幕間:ヴィッツ家の悲願
国領の七割以上が海である海洋国家ジャパランティス。
御国柄、当たり前だが海上保安の重要度はかなり高い。
ジャパランティスにおける海軍とは、軍人の中でも選りすぐりのエリートが集められる超・組織である。
その組織力もさることながら、優れた技術力で月彌兎との戦争時に鹵獲した兵器を解析し、改造または開発した超兵器を多数保有。
兵隊も兵器も最高クラス、「世界最強の海上戦力」などと謳われているのも納得の話。
そんなジャパランティス海軍の総司令部、ある佐官執務室にて。
「……【霧の海の幽霊船】ねぇ」
お高い椅子の背もたれに大胆に身を預け、提出された提案書の束に目を通す男がひとり。
瞼に充分なエネルギーが行き渡っていないのか、その目は半ば閉じかかっている。「中年男性」より「オジさん」と言う表現がしっくりくる雰囲気。
オジさんの名はスイセン。ジャパランティス海軍・大佐。
雰囲気に反して普通にお偉いさんである。
今でこそ何だか気怠そうな中年オヤジのステレオタイプのような男だが、その純白の軍服――ちょっとシワが目立つ……――の両胸を埋め尽くす略綬の群れが、その秘められ過ぎて稀にしか表出してくれない彼の優秀さを物語っている。
スイセンが雑に提案書の端を摘まんでぴらぴらしていると、デスクを挟んで彼の前に立っていた青年将校がこほんと咳払いをした。
「……大佐殿、どうか御検討を」
青年将校の名はディンガーレオ・ヴィッツ。銀色の髪に蒼い瞳が特徴的な美男。
腕章から読み取れる階級は少尉。だらしない上官殿と違い、ビシッと背筋を伸ばして直立不動の待機。
そびえ立つような長身に目つきの鋭さも相まって、ディンガーレオ本人にそのつもりは無くとも、一瞥で大抵の子供を泣かせられるほど威圧感のある眼力である。
見下ろされる形のスイセンは「おー、恐っ」とおどけてみせた。
「検討、と言われましてもねぇ……正気かい?」
やれやれだぜぇ? とスイセンがデスク上に放った提案書。
その作成者はディンガーレオであり、内容は……。
「我が国の東方領海、東東・イの六六号区を中心とする合計四三区画の封鎖海域群――まぁ、ここは【海上他界】と呼ぼうか? あそこの調査だなんて……まぁた無茶を仰るよ、この若手の星は」
ジャパランティス東方領海には、俗称として海上他界と呼ばれる魔の海域がある。
そう呼ばれる理由は単純明快。
行ったら、帰ってこれないから。
数え切れぬほどの船が、その海域で姿を消した。
「当然さぁ、そんな場所を放置するほど、我が国の海軍は怠け者じゃあない訳よ?」
俺と違ってねぇ、とスイセンはへらへら笑いながら続ける。
「過去に、もう大規模な調査が行われてるでしょうに。調査後、政府がどう対応したかまでまとめた報告書……機密レベルは高くないから、一般資料室でいくらでも閲覧可能なはずだよねぇ」
優秀なキミがまさか、提案書作成前に過去の類似事例を確認していないなんて事は無いだろう?
