48 絵里子との朝2
「あれ、おかしいな……」
これは重大事件だ。なんと、炊飯器が妙に静かなのだ。
近づいて確認してみると、コンセントは入っていて予約もできていたのに、動いていない。確認のため、スイッチを色々と押してみるが、どこに触れても炊飯器はうんともすんとも言わず。いつまで経っても行儀良いままである。
すると、顔を洗ってきたらしい絵里子が横にやって来て、のぞき込む。
「あー、もしかして故障?」
「なんか動いてなくて」
「故障だね」
「そう、かも」
「もう10年近く使ってたもんねえ」
おつかれさま、と絵里子が炊飯器をなでなでする。たしかに俺が小学生のときに使い始めたから、炊飯器としてはかなり長生きしたほうだろう。
「仕方ない。今日はご飯なしにするか」
すると、絵里子が頬を膨らませながら、視線でクレームを入れる。
「えー、ご飯がないとか嫌だー!」
「仕方ないだろ」
「ご飯ないとお腹すいちゃうー」
「さっき朝はパンとか言ってただろ」
すると、絵里子はなにか思い出したような表情になり、にやりと笑う。
「ね、そうちゃん。あそこ行こうよ」
嬉しそうな表情で両手をグッと握りしめて言う絵里子を見て、俺はそれがどこを指しているか理解する。
「あー……なら行くか。朝食は夜食べるってことで」
○○○
そんなふうにして、家を出て20分後。
俺たちは高校の最寄り駅の近くにある、鏡張りのオシャレな外観のパン屋に入った。
人口のわりに個人経営のパン屋が少ないこの辺りだが、ここは朝7時から開店しているうえ、カフェスペースもあり、近隣住民たちの貴重な朝食処となっている。
また、全粒粉や玄米等の体に優しい素材を使用したパンも魅力的。バターは最近流行りのグレフェッドバターで、野菜も有機栽培のものを使用。隠し味として一部のパンに使われているオリーブオイルは当然エクストラバージンだったりと、とにかく体に優しい店なのだ。
その分、お値段も割高で財布には優しくなく、塩パンとかでも平気で200円とかするので素朴な見た目に最初は騙されるのだが、チェーン店の多いこの界隈では貴重な存在のお店であり、健康意識や美容意識の高い層からの支持は厚い。
基本は朝は家で食べる俺と絵里子だが、そんな魅力からたまにここを訪れていた。
だいたいは絵里子が思い出したように「そうちゃーん! そろそろお母さん、パンモーニングしたーい!」と言い出す、というパターンなのだが、体に優しい食事は俺も大好きなので、毎回まんざらでもない感じである。あと、引きこもりがちな絵里子を軽い散歩に連れて行けるしな。
「ねー、そうちゃん! 今日はどれ食べる~?」
香ばしいニオイに鼻腔を刺激されながら、俺は朝からパンをウキウキウォッチングしている母親と一緒にパンを選んでいた。
と言いつつ、選ぶのはいつも同じなのだが。
「ん、いつもの」
「いつものって、またピザトースト?」
「あぁ」
俺が中学の頃から、ここのパン屋で頼むものはいつも同じと決めている。ピザトースト(トマト)だ。
ピザって高いし、栄養バランス的にも脂質糖質塩分過多なので普段食べないのだけど、ここのはそれらが控えめで、ついつい食べてしまうのだ。
だが、絵里子はそんな俺の姿勢をあまり良しとしていない。
「そうちゃん、こういうときに食べたことないもの食べてないと、つまんない男になっちゃうよ? 人生は挑戦の連続でしょ?」
「朝メシで人生が決まるわけないだろ」
「は、決まるよ?」
「そうやって日常のささいな出来事を壮大な人生に絡める考え方、嫌いなんだ。そういう思考のやつって、嫌なことがあるとすぐ『明けない夜はない』とか言うだろ。いやいや、逆に『暮れない昼もない』って感じだし、そもそも夜を悪いみたいに言ってることが思考停止だろ」
