チャンスは逃すもの
『下の名前で呼んでよ』
俺の耳に間違いがなければ確かに春宮はそう言った。千夏ちゃんの時は抵抗はあったが、どちらかというと妹みたいな存在だったからすぐにそれには慣れることができた。しかし、春宮は違う。決して妹には見えやしない。そもそも春宮を下の名前で呼べる日が来るなんて思いもしなかった。そんなの付き合ってるのとほとんど同義じゃないか。
「ねぇ、だめ?」
春宮はそう言いながら下から覗き込んでくる。恥ずかしいは恥ずかしいが、当人のお願いである。これに応えなくては男が廃るってものよ。果たしてこの言い回しは何回目だろうか。
意を決して口を開こうとしたとき、ふと誰かの視線を感じた。春宮も感じ取ったようで二人してそちらを振り向く。
ウッドデッキの描写が足りなかったので補足しておこう。ウッドデッキにはキッチンからの扉から入るというのは先にも説明したが、高床式となっているから地面と平行しているわけではない。脇にある三段程度の小さな階段を降りると地面に降り立てるわけだ。なのでウッドデッキの欄干側から地面に立っている人を見ると、それは上半身しか見えないのだ。しゃがまれるともはや頭しか見えない。
そんなわけでしゃがみながらこちらの様子を眺める千夏ちゃんに気付いた、というわけだ。
「あ、バレた」
悪びれる様子もなく千夏ちゃんはそう言う。
「お、温泉に行ったはずじゃ!?」
俺は後ずさりながら狼狽した。
「お風呂のセット忘れちゃったんですよ。それで戻ってきたら何やら面白いことになってるじゃないですか。そりゃ見ますよね」
やれやれ、という手ぶりをしながら千夏ちゃんは立ち上がった。
「春宮さんも私が千夏ちゃんって呼ばれてるのが羨ましくなっちゃったんですかー?」
ニマニマしながら階段を上がってくる千夏ちゃん。
「あ、ついでに春宮さんも一緒に行きましょうよ。人数は多い方が楽しいですからね!」
そう言って春宮の手をとった。
「え、ちょっと、私は」
必死に抵抗を続けるが、その甲斐むなしく春宮は引っ張られていく。どうにか止めようと手を伸ばすが、ただ二階に連れていかれる春宮を見送ることしかできなかった。あれを止めるのはさすがに無理だ。
ウッドデッキに一人取り残されたまま、咄嗟に勇気が出なかった自分に心底嫌気がさした。こういう時に止められるようなやつがモテるんだろうな、いやそもそもモテるようなやつはこんな風に邪魔が入ったりはしない。順風満帆のまま、関係性を育てていくのだろう。
ちなみに二階に上った時よりも早いスピードで降りてきた二人をまた止めることなどできることもなく、春宮の「あぁー」という悲鳴を最後にコテージは静けさを取り戻した。かわいそうに。