スイセンが問うとディンガーレオは小さく息を吸い、
「……『かつて月彌兎との戦争で撃墜したと思われる宙船の残骸と共に、活性状態の獣術兵器を複数回収。この兵器が何らかの自然現象によって偶発的に作動、航行船舶を攻撃・撃墜していたものと推測される。当該海域はかつての戦争において主戦場となった区域であり、伝説の三大妖が星の数ほどの宙船を撃墜した場所とされている。この事から、全ての残骸と沈没兵器を捜索・回収する事は現実的でないと判断。よって、ジャパランティス政府は当該海域の永久封鎖・禁海指定を宣言した』」
「はははのはー……空で言えるほどとは恐れ入る」
「ぺら一枚の報告書でしたので」
「……ふぅん。なるほど、キミは暗にこう言いたい訳かな? 『報告書の内容が薄過ぎる』と」
「先達の仕事ぶりに疑義を叩きつけるつもりはありません」
ですが、と強い口調で区切り、ディンガーレオはただでさえ鋭い目を更に細めた。
「当時と現在では、事情が異なっていると考えます。その旨は、提案書に」
「……ああ、びっしりぎゅうぎゅうと書かれてたねぇ。途中で読む気力が折れちゃいそうになるくらい。リーダビリティって大事だと思うの大佐」
心底うんざりしたような表情で、スイセンは提案書の端を摘まんで数ページめくり上げる。
「霧の海の幽霊船……ってさぁ」
中年男性特有の重く大きな溜息が執務室内に響き渡った。
「一般市民が『望遠鏡で海を見て遊んでいたら、あの海域に浮かぶ巨大な黒い船と髑髏の巨人を見た』なんて話から尾ひれ羽ひれになんなら足まで生やして膨らんでった都市伝説でしょぉこれぇ……」
世間様の御話によれば、その幽霊船にはなんと古今東西のあらゆる怪物が乗っているのだとか。
目についた船を片っ端から襲い、船もろとも船員を喰らう幽霊船。
そんな荒唐無稽な都市伝説に僅かながらの信憑性を持たせてしまっているのは……何を隠そう、海軍の行動。
理由は違えどジャパランティス領海にはいくつかの禁海指定区域があるのだが、それらは海軍の巡視船が四六時中厳重な監視をしているのに……海上他界周辺だけは、海軍の監視がまったく無いのだ。
月の沈没兵器を警戒するにしても、遠目の監視すら無いのはおかしいだろう。
そこから憶測が生まれたのだ。
もしも件の幽霊船……巨大な怪異が本当に彷徨っているのだとしたら。
何かの間違いで、件の幽霊船が禁海指定の領域からはみ出してくるかも知れない。
だから海軍もあの辺りには近寄らないのだろう……と。
「まぁ、確かに。なーんであの辺に巡視船を回さないのか……ってのは、海軍七不思議って事で大佐が新兵になるずっと前から色々と言われてるけどさぁ。『月兎戦争に纏わる重要事項』って事で大将以上の権限が無いとその詳細は確認できないし……お偉いさんの考えてる事はまっっったく分からん。対して、その謎に空けられた監視体制の穴を利用して、良からぬ連中があそこに身を隠すようになった……って推測は、まぁ分からなくはない。でも幽霊船ってのはいくら何でも頓珍漢じゃあないかなぁ……?」
「提案書にも書かせていただきましたが……」
「今日の明け方、海洋巡視船が保護したって言う漂流者の証言かい?」
一応、何だかんだと言いつつ提案書の中身はしっかり把握しているらしい。
「ほんの数時間前に上がって来た情報まで盛り込んで、こぉんな分厚い提案書を仕上げてくるキミの執念には感服するけどさぁ……密輸犯罪なんかに手を染めた愚か者の言い分、真に受けない方が良いと大佐は思うんだよねぇ……」
あの霧の海に潜んでいるのは月の超技術で造られた兵器か、恐ろしい怪物どもが群れる幽霊船か。
真実がどちらにせよ、「世界最強の海上戦力」と謳われるジャパランティス海軍ですら避けるような海域……近付かぬが吉。
そう考えるのが、普通だろう。
だが、自分に都合の良い情報しか頭に入らない愚者どもは違う。
特に、最低限の決め事すら守れない犯罪者と呼ばれる連中は。
海上他界なんてのは、違法航海を抑止して海上警備コストを抑えたいジャパランティス政府の思惑……即ちデマだと決めつける連中が、意外にも少なくないのだ。
情報戦と言えば聞こえは良いが、効力があまりにも不安定的だ。