「は、朝メシで人生決まるよ?」
「なんで同じこと繰り返してんだ。俺の話聞いてたか?」
「は、朝メシで人生決まるよ?」
「壊れたロボットか……あと息子に対する口調、本当にそれでいいのか?」
まったく、家に引きこもっている人間には言われたくない言葉の数々である。
しかし、引きこもっているからこその説得力があるのも事実で、俺は若干困りつつ返答していく。すると、絵里子はどこかで聞きかじってきた言葉を続ける。
「でもほら、なんとかの道もなんとかからって言うじゃん」
「千里の道も一歩から?」
「そう。この前さ、ゴミ屋敷のネットニュース読んだんだけど、その家で一番多く見つかったものって何だったかわかる?」
「ゴミだろ」
「近所のピザ屋のチラシで、家のなかに300枚以上あったんだって」
「それさっきまでの話とどう関係あんの?」
「ゴミ屋敷もチラシ1枚から始まるように千里の道も一歩から始まるし、今日新しいパンを選ばなかった怠慢が積もり積もってそうちゃんをつまんない男に変えちゃうってこと」
「そういうことね」
「怠慢ってのは、近所のピザ屋のチラシのようなもので、気づいた瞬間に捨てないとどんどんたまっていくワケですよ」
俺がピザばっか手に取るゆえ、絵里子はそんな話をしたらしい。
でも、近所のピザ屋がやけにチラシを入れてくるのはよくわかる。うちの近所にはチェーンが2店あるから、チラシも倍。店頭まで取りに行けば半額って書いてあるんだけど、気づけばそのキャンペーンが終わってて、「2枚目から半額」とかになってたりするんだよな。どうせなら1枚目から半額にしろよ。
とはいえ、べつに人気者でも人前に立つ人間でもない以上、俺がつまんない男を脱するのは、なかなか難しい気がぬぐえない。
「でも俺、どうせもとから面白くないし」
「男の魅力は面白さだけじゃないでしょー」
「面白くないことはべつに否定しないんだな……」
俺が若干いじけつつ言うと、絵里子は俺に向かってトングを突きつける。
「優しさ、真面目さ、頭の良さ、料理上手、家事洗濯ぜんぶできる! そうたろう、君はいい男だ! いつでも嫁に行ける!」
「いい男、って言った2秒後に嫁認定かよ……」
どうやら、このパン屋に来たのが相当嬉しくてテンションが上がっているらしい。
しかし、朝のパン屋というシチュエーションで謎のエールを送られ、しかも相手は母親ということで、俺は非常に恥ずかしかった。
当たり前だが、周りのお客も「変な親子がいる……」という目でこっちを見ている。
「ありがとう、でもとりあえず静かにしよう。な?」
しかし、絵里子は俺の声が聞こえないのか、そのまま楽しそうに喋り続ける。
「まあお母さん、お父さん以外と付きあったことないから、男の魅力なんてわかんないんだけどねっ!」
恥ずかしいエールが来たと思ったら、その数秒後に恥ずかしい告白である。なぜ、朝のパン屋で、俺は母親の交際人数を知らなくてはいけないのか。
「あのなあ、もうちょっと場所を考えてさ」
しかし、ふっと前を見ると、絵里子はすでにレジに並んでいた。そのトレーには、ピザとかハムチーズとかタルトとか季節限定の新商品とか、比較的大きく、そしてお値段も高いパンが5~6個ほど載っていた。
「やれやれ、手も金もかかる母親だな……」
ここに来ると、テンション上がってたくさん買うから、支出を抑えるために俺が控えめってるんだろ。親の心子知らずならぬ、子の心親知らずだわ。
「……まあでも。食欲あるのはいいことだよな」
そうつぶやくと、俺はトレイに置いてあったピザトースト(トマト)を元に戻し、隣にあったピザトースト(てりやきチキン)を取り、楽しそうな後ろ姿のもとへと歩いて行ったのだった。