人生で一番かっこわるい瞬間
「ごめんね、友達の家に鍵忘れてきたみたいでさ」
春宮は玄関で靴を脱ぎながらそう言った。この電子キーが蔓延る世界でうちのアパートは未だ物理鍵を採用していた。大家曰く、玄関のナンバーロックが知られでもしたら泥棒入り放題じゃないかとのことだった。でもそれは鍵を落としたりしても一緒では?と思ったが、口を噤んだ。
「そのまま友達の家に行けばよかったのでは?」
「いや今日から旅行なんだって。そのせいで駅で別れたんだよね」
「そうなんだ」
「ごめんね、迷惑だったよね」
「いやいや別にそんな」
春宮を家に上げるのは、あの風邪をひいたとき以来だった。その時からすでに体調が悪かったのか、頭がぼーっとしていたせいであまり記憶がない。なので、今この状況は信じられないほどの絶景だった。慣れ親しんだ俺の部屋にあの春宮がいるのだ。うきうきするのも仕方ないというもの。
「先に千夏ちゃんの方に行ったんだけどさ、出かけてたみたいで誰も出なかったんだよね」
それに今日は東夏美もいるはずだ。大して大きくないこの部屋で、三人は少し手狭だろう。
「なら仕方ないね」
そう、これは『仕方ない』のだ。異性を部屋に上げるのも、間違ったことになっても、すべてまるっと『仕方ない』ことなのだ。ん?待てよ?
「友達が旅行って、じゃあ鍵はいつ返してもらえるの?」
そこが無性に気になってしまった。いやまぁ俺はずっとここにいてくれてもらってもいいんだけど、同棲みたいだし。
「あぁ、明日には帰ってくるから大丈夫だよ。それに夜は千夏ちゃんとこに行くつもりだし。だからちょっとだけお邪魔させてね」
「あぁ、うん」
まぁそうですよね。ある程度、仲良くなったとはいえ男だし、せいぜい隣人程度の仲ですよね。前回一話丸々費やした脳内会議回をどうしてくれる。
「あのー・・・」
「ん?」
ものすごく言いにくそうに春宮が俺を見上げてくる。かわいい。抱きしめちゃいたい。だめかな。通報かな。
「雨、降ってたじゃない?」
「そうだね?」
「傘忘れちゃってさ、けっこう雨に打たれちゃって・・・」
そこでようやく気付いた。春宮が全体的にしっとりしていることを。
「うわわ!ごめん!全然気づかなくて!!お風呂でしょ!?今すぐ準備するから!!」
「ごめんね、ありがと」
玄関開けた時点で気付けよ馬鹿が!!と自分を叱りながら、すぐに湯張りのボタンを押す。電子音声が『湯張りをします』と告げたのを確認し、急いで洗面所へ。バスタオルを手に取り、戻る。
「10分くらい待ってて!とりあえずこれで髪でも拭いててくれ!」
「ありがと」
女の子は体を冷やすのはよくないと聞いた。俺は台所へ踵を返し、ホットミルクを準備した。完成したそれを春宮へ差し出す。
「これ!体冷やすといけないから!」
「わぁ、私ホットミルク好きなの」
「それならよかった!」
そこでようやく一息つく。勢いで色々準備してしまったが、あのバスタオルはもちろん俺のだ。マグカップだってそうだ。とりあえず手に取ったそれは俺が愛用しているもので、毎日使っている。だ、大丈夫か?臭かったりしないか?俺はちゃんとマグカップを洗っていたか?
そんな不安がよぎった時に湯張り完了の電子音声が鳴った。
「と、とりあえずお風呂に入ってきなよ!あと、片付けておくから!」
「なんかすごい慌ててない?」
「いや!?いや全然大丈夫だけど!?」
「そう。じゃあお風呂いただくね」
髪を拭いていたバスタオルを手に春宮が浴室へ向かう。俺も何か飲もうかと台所へ立った時、それは聞こえてきた。台所の脇は、扉一枚隔てて脱衣所になっている。今、そこで、服を脱いでいるであろう春宮の、衣擦れ音が聞こえてきたのだ。
あれ?ちょっと待てよ?この状況って思ったよりやばいんじゃないか?
体の中心に血液が集まっていくのを感じながら俺は忍び足で脱衣所の扉に近付く。バレるな、音だけ。音だけだから。
あと二歩という所で突然、
「あ、藤宮?」
扉の奥から声がした。
「お、音だけです!!!!大丈夫です!!!!」
条件反射でそう答えた。なにが?って感じ。
「え、なにが?」
ほれ見ろ。予想通りだ。
「重ね重ね申し訳ないんですが、適当に服を貸していただけると・・・」
「あーはいはい!分かりました!お風呂に入っている間に準備しておくね!!」
「おねがい」
程なくして、浴室の扉が開く音がした。そしてシャワーの音。
う、ううううう、うううちの風呂で、おおお、女の子が、シャシャシャ、シャワーをををを、を。と、内なるオタクを鎮めさせながらクローゼットへ向かう。無難にパーカーとスウェットでいいだろう。そのあとは家宝にしよう。あれ、そういえば下着は、どうするんだろう。
友達と遊びに行った、というのが泊まりなのか日帰りなのかという話でそれは変わってくるだろうが、荷物がほぼ無かったところを見ると日帰りだろう。替えの下着なんて持っているはずがない。あれ、もしかしてこれ家宝通り越して国宝になっちゃうんじゃない?
そんなことを考えながら脱衣所へ行ったものだから、浴室の扉が開いてそこから春宮が顔を出すことなど考えもしなかった。「ふじ・・・」と言いかけたその顔はすぐに俺を見つけて固まってしまった。俺も扉が開く音を聞いて反射的にそちらを向いてしまったものだから春宮とがっつり目が合ってしまった。止まる時間。止まる二人。溢れ出る汗。あんな邪なことを考えているからだ。いっそ俺を殺してくれ。
勢いよく閉まる扉。流れ出す時間。頬を伝わる汗。静寂を破ったのは春宮だった。
「・・・見た?」
「いえ!なにも!!」
焦って裏返る声。でもほんとに見てなかった。見えなかった。ちょっとしか。
「早く出てけ!!!」
「着替え置いておきます!!!」
脱兎の如く、俺は脱衣所を出た。




