「ごめんな……私、死ぬんだ」隠された告白には、今も知らない親子がキャッチボールをする記憶が残っていた
「パパ……パパ! 」
消えゆく意識の中で、聞きなれた可愛らしい男の子の声がすっと耳に入ってきた。何度も涙交じりに私を呼ぶその声は、旅立とうとしている私に安心感を与えてくれるようだ。
ああ、わたしは息子にこんなにも愛されていたんだなあ、と。
必死に私の両手を握る息子の手を、私もできる限り力強く握り返す。まるで、もらった安心感をそのまま返すように。
「大丈夫だ……お前なら、私がいなくても、生きていける……ちゃんと、ママの言うこと聞いて、友達ともいっぱい遊んで、いい男に育つんだぞ……」
そして、少しでも彼を励ますために、とぎれとぎれの声でこういった。たぶん、それを聞いている間、妻は両手で口を覆い、今にも叫びだしたいような感情を抑えているように見えた。みんな、悲しいのだろう。
息子の手を握る力がますます強まってくる。彼の眼から流れ落ちた涙が、私のしょうもない手の上に静かに乗っかる。
また、彼は何か言いたそうにしているが、なかなか口を開き辛そうにしていた。私は息子にそっと微笑み、「どうしたんだい? 」と問いかけた。彼の緊張を少しでもほぐすためだ。
すると息子は突然スイッチが入ったように目つきが変り、一度深呼吸した後、まるで今まで我慢していたかのようにこう叫んだ。
「なんで……なんでだよ。なんで言ってくれなかったんだよ……そんな、ひどい病気を持ってたなんて! どうして教えてくれなかったんだよ! 」
一年前
「ねえねえ、パパ! 早く! 」
浜辺をはだしで走る可愛い息子が、無邪気な声で私を振り向きながら笑顔で呼んできた。私も微笑んで返し、「ちょっと、待ってくれ~」と情けなく歩いて後を追う。
すると彼はまた面白がってさらさらの砂に、雑な足跡を残して先へ行く。その足跡は次々と波にかき消されていくが、息子はそれに負けないくらいの足の速さと元気さで砂を蹴散らす。
将来は、スポーツ選手にでもなるのだろうか。
けど、時間がたって夕方になると、さすがにくたくたに疲れてしまったのか、息子は「ぶへえ」とか言いながら浜辺に寝転んでしまった。
私は彼の隣にゆっくりと座り、一緒に夕焼けに照らされた海を静かに見つめることにした。
「パパ、今日、楽しかった! またこようね! 」
「ああ」
「……大丈夫? ハァハァ言ってるけど」
息子が心配した表情で私の顔をのぞき込んでこう聞いてきた。私はとりあえず顔、特に頬のあたりについている汗を右手で拭って、「大丈夫、大丈夫! 」と言った。
「私が知らないうちに、ずいぶんと体力がついたんだなあ! 」
私は息子に悟られないよう、なるべく元気そうに言葉を発する。本当は心臓が止まってしまいそうなほど動機が激しいし、頭も痛いし、体もきつい。ただ、息子にはそんなものに気を使って制限のあるような生活を送ってほしくない。
小学一年だし、なおさらだ。
「……お! なんかあるぞ! 」私は暗い雰囲気にしないため、何か気をそらすものを目で探して、指をさして言った。
「あ、野球のボールだ」
そう、あったのはボール。波打ち際で海水を浴びながら、流されるか流されないかの瀬戸際に立たされている一個のボールだ。おそらく、この辺に住んでる子供たちの落とし物だろう。
思いっきり遊んだ後に、忘れていってしまったんだな。
「取ってくる! 」
子供の好奇心か、彼が私のことを思いやってくれての行動か、息子はそう言ってボールがある方へ走っていった。波打ち際の近くでしゃがみ、海につかってしまわないように慎重に彼は手を伸ばしてボールをとった。
そして私の元に戻ってくると、「はい! 」とボールを受け渡してきた。
私はそれを受け取って、ちょっと眺めてみた。
こういうのを見て、昔も今もあんまり変わらんのだなと思うのが、このボール、私が父さんとキャッチボールをしたときに使ったのと全く一緒だ。赤い日本の線が鎖のようにボールを一周し、どちらも終着点でしっかり重なっている。
ボールには誰かが握った後の汗がかすかに残っていて、よく見ると小さな黒いよごれがこびりついていた……
「ほら行くぞ! 」
頭にハチマキ巻いて腕をまくった父さんが、私にボールを掛け声とともに投げてきた。私は来たボールを両手でしっかりつかんで、また父さんに向かって投げ返した。父さんのに比べると弱々しいボールで、ひょろひょろと効果音をつけられそうな軌道で飛んだ。
微笑ましそうに父さんがボールをとると、彼は一旦休憩の合図を出した。……と思うと、私の近くまで歩いてきて、ボールを私に握らせた。
「いいか? もっといいボールを投げるには、しっかり肩を回すんだ」
「肩を、回す? 」
「そうだ。こんな感じで、やってみ? 」
