40 まさかの転校生1
校門に達すると、俺と中野はどちらから言うこともなく、自然に歩くスピードを変えて距離を作った。
中野が先を歩き、俺はわざとゆっくり歩いて遅れて行く。ふたりの間の距離は1メートルから5メートル、10メートルと広がり……そして他の生徒の中に紛れて、中野の姿は見えなくなった。
ゆっくり上履きに履き替え、おじいさんと間違うようなスピードで多くの生徒に抜かれながら階段をのぼると、俺は教室に入った。自分の席につくと、隣には数分前に到着したはずの中野がすでに座っており、いつものように教科書に目を通している。
その姿は清楚で静寂で洗練されている。GW明けの賑やかな空気のなかで、彼女だけがすべての音がシャットアウトされた幻想世界にいるかのような、そんな雰囲気を身にまとっていた。
それから十数分後、チャイムが鳴り、野方先生が教室に入ってきた。ちなみにだけど石神井はまだ教室にいない。GW明けだし寝坊しないようにって昨日メッセしたんだけどな。
なんてことはさておき野方先生である。今となってはもはや見慣れつつある、どこか自信なさげな笑顔で言った。
「はい、ホームルーム始めます」
しかし、GW明けでテンションが上がっている生徒たちにその声は届かなかったようで、ざわめきは収まらない。というか、野方先生が入ってきたことにまったく気付いていない人もいるようで、黒板に背中を向けて座っている生徒の姿もあった。
「えっと、あの、みんな……」
その結果、野方先生はわかりやすく困ったような表情になった。
静かになるのを待てばいいのか、それとももっと大きな声で言えばいいのか……と、自分でもわからずにいる感じ。まるで教育実習中の大学生のようだが、これで教師歴7年目とかなのだから逆にスゴい。
と、そんなふうに不安ゆえ辺りを見渡していたせいで、俺は野方先生とばっと目が合った。そしてその瞬間、野方先生の視線がすがるようなものに変わる。
「……」
「えっ」
「……」
無言で俺を見続けてくる野方先生。
最初から先生の話を聞いていた、ごく一部の真面目な数人の生徒が事情を飲み込めず、俺のほうを「え、なに?」「なんであいつなの?」「仲良かったっけ?」「てかあんなやついたっけ?」という顔で見てくる。
仕方ないので、俺はなんとなくうなずくことにした。大丈夫、先生ならきっとやれます……と、取り繕った笑顔を浮かべ、心の中でエールを送る。
すると、野方先生は応えるようにコクりうなずき、口を開くと……
「はい、ホームルーム始めます」
なにを思ったのか、さっきと同じ言葉を繰り返したのだ。しかも、自信に満ちた満面の笑みで。
違う先生、俺はそういう後押しをしたワケじゃない……方向性を明らかに誤ったサイコパスなやり方に、俺をはじめ、最初から真面目に聞いていた生徒数人が相次いで動揺する。
「はい、ホームルーム始めます」
しかし、野方先生は止まらず、また同じ言葉を繰り返す。さっきより聞いてる生徒が2人増えた。
「はい、ホームルーム始めます」
今度は3人増えた。しかし、このままだとあと10回くらい言う必要がある。
「はい、ホームルーム始めます」
壊れたロボットのように、5秒おきに繰り返す野方先生。
「はい、ホームルーム始めます」
ちゃんと聞いている生徒的に、同じ文言を機械的に繰り返す彼の様子は、はもはやホラーでしかなく、顔を青ざめさせている人もいる。
「はい、ホームルーム始めます」
その台詞が放たれるたびに、教室が異様な空気に包まれていく。
しかし、声が小さいせいか、後ろのほうにいる生徒たちはそれでも気付かないまま、ダラダラとお喋りを続けていた。
真面目な一部の生徒はなんとかして黙らせようとあたふたするが、しかし5秒ごとに壊れたロボットが声を発するので、そのたびに前を向いてしまう。
