初エンカウントは涙と共に
「やばい、暑すぎる。死んでしまう」
うだるような暑さの中、布団を抱える形で俺は帰路についていた。車が欲しい、いや車の前に免許をとらないと。いやでもここに駐車場はないし、乗る機会もあまり無さそうだから宝の持ち腐れか。いやでも免許ぐらいは持っててもよさそうだな。
アパートの前まで着いた時、階段を降りてくる音が聞こえた。布団を縦に持っているせいで視界の半分が遮られてその姿は見えないが、階段は人が二人すれ違えるほどの幅はないので黙って降りてくるのを待った。すると、その足音は俺の前方斜め前辺りで止まった。
「あの、大丈夫ですか?」
女の子の声だった。彼女いない歴=年齢というごくありふれたプロフィールから漏れることができなかった俺はその問いに、
「大丈夫です、ご心配なさらないでください、お嬢さん。これぐらい男の僕にとっては朝飯前ですよ」ということようなことを要約して、
「だ、だだだだd大丈夫でっすっ」
と至極どもりながら言った。知らない女の子に急に話しかけられてスマートに答えられるやつなんているのか。いるんなら連れてきなさい。伝授してほしいので。
「は、はぁ、そうですか」
そう言いながら彼女はまた歩き始める。それを確認してから俺は静かに振り向いた。なんとまぁ綺麗なこと。お人形さんかな?というぐらいスタイルがよい、というか足がすごく長い。夏ということもあり、半そでを着ているが、白いロングスカートのせいですごく清楚に見える。待って、もうこれ以上、女性の外見に関するボキャブラリーは無いからこの辺で勘弁してほしい。とりあえず後ろ姿はすごく可愛らしかった。でもまぁ、後ろ姿美人なんて言葉もあるぐらいだしな、あまり期待はしないでおこう。
予期せずその女性を見送る形になってしまったことに驚きながら、さあもうひと踏ん張りだと階段を上がる。玄関を開けて、布団を放り投げてその上にジャンプ。布団に包まれることを想像していたが、着地場所を見誤りフローリングに肘を強かに打ち付けた。悶絶である。痛みに転げまわっていると、シャツが汗でひどく濡れているのに気づき、誰に見られているわけでもないのに痛みに強がり「シャワー浴びよ」と独り言をつぶやいた。
もはや被害妄想とでも言えることだが、俺には変な行動理念がある。それは、『常に誰かに見られているような行動をしろ』ということだ。バラエティ番組で楽屋に隠しカメラが仕掛けられ、行動を監視されている、あんなイメージだ。そう意識することにより、部屋は基本的に綺麗にしているし、一人でいるときでもだらしない格好でいたりすることもない。ましてや、急な雨が降った時にコンビニの傘を盗むような軽犯罪も今までしたことはない。そのおかげで独り言が出てしまうのはたまに傷だが。
シャワーを浴び終えたところで、そういえばバスタオルも無いことに気付く。替えのシャツは布団と一緒に買ってきたが、バスタオルとなんならタオルも無い。浴室前で水が滴るいい男は棒立ちをする羽目になった。窓を開け放っていたのでよい風が入ってくる。あ、そうだ、あの風で乾かそう。
さっきの行動理念はどこへやった、と言わんばかりに俺は全裸で窓に近付く。そういえばカーテンも買わないといけないなと思いながら窓脇の壁に背をもたれて座り込む。ベランダに出てしまったら公然わいせつになってしまうからな、ここで我慢だ。そのまま空を眺めていると、ふとベランダ脇の仕切り板が壊れているのが目に入る。壁側の固定部分が外れかかっているのか、ぶらぶらと風に揺られている。さっきベランダに出た時には気付かなかったな。お隣さんにも迷惑がかかるし、あとで修繕してもらおう。
家に帰ってきたときにすぐさま充電し、電源がつくまでに回復した携帯がまた何かを通知した時の振動を鳴らした。四つん這いで携帯を取りに行き、通知を見るとそれはすべてSNSのものだった。仲の良いフォロワーからのメッセージ通知。そこには、
『おい!ミユちゃんが引退するぞ!!』
の文字。俺は急いでミユちゃんのページに飛ぶ。そこには謝罪を示す内容の短い文と長文の画像付きつぶやき。要約すると、先日の生配信にて私の不注意によるもので皆さんを裏切ってしまったこと、結婚を控えていること、これを機に配信者を辞めるということだった。辛い現実を目の当たりにしながらも、未だ直視していなかった俺を目覚めさせるには十分な一撃だった。5トンのハンマーで頭を殴られたが実はハリボテでした、というようなオチを期待していたのに、こんなのもう認めなきゃいけないじゃんか。
俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、小鳥遊ミユにさよならと告げた。