そういいながら、父さんはボールを投げるときのフォームを私にやって見せた。私は無邪気にその動きの真似をし、彼はそんな私をうなずきながら見つつ、ずっと手本をやっていた。
「よし、その感じで投げてみろ。どんなボールが来ても、父さんは受け止めるから」
こういって、父さんは離れて、ボールをとる構えをとった。私は彼に言われたように、肩を回すイメージで、ボールを投げてみた。
すると、ボールはまっすぐとした軌道を描き、父さんの手の中にしっかりと納まった。
「そう、それだ! 」
父さんは大喜びして、私すぐさま近づき、頭をなでてくれた。
私はあの時、きっと本当に喜んでいたんだ……
ほんの昔のことを思い出していると、急に涙が止まらなくなった。息子がせっかく拾ってきてくれた誰かのボールが、みるみるうちに濡れていった。
ここと同じような浜辺で、似たボールでキャッチボールをした記憶が、何故か私の心を締め付けるんだ。
一方、そんな私を見ていた息子は、私の眼から流れ出る涙を、拭ってくれていた。子供とは思えないような、私と親子関係が逆転しているような、そんな表情で。
「パパ……」
「だ、だいじょうぶだ……よし、だいき! ちょっと座りながら、キャッチボールしないか? こんな感じでさ」
私は一度頬をたたいてから、息子にそう言って、ボールを小さく投げた。彼はそのボールを受け取ると、少し暗い顔をして「ねえ、パパ」と言って、ボールを同じくらいの威力で投げ返してきた。
「ん? なんだい? 」
ボールを受け取った私は、優しく聞き返し、またボールも投げる。
すると息子は次はボールをキャッチした後、一旦自分の体の近くにおいてから、「悲しいことがあるんだったら、何でも言ってね」と言った。
「それは、どういうこと? 」
「パパ、最近よくそんな顔するし、ひとりで泣いてるから……」
「え……」
どうやら、彼にはすべて見えていたらしい。私が、不治の病にかかって、死ぬ恐怖を感じていたことを。それが原因で、絶望するような気持になることが多いことを。
私は妻にも息子にもそんな、特に泣いているような姿は見られてないつもりだったが、そうではなかったということか。
「……そうだな、ありがとう」
私は息子に、微笑んでこう言った。すると彼はまた嬉しそうにボールを持ち、私めがけて投げてきた。子供のころの私よりも全然力のある彼から放たれたボールが、私の手を通り過ぎて、手の届かないとこまで飛んでいく。
「うわ、もうお前飛ばしすぎだよお! 」
「飛ばしてないよ! 普通に投げただけだもん! 」
しぶしぶボールを取りに行く私に、息子は笑いながらそんな言葉をかけた。
親子のキャッチボール、私が経験したのとはちょっと違う、楽しいキャッチボール。私は、なるべくこんな彼の時間を奪いたくない。続けてあげたい。この体が、ボロボロになるまで……
一年後
思えば、私はあの時に彼のそんな思いを聞いていたのだ。不治の病なのだから、家族に看病してもらってもどうにもならない。だから、特に息子にはなるべく言わずにいようと思っていたのだが。
でも、彼にはそんなこと、本当は余計なお世話で、なんとか力になりたかった、そう、思っていたのかもしれない。
「ごめんな……」
私は、怒りと悲しみが合わさったように泣き崩れる息子の手をもう一度強く握りしめて、つぶやいた。その声を聞くと、息子は下を向いていた顔を起こし、私と目を合わせた。
「私さ……お前を、愛していたから……」
「パパ……」
「お前が子供らしく、楽しく遊んでいる姿を、どうしても見ていたくて。ずっと黙ってて本当にごめん……でも、この数年間、ありがとう。私に、生きる希望を与えてくれて。お前と、妻がいなければ、私はとっくに自分で死んでたさ。こんな人生やだって」
私はそれから妻を見つめて
「みやこも、ありがとうな。協力してくれて。君と結婚して、子供も産めて、本当に幸せな人生だった。どうか、だいきのことはよろしく頼んだ。」
と言った。妻は膝を落とし、地面に這いつくばりながら私に近づき、息子の肩を抱いて、私の目を見つめた。
息子の方はもう何も言うことができず、ずっと涙を流している。
私はそんな息子に顔をゆっくりと近づけ最後に、私が伝えたいことを、伝えることにした。
「なあ、だいき。大きくなって、もし結婚して、子供が生まれたら、それが男の子だろうと女の子だろうと、一緒に、キャッチボールをしてあげてくれ。今度は、お嫁さんも一緒にさ。きっと、また違ったキャッチボールになると思うけど、それでいいんだ。そうやって、受け継がれて、変って、人間って……多分……そういう…………生き物………………なんだと思う」
ありがとう。だいき。大事なこと教えてくれて……
読んでいただきありがとうございます。