すると、野方先生は諦めたような顔になり、すうっと息を深く吸い込むと、今までに聞いたことのないようなはっきりとした声でこう言い放った。
「転校生がこのクラスに来ました」
その瞬間、ウソのようにクラスが静かになった。もちろん、その知らせに俺が驚いたのも言うまでもない。
え。てか、どういう流れなのこれ。謎すぎるだろ。野方先生、やっぱちょっと変な人だ……。
そしてその数秒後、転校生が来たとき特有の、あの妙な高揚感が教室中を包み、ふたたびザワザワし始める。
「え、転校生?」
「マジかよ」
「この時期に?」
「女子かな男子かな」
転校生という言葉の威力は学生にとって絶大なようで、毎秒ごとに教室の空気が温度を上げていくのが肌でわかる。高校生になっても、転校生にはみんな弱いのだ。
今やこのクラスで先生のことを見ていないのは、俺の隣で自習を続けている中野だけだった。おいおい、自分がなにげに一番野方先生に恩義あるはずだろ……。
俺が苦い顔をしていたことはさておき、野方先生はドアのほうを見て言った。
「どうぞ、入ってきてください」
先生のかけ声を待っていたかのように、勢いよくドアが開く。
そして入ってきた女子の顔を見て、俺は体中の血の気が引くのを感じた……。
「お、おい中野……」
俺は小さな声で呼びかけるが、教科書に集中している中野は反応しない。
「中野、ちょっと」
先ほどより少し大きめの声で話しかけると、中野はイラッとした表情でこっちを見て、目でこう告げる。
『なに教室で話しかけているのかしら。もしかして、殺されたい』
先のとがったボールペンを指先で器用にくるくる回し、ナイフで切るような仕草を見せる中野。俺は冷や汗を隠せないまま小声で伝え続ける。
「今そんなこと言ってる場合じゃない。俺たちのことなんかみんな気にしてないし……」
そのとき、教室で俺たちのほうを見ている人はいなかった。みな、転校生の存在感に目を奪われていたからだ。
すると、中野の顔に「?」が浮かんだので、俺は黒板のほうをそっと指さしながら、小さな声で付け加えた。
「前、前を見るんだ……」
壇上では、すでに転校生の女子がこちらに背中を向け、野方先生からチョークを受け取り、黒板に名前を書いていた。
平均身長を少し下回る感じの小柄で細身な、しかしそれでいて出るところの出た女の子らしい体型に、特徴的な赤茶色の髪……。
その女子は名前を書き終わると、振り返って大きな声で自己紹介した。
「はじめまして! 高いお寺に円と書いて、高寺円です! 熊本県出身で、東京から引っ越してきました!」
見慣れた笑顔、聞き慣れた高くて大きな声。間違いない、そこにいたのは紛れもなく高寺本人だった。
○○○
黒縁眼鏡の奥で、もともと大きな瞳をさらに大きくして高寺の姿を確認した中野は、瞬時に体勢を低くした。前の生徒の体に隠れようとしているのだろう。机に頬をつけ、息を殺して存在を消そうとしている姿は、マジで特殊部隊の隊員っぽい。
そして、首の角度をじわりじわり回転させると、ひきつった顔で俺のほうを向く。
『ど、どういうこと……』
中野は口の動きでそう言ったが、俺にわかるはずがない。逆に中野に聞きたいくらいなのだ。
そして、そんなふうに藁をもすがる感じで俺にすがろうとしている姿を見て、俺は中野もこの件を知らなかったことも把握した。
「美祐子氏から聞いてなかったのか?」
相手に合わせるように、体勢を低くしながら小声で、というかもはや口の形でそう伝えると、中野が珍しく動揺した表情で顔を大きくぶんぶんと上下させる。
「……え、じゃああの秘密は知ってるのか?」
今回、声優業界ネタはなしです。
取材したのに使えてない小ネタは色々あるんで、もし声優志望者の方で読んでくださってる方いれば質問とかしてください。わかれば答えますし、わからなかったら取材で知り合った声優さんに聞きますので。笑