こんなデマの流布を以て海上保安の術とするなど、なんとも馬鹿馬鹿しく、有り得ない話……なのだが。
それでも、東洋航海の要所であるジャパランティス領海をどうにか違法に通過したい愚か者どもは、自分たちに都合が良いこの話を妄信する。
情報通気取りのしたり顔で「ここだけの話」などと枕に付けて、広めていく。
そして明け方に保護されたと言う漂流者も、そんなアホみたいな話を信じ海上他界を密輸航路に選んだ密輸船の乗組員。
証言によれば、事が起きたのは昨日の夜。
西大陸から東洋をぶった切り、南大陸・オーストルアまでもをまたにかける大規模な密輸旅にて。
曰く……『恐ろしい怪物どもが乗った黒い海賊船に襲われた。どうにか命からがら海へ飛び出した』と。
丸一晩も海水に浸かっていた体温低下……とは別種の震えがいつまでも止まらず、取り調べの途中で遂には発狂、舌を噛み切っての自殺を図り、軍病院に緊急搬送されたのだとか。
「ぶっちゃけさぁ。阿片でもキメてたんじゃあないの? 犯罪者なんて大体ヤク中だよ」
「証言の中には、何体かの怪物の容姿について言及がありました。それらの特徴が――」
「討伐手配され、行方を完全にくらませている怪物どもと一致している。偶然で片づけるには違和感を覚えるほどに……って?」
スイセンは提案書の途中から数ページを破り取って、卓上に並べた。
それは世界怪物討伐協会が発行している手配書。
「【人食い鳥】ハルピィ、討伐報酬金一三〇〇万。【蜘蛛毒婦】マリサ、五〇〇〇万。【海の怪】ゼリーライム、七五〇〇万。【鎌威断】ウォコジオ三兄弟、四五〇〇万……ははっ、【笑い狼】ルジナ、この笑顔が素敵な人狼の御嬢ちゃんに至っては九〇〇〇万か」
冗談も程々にしてくれ、とスイセンは天井を仰ぎながら一笑。
「最低でも一〇〇〇万越えの怪物、高い奴は下手すりゃ億に届きそうな大物。こんな連中が先陣を切って乗り込んでくる海賊団だって? じゃあ幹部クラスは億超えや一〇億超えの怪獣なのかい? ぼくのかんがえたさいきょうのかいぞくだんって奴かな。御伽噺でももう少し現実に寄せてくるだろうに」
「……………………」
「で、キミがこんな与太スケ話に喰い付いてしまうほど盲目になっている原因は……」
スイセンは手配書の一枚を指でトントンと叩いた。
そこに掲載されているのは、実に可愛らしい少女の似顔絵。
「【吸血姫】メリアメリー・ヴァン…………私怨だねぇ、少尉――いや、V・V家の若き御当主サマ」
「……っ」
「どれだけ与太スケ臭い話だろうと、万が一にも放っては置けない。難儀だね」
スイセンが指でピンと弾くと、少女の手配書はデスク上を滑り、ディンガーレオの目の前で止まる。
その手配書を見下ろすディンガーレオの表情は、苦虫を嚙み潰したような気まずさと……親の仇でも見るような憎悪が入り混じっていた。
スイセンが「顔こっわ」と茶化すが、ディンガーレオの表情は微塵も緩まない。
「……御存知でしたか」
「うん。ま・ねぇ……何せキミは皇室の口添えで入隊した天才イケメンナイスガイだ。おじさんが気になって調べちゃうのも仕方無くない?」
「……………………」
「まぁ、御家庭の事情にズブズブ首を突っ込むほど大佐も野暮スケじゃあない。話を戻そうか。一応、現実味が無いって点に目をつぶれば、一本の筋は通るかも知れないねぇ」
魔の海域を渡ろうとする違法船……それらがウワサの幽霊船に喰い尽くされ、次の港に辿り着けていなかったとしても、誰も気付くはずが無い。知る術が無い。
人目を盗んで密かに運航する違法船が消えた事など、一般人は気付かなくて当然。
同業者なら気付きはするかも知れないが……。
裏の世界は喰って喰われて。
犯罪稼業の知り合いが忽然と消息を絶っても「どこかでヘマ踏んで消されたか」程度で流される。
そうして、ウワサは今日もウワサのまま……霧の海は愚か者どもを呑み込んでいく。
……絶対に有り得ない話では、ないのかも知れない。
「でもね……憶測に憶測を重ねた末に出来上がった都市伝説の調査に軍隊が動く、って、無理だよ普通に。しかも既に一度調査が完了している区域の再調査。禁海指定後に確認できる船籍の失踪記録は無し。唯一可能性を示唆しているのは、明らかに精神に異常をきたしている犯罪者の証言のみ……無理~って一〇〇回言っても言い足りないね」
