82 「好き」という気持ち2
それが去年の3学期の話。
石神井にはなかなかわかってもらえないのだが、正直、俺程度の知識量の人間なんて山ほどいて、ああいうガチで深い人を前にすると「自分はオタクです」なんて言えなくなってしまうのだ。
「話してる最中は『さすがオタク同士、盛り上がってんな~』って思ってたんだけど」
「俺がオタクかどうかは一旦置いておくとして、わりと広く浅く知ってるだけなんだよ」
「それを詳しいって言うんじゃないの?」
「いやいや」
「物知りじゃん」
「物知りじゃないし、それに知識があるってのはもはや意味のあることじゃない。そこじゃなくて、オタクにとって重要なのは深さなんだよ結局」
「深さね。若宮はインレー湖くらい浅いってことか」
「誰が世界一浅いことで知られる最大水深3.1メートルのミャンマーの湖だよ。じゃなくて」
「続きをどうぞ」
マニアックなボケに俺が対応できたのが嬉しいのか、石神井は不敵に笑う。
「たとえば『NANA』が好きだとして、『天使なんかじゃない』とか『ご近所物語』を読んでなくて『矢沢あいが好き』って言えるか、言っていいのかって話なんだよ。羽海野チカファンを自称する人間が、『ハチクロ』は全巻読んだけど『三月のライオン』は最近読んでない……でいいのかって話なんだよ」
「ん、ちょっと待て。矢沢あいファンとか羽海野チカファンを自称するのって免許とかいるの?」
「免許というか、気持ちの問題というか」
「ふーむ。気持ちねぇ」
石神井は俺の言葉を咀嚼するように、腕を組んだまま上を見上げる。
「でも、その場合は普通に『ハチクロが好き』とか、『NANAが好き』とかでいいんじゃないのか?」
「まあ、それでいいんだけど」
「あ、いいんだ」
「でも、好きな先生の代表作すら読んでない時点で、もうオタクとは言えないだろ?」
「やっぱり良くないんじゃん」
ふふっとニヤリと笑いながら石神井が言う。
どこか人の内面を見透かすかのような微笑みだが、悪意や他意は感じられない。そこにあるのは不毛な好奇心だけ、という感じのタチの悪い笑顔だった。
「要するに『限りなく全部に近く、ほとんど知ってる』ってのがオタクである最低条件だと、俺は思うんだ」
「なるほど」
「だから、たとえばラブコメオタクと自称するからには、有名作品はアニメ、ラノベ、マンガ、全部に精通しているべきなんだ」
「アニメオタクとかになると、もっとハードルが高いワケね」
「だな」
しかし、石神井は俺の持論に首をかしげる。
「べつにいいと思うけどなー。若宮が『天使なんかじゃない』読んでなかったり、最近『三月のライオン』読んでなかったとしても、オタク気取って語っちゃって」
そこまで述べると、石神井はスマホでツイッターをスクロールしながらこんなふうに続ける。
「だってさ、ツイッターとかで流れてくるマンガめっちゃリツイートしてるけど、有名なマンガは全然読んでない、けどオタクぶってるみたいな人ってたくさんいるワケだし」
「……」
「俺は思うよ。その人がオタクって自称してるならそれでいいじゃんって」
「……石神井くん。君はなにを言っているのかな?」
「えっと」
俺のただならぬ気配を感じ取ったのか、石神井が神妙な面持ちになる。
「石神井くん、ちょっと今から4時間目終わるまで廊下に立ってなさい」
「えっとここ学校じゃないし、なんなら放課後なんだけどな……」
「石神井、自分が今なにを言ったかわかってるか」
「わかんないけど、とりあえず反省の意を表して立とう」
そして石神井が立ち上がる。結果、俺を見下ろす形になった。
「ちょっと待て。なんで俺が見下ろされている」
「いや、立ったからだよ」
そして、石神井は困ったような、それでいてどこか喜びを感じさせる顔で正座で座る。
俺も姿勢を正し、説教再開。
「石神井は今、俺にとって許せないことを言った。なにかわかるか?」
「あー、たぶんツイッターのくだり? ごめん、今は若宮の話であって、関係ない人を貶めるのは……」
「違うっ! そこじゃない! 俺は『天使なんかじゃない』も『ご近所物語』も読んでるからっ!!!」
「なるほどそっちか」
石神井は吉本新喜劇ばりにずっこける。が、俺にとってはここは反論せざるを得ないポイントだった。
「当たり前だ。『NANA』とか『天使なんかじゃない』とか『ご近所物語』とか『パラキス』は当然読んでる。まだ読めてないのは『下弦の月』とか『マリンブルーの風に抱かれて』とかその辺だ」
「ごめん、よくわかんないけど、本当のファンはその辺も読んでるってことだな?」
「うむ」
コクンとうなずくと、石神井は一旦理解したような顔を見せるが、すぐにふたたび怪訝な表情をこちらに向ける。
「一言で言うと、そういう盲目性というかさ」
「恋をすると盲目になるって言うけど、盲目じゃないとオタクじゃない、みたいな?」
「俺の考えではね」
「……極端だな」
「そういう意味で、俺はオタクじゃないんだよ……」
「……極端だな」
哀愁のこもった声で、石神井は同じ言葉を繰り返す。
なんだかやんわり批判されている気持ちにならなくもないが、だからと言って意見を撤回するワケにはいかない。
「とにかくだ。俺なんかよりずっと詳しい人は、『な、なんでそこまで……?』ってレベルなんだよ。知識も、作品の見え方も、使うお金も」
「そっかそっか」
「究極的な話をすると、俺に足りないのは知識じゃない。いや、知識も足りないんだけど、決定的に欠けているのは……熱量なんだ」
「ジュール的な?」
「ああ。オタクとしてのジュールだ」
そう言うと、石神井がそっかそっかとうなずく。話を振ってきたくせに話題に飽きてしまったらしい。
「それで花火資料館なんだけど」
そして、話題は変わった。
○○○
こんなふうに、俺は『自分のことをオタクとは思えない病』に罹患している。
いくらコンテンツに触れても自分では「そこそこ」止まり、知識が乏しく、知っていることに対しても「浅い見方しかできてないのではないか」と思えてしまうのだ。
その点、アキバの彼女のように、特定のジャンルに猛烈に入れ込める人には憧れに似た感情を覚えてしまう。
実際、あの時間で彼女がどの程度の知識を持っているのかはわからなかったが、俺より確実に『オタク感』を出していたし、悲しいことにああいう存在はどんなジャンルにも必ずいるだろう。俺が彼らに勝てることは絶対にない……と思ってしまう。
なにを持って勝つなのかはわからないけど。
でも、なぜかそう思えてしまうのだ。
そして、そんなふうに浅く薄い知識しかないからこそ、俺の話に独自性は一切ないし、深くもないと思っている。
……もっとも。
今ではこんなふうに考えている俺も『中2の冬』……つまり『3年前のあの日』まではまったくそうではなかったし、むしろ自分は人並み以上にはオタクで、コンテンツに詳しいと思っていた。熱量も、愛情もあるほうだと思っていた。
だけど、そうじゃなかった。
その結果、俺は……
『好き』
という感情が、どういうものなのかわからなくなってしまったのだった。
これは俺のような文化系人間にとって、ある意味アイデンティティを失ってしまったかのような、そんな出来事だったのだ。