどうにも腑におちず。ドアを閉じる直前に室内を見渡す。

ホテル内で一番広いその部屋は、チェックインからたった数時間でそこら中に画材や初めて見る用途もわからない道具が散らかっており『掃除をするとなったらきっと大変だろうな』とは思ったが、特に異常は見受けられなかった。

単なる人見知りか? いや、昼間はそんな様子もなかったはずだが? と、首をひねりながらも、僕はそのままドアを閉じた。


そんな、どうでもいいやり取りの後、僕は久しぶりに仮眠室へ泊まることにした。


朝からバタバタとしていたせいか、事務所に戻ってきても、それ以上、本来必要のない事務仕事を続ける気にもならず。僕は床に就くことにした。ただ。自室には戻らず仮眠室を使おうと、事務所横のドアを開ける。

 事務所のすぐ横にあるナイトフロント用の仮眠室。中はベッド一台程のスペースに窓とサイドテーブルが一つある位で、それ以外には、よくそこで寝泊まりをしていた福田という男の置いていった私物とおぼしき物が何点か部屋の角に残っていた。


普段なら夜はテレビでも見ながら暇をつぶすのだが、仮眠室内にあって時間をつぶすことができそうなものはラジオくらいで、他に面白そうなものはない。電源を入れ、ラジオのダイヤルを回してゆく。チャンネルを合わせて、聞こえてきたノイズに混じった楽しげな声の中、僕は朝を待つことにした。

ラジオを聞きながら、福田のことを思い出したせいだろう、薄れゆく意識の中、彼の姿が浮かんでくる。真っ暗な空間の中、僕の頭の中、その男に関する映像が再生されていく。無意識の中、映し出される福田に関する記録は、段々と時間を遡っていき、やがてそれは、僕が初めてホテルに来た日までたどり着いた。


僕の前を歩く福田は、背中越しに僕へと語り掛けてくる。

「そうだな、このホテルの存在意義を君に教えておこう、一人の客を待っている。金本康史という名前の男だ。待たなくてはならない。それが重要なことなんだ。正しさの証明のためにね。

いつかその男が来るはずなんだ……だが、何も特別なことをする必要はない、ただ他の顧客にするのと同じように料理でも振舞って、旅の話を聞いてくれればいい、旅の話を聞け、それが何より大事なんだ。何も特別なことをする必要はないけれど、俺と君たちのような存在にとっては、その行為はとても重要なんだ。ただ一人の客をもてなして彼の昔話を聞いたという事実を君自身が記録すれば、それで十分なんだ。

俺はその内いなくなるだろうが、君さえいれば何も問題はないだろう。

それにしても『中本拓也』か、あんまりいい名前だとは思わないけれどな、家を継ぐ必要なんてないのにそんな日本的な名前を付けられて、やっぱり、俺が昔、君に付けたあだ名の方がずっと格好良かった」。

また場面が切り替わって。別の、いつかの、出来事が流れる。

ガレージの様な場所。

コンクリートの床の上に工具や何に使うのかもわからない部品、空の段ボール箱なんかが散乱した薄暗い空間(散らかり具合が、先ほどドアの隙間から見た画家の部屋によく似ていた)。

僕は若い福田と二人きり、ラジオを聞いている。僕が初めてこのホテルに来た時のように彼は一方的に話すばかりで、相槌の一つも打たない僕に熱心に話しかけていた。

ラジオの音が聞こえる。

僕が仮眠室で再生しているのと同じ番組だ。

僕らは二人でその放送を聞いていた。

放送が終わり、福田がテープを取り出しながら何かを言っている。口が動いているのは見て取れるが、何を言っているのか、ラジオ番組の再生が終わったその瞬間から音の一切が聞こえなくなってしまった。

言い終わるとともに福田はラジオの電源を落とした。

それに連動するように、無意識に再生されていた僕の頭の中の映像も止まる。

僕の意識が仮眠室に戻ってくる。南の海に潜ったダイビングの後のように、体がフワフワとして落ち着かない。

室内には依然としてラジオの音が流れている。

僕はベッドから立ち上がり、仮眠室の小さな窓から夜の野山を眺めた。

まだ辺りは暗く、朝焼けは依然見えない。

ラジオの音が聞こえる……このパーソナリティーの名前はなんといったか?

「意識をなくした先で俺は、ただ記憶の整理の為にサイレン男の夢を見る。

一人の男が思い描いた孤高のヒーローだったはずの彼は砂漠の中、小さなキャタピラのロボットと共に歩いていた。文明の滅びたような一面に広がる砂の中、ゆっくりと何かを確かめえるように、繰り返し振り返りながら、彼は歩いていた。

 彼が気にかけているのは、歩くたびに一定の距離を保ってついてくる小さなロボットだった。サイレン男が歩行をやめて立ち止まり、振り返るたびに彼も少し遅れて止まる。

その行為をカルガモのように愚鈍に繰り返し、サイレン男が振り返る度、彼の視線の先に何があるのかをそのロボットは確かめようとする。

 潮の香りのする明晰夢の中に現れたそのロボットのことを俺はロビンソと名付けた。

そう名付けた瞬間、俺は今すぐにでもこの浅い眠りから飛び起きて、ロビンソのことをノートに記したくてたまらなかった。だが、それはこの夢との別れを意味する。

小さな体で健気にもサイレン男を追い続けるその姿に、決してプログラムからは外れることのできない悲しさに、俺はロビンソのことが一発で好きになったんだ。

せっかく入り込めたこの空間の中から、俺は離脱したくなかった。ロビンソ。ヒーローにも理解者は必要であったし、ヒーローをヒーローたらしめるために理解してくれるのは弱者である方が好ましい。その、俺が持つイメージにロビンソはぴったりと合致したのだ。


それにしても。ここは、どこで、サイレン男はなにをしているのだろうか? 自由になった意識の中、そんな疑問が頭をよぎる。しかし、その疑問を抱いたところで、そのことを俺に教えてくれる人間は俺の夢の中にはいなかったんだ」。

(僕は、男が持ったその疑問に、福田なら答えてくれるような気がした。彼がかつてそのことを、サイレン男の最期のことを僕に語って聞かせた時のことを思い出す。薄暗いガレージの中、砂漠を歩くサイレン男のことを彼は楽しそうに話していた)。


また、意識がどこからか帰ってくる。

ラジオの再生はいつの間にか止まっていた。

僕が聞いていたのは一体誰の声だったのだろうか?

窓の外はまだ暗闇だ。

本当に……一人で待つ八ヶ岳の夜明けは、いつも、遠く。長い。

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