「………………」
「まだ納得できないならもうひとつ。その白い軍服が公務員の制服だと言う自覚はあるかい?」
「調査は軍内のヴィッツ家関係者のみで行います。調査中は欠勤扱いで構いません」
「そう言う問題じゃあないって分かった上で言ってるよねキミ。恐い上に皮の厚い御尊顔だ事。まったく……本来なら、『頭を冷やしなさい若造が』と追い返す所……だけれども、ねぇ」
あー……と気怠そうな声を上げながら、スイセンは引き出しを開け、ある資料を取り出した。
それをディンガーレオへと差し出す。
「……拝見いたします」
その資料の表題を見て、ディンガーレオは眉をひそめた。
「……大佐殿。質問よろしいでしょうか」
「許可する」
「旧型艦の処理に関する議事録資料と、この件に何の関りが……?」
「旧型と言ってもその艦は、ジャパランティスの技術の粋を集めた逸品だ。鉄くずに戻すのは勿体ない。そこで、ある程度の技術をぶっこ抜いてデチューンしてから、同盟国に売り払っちゃおう……って話が出ている訳さ。まぁ、最後まで読んでごらんよ」
「…………、!」
資料を読み進めていくと、デチューン後に問題無く稼働するかのテスト航行を行う旨が記載されており、実施海域の候補として東方領海の区画がいくつか挙げられていた。
「まさか……」
「さて、この案件は地味だけど、外交に関わってくる重要な御仕事だ。尉官で、皇室のお気に入りであるキミなら……まぁ、指揮官に抜擢しても大丈夫でしょ。俺が未来の上官候補に媚びを売ってるとか言われそうではあるけどね」
外聞とか気にしたら緩ダル系おじさんなんてやってらんないよぉ、とスイセンは顎を擦りながらイタズラ小僧のようにニタニタ笑う。
「ちなみに上層部的には使わない船はさっさと処分して金にしたいみたいだから、作戦参加要員の選出が済み次第、即テストで即売却って流れになる。参加要員は俺の方で『理解のありそうな子』たちを選んでおくよ。実は割といるんだ、あの海域に興味深々の若い子。みんな七不思議とか好きだよねぇ……今日中には選んでおくから、早ければ明後日にはキミの御望みが叶うよ」
ニタニタ笑顔をキープしたままスイセンが立ち上がり、ディンガーレオの傍へ。
「それから……仕事仕事じゃあ息が詰まる。大佐はこれからサボタージュを兼ねて、少し街に出るよ。この前、美味しい団子喫茶を見つけてねぇ」
スイセンはディンガーレオの肩にポンと手をおくと、声のトーンを落として耳打ちした。
「さて、期待の若手くん。こんなダメなおじさんに影響されて『テスト航行中に、ちょっとしたサボタージュで規定航路を外れ、あまつさえ禁海に侵入しちゃう』だなんて……ダメだよぉ? そのテスト記録を改竄して部下の不始末を揉み消すのは、おじさんの仕事になっちゃうんだからさぁ」
「……ありがとうございます」
「いやいや、バカ正直に御礼を言っちゃダメでしょこの流れは……まぁ良いや。せいぜい頑張りなよ、ヴィッツ大尉」
「大佐殿。失礼ですが、小官の階級は少尉であります」
「……ああ、そうだねぇ。まだ少尉だった。まぁ、どうあれすぐに出世するでしょ」
軽いノリで流しながら、スイセンは出入口へと向かった。
ドアノブに指をかけた所で「……ああ、そう言えば」と振り返る。
「確かキミ、明日は弟妹を引き連れて視察に出るんだっけ? ついでだから、帰りに寄り道でもしてサボタージュの予行演習でもしてきなよ。何事もぶっつけ本番は良くない。件の団子喫茶を紹介するからさ」
スイセンは胸ポケットから取り出したメモ帳にさらさらっと筆を走らせる。
おそらくは件の団子喫茶への行き方を記しているのだろう。
そのメモを千切ると、慣れた手つきで小型の紙飛行機を作成。ディンガーレオの方へ飛ばす。
ミニ紙飛行機は空中でくるりと一回転して、ぽすっとディンガーレオの鳩尾に当たった。
「……よほど、その団子喫茶を気に入られているのですね。そんなに美味しいのですか?」
「ああ、それはもう。『この店の味を知らずに死ぬなんて可哀想だ』と思うくらいには……ね。楽シんでおいで」
ひらりひらりと手を振って、スイセンは執務室を後にした。