世間は狭いっていう問題じゃない
不思議と俺は落ち着いていた。いやもちろん驚きはした。驚きはしたが、どちらかというと納得の方が感情的には色濃かった。やっぱりか。そうなんだ。そっか。
そんなことを言いながらも動揺もしていた。推しのvtuberが隣に住んでいる喜びよりも、これからどう接していくのが正解なのかという動揺。いや今まで通りなのが一番いいとは思うのだが。そんな風に簡単にできるようなら俺はすでに本人に聞いている。
動揺を紛らわすようにアイスコーヒーを手に取る。動揺が手に現れたのか、グラスが小刻みに震える。おい、静まれ俺の右手。咄嗟に左手で右手首を掴み、震えを止めようとする。それはまさしく中二病の時に発症していた『自分の意思とは関係なく世界を破壊しようとしている右手と言う名の怪物』を止めるときとまったく同じポーズだったことを思い出し、凄まじく恥ずかしくなった。おい、おばさんたちがまたこっち見てるぞ。やめろ、好きでお前らに話のネタを提供しているわけじゃないんだ。
平静を保つために中空を見つめ、目を閉じる。そっか、やっぱりそうだったのか。この真実を知って俺にできることはなんだ。俺はなにがしたいんだ。俺はなにができるんだ。
そんな時、携帯がわずかに震えた。なんだ今の騒動に関する通知か?開くとそれは美冬からのメッセージを受信した通知だった。
『入学式おわったよー!』
え?なに、入学式ってそんなに終わるの早かったっけ?時計を見るとこのカフェに入った時から一時間弱が経過していた。
タイムスリップでもしたんか。なんで一瞬の内に時間が過ぎている?知らぬ間に時間軸でもずれたのか?
目の前のアイスコーヒーに目をやると、紙のコースターがじっとり濡れているぐらい汗をかいていた。それで時間がずいぶん過ぎていたことを知る。なるほど、もしかして現実逃避が過ぎて寝ていたらしい。不用心だ奴だ全く。
おっと、そうだ。返信しなくては。スマホの上で指を滑らせる。
『目の前のカフェにいるぞ』
すぐに返信は帰ってきた。
『いまいく』
それを確認してから俺はスマホをテーブルの上に置く。気付けばさっきまでいたおばさん達はすでにそこにはおらず、他の客もいなかった。店員の姿も見えない。あれっ、やっぱり何か世界線的な時間軸的なやつがずれちゃってたりする?まずい、そうなるとこの作品自体の方向性が狂ってしまう。
カランカランと出入口扉に付属されている大きめな鈴が鳴る。客が来た合図だ。それに反応してそちらを見ると、美冬が元気にこちらに歩いてきた。
「お待たせ、いやー長かったー」
「そんなこともないと思うぞ?」
そう、もはや一瞬だった。正面の椅子に座った美冬は「ふぅ」と一息ついた。
「ご注文はお決まりですか」
先ほどは見つけることができなかった店員がこちらのテーブルに来てそう言った。いったいどこに隠れていたんだ。それに驚いて体が震えた。
「えーっと・・・」
テーブルに設置されたメニュー表に目を滑らせる美冬。なるほど、そういう注文の仕方もあるのか。全国規模のチェーン店カフェのようにカウンターで注文するものとばかり思っていた。
「何飲んでるの?」
メニュー表から目を離した美冬は俺のグラスを見ながら聞いてきた。
「普通の、アイスコーヒー」
「じゃあ、私も同じものを」
「かしこまりました」
こちらに軽くお辞儀をして店員は去っていく。それを見送ってすぐに美冬がずいと身を乗り出してきた。
「ていうか今歩きながらSNS見てたんだけどさ!」
「歩きスマホは危ないからやめなさい」
「いいじゃん、この距離ぐらい」
「んで?」
「西連寺夢子って知ってる?」
こいつがvtuberを知ってるとは。てっきりそんなものは陰キャの趣味だから、と忌み嫌っていそうに見えたのだが。
「あぁ、知ってるよ」
「なんかちょっと炎上?じゃないけど、話題になってるんだってね。顔バレ?したの?」
「あぁ、さっきの配信でな。ちょうど見てたよ」
「うわぁ、そうなんだ。しかも私、あの人知ってる気がする」
「たぶん会ったことあるよ、会ったっていうか見かけたレベルだと思うけど」
「え、ほんと!?だれだれ!?」
しまった、春宮のためにもこれは隠しておくべきだったか。いやもうここまで言ってしまったら言ったようなものだし、もう言っちゃうか。
「誰にも言うなよ」
俺は身を乗り出して対面の美冬に近付く。美冬も察したのか、同じようにして耳をこちらに向ける。
「俺の部屋の隣に住んでる春宮って女の子だ」
「あー!どうりで!見たことあると思った!」
「ちょ、声がでかい!」
客がいないとはいえ、店員はいるのだ。用心に越したことはない。
「ひゃー、そうなんだ。世間は狭いねぇ」
「まぁこの辺は都心が近いし、活動しやすいのもあるんだろう」
「お待たせしました」
そのタイミングで店員がアイスコーヒーを運んでくる。律儀に「ありがとうございます」と言って受け取った美冬はさっそくアイスコーヒーを飲み始めた。
「そっかぁ、そうなんだ」
「うん?」
アイスコーヒーのぐいっと飲んだ美冬は気が緩んだのか、
「春宮さんって同業者だったんだ」
と言った。




