31 貞操の危機2
高田馬場駅から徒歩数分のところにある本屋にて、俺はあと数分の命を迎えようとしていた。
とか言うと大げさなんだけど、でも気分的には結構本気。そう思えるくらい、中野の目は怜悧で鋭利だった。
「中野、話せばわかるから、な?」
「話せばわかる……かつてそう言った総理大臣はその場で殺されたわ。つまり、あなたは私に殺されたいと言っているのかしら」
そう語る中野の目には、はっきりとした殺意が浮かんでいる。
「いやそういう意味ではなく」
「違うのね。わかったわ、殺されのは嫌、つまり自害したいということね。手間が省けていいわ」
「いやそういう意味でもなく」
「幸い、この書店には文房具売り場もある……切腹するにはカッターって少し心許ないけど、でも仕方ないわよね」
そんなことを言いながら、中野は視線で少し離れたところにある文房具売り場を示していた。
が、顔が横に向いたことで正面を向いた口の端が、少しばかり上がっていることに俺は気付く。その角度はひどく嗜虐的で、そのすぐうえにある白く柔らかそうな頬とは対照的で……なるほど、この子は実際に不快に感じているというより、俺をイジメて楽しんでいるだけかもしれない。
そうだとすると、少しは安心なのだけど。
でもそうだとしても、それに気付いたところで反論の余地も弁解の余地も残されてはいないのも事実なのだけど。
「私の写真を見ているときのあなたの顔……控えめに言ってすごく気持ち悪かったわ」
「だからその『控えめに言って』って日本語の使い方はおかしいと何度言えば」
「気持ち悪い、ってとこは否定しないのね」
「……」
思わぬツッコミに黙ってしまうが、そこは自分でも認めざるを得ないところ。だって、エロスは見られる側じゃなく見る側に宿るとか、哲学めいた思考に一瞬突入しちゃってたもんな。
すると、彼女の唇の端が、またしても嗜虐的な角度を形成する。
「あなたの下卑た視線には、貞操の危機を感じざるを得なかったわ。これを機に、アコムに入ろうかしら」
そう言うと、中野は両手を体の前で組んで、その控えめな胸を守ろうとする。
誰がそんな控えめなお胸を……などと、一瞬ラノベにありがちなツッコミが脳内に浮かぶが、俺がそんなこと言える分際ではないのは自覚しているし、今のご時世そういうツッコミが好ましいとは思えないし、そしてなによりここからが大事だが「きっと自分は控えめなお胸も好きに違いない」という気持ちもあったりもして……ってだから俺は一体なにを言っているんだ。
なにを言えばいいのかわからなくなったので、普通にツッコミを入れることにする。
「……それを言うならセコムだろ。自称清純派声優ならサラ金の名前言わないほうがいいんじゃないか?」
「自称じゃないわ。他称よ」
「他称清純派声優ってなんだよ。自分は自分のこと清純だと思ってないみたいで、闇の深さ感じるぞ」
「とにかく」
中野はコホンと咳をすると、言い間違いへの訂正を制止して言葉を続ける。
「これでわかったわ。あなたは親切で勉強のできる一方、クラスメートの写真を見て鼻の下を伸ばす、どうしようもない変態くんだってことがね」
「ど、ど、ど変態だと……」
ダメだ、なにを言っても冷たく返される……青年将校に囲まれた犬養毅は当時こんな気持ちだったんだろうか。親切とか勉強ができるとか、さりげにちょっと褒められてた気もするけど、そんなことは入ってこないくらいテンパってしまう。
「もしかしてあなた、私の写真を見て……」
そして、またしても中野の試すような嗜虐的な視線を俺に向ける。
「興奮してた?」
「ちがっ……ほ、本屋でなにをっ!」
俺が否定しようとすると、後ろから声が聞こえてきた。
「おいおいひより。からかうのはそれくらいにしておきな」
声のした方向を向くと、美祐子氏と高寺が歩いて来ていた。
高寺は俺を見て両手を上にあげて盛大に手を振っており、その姿ははっきり言って本屋では異質だった。
ふたりの姿を見て、中野が言う。
「美祐子、11時には駅に戻るってLINEしたでしょ……まさか、この性欲スゴ太郎くんも一緒に行くのかしら」
「あだ名のセンス壊滅的だな。今さら気付いたのか」
「今さら……たしかに」
中野は俺の言葉に納得しつつ、美祐子氏になじるような視線を送る。
「そうだ。スゴた……若宮くんは私が誘った」
「今言い間違えそうになりましたよね」
「どうして」
中野が俺を無視しつつ、美祐子氏に尋ねる。
「彼にはお世話になってるからな。日頃の感謝を込めて我々の仕事について知ってもらうのは悪いことではないだろう。あと、円は付き添いだ。声優としての振る舞い方を勉強してもらうには、マネージャーが教えるより先輩声優につけたほうがいいからな」
「なるほど……」
そして、中野は押し黙ると、高寺に視線を向ける。まるで頭のなかで、様々な事柄を天秤にかけているかのようだった。
そこに最後の重しを載せるかのように、美祐子氏が言う。
「な、いいだろひより」
「そうね……納得はしていないけど、仕方はないかしら」
中野がそう言うと、高寺が小声で耳打ちする。
「若ちゃん、良かった。ありがとね」
「お、おう……」
あまりにも自然に近くに寄って来たせいで、俺は内心ちょっとドキマギする。もちろん、そこで反応を見せるワケにはいかないので、こらえたのだが……だが、なぜか中野が眉をピクッと動かした。
「若ちゃん……?」
眉間にほんの少しシワが寄っており、明らかに不機嫌そうで……おかしい。あだ名呼びされたのは俺なのに。
「若宮くん、随分と高寺さんと仲良しになったようね」
「えーっと、だな……」
「ご、ごめん! いやその、これはその、あたしが勝手に呼んでるだけで、公認の若ちゃんじゃないと言うか……」
「へえ」
高寺が口を挟むが、中野は相変わらず冷ややかな視線をこちらに向ける。あだ名呼びがよほどイヤで、俺へのあだ名呼びも苛立ち要素なのだろうか。
「積もる話は電車のなかで。そろそろ行こうか」
すると、事態を察した美祐子氏が3人の間に割って入る。が、彼女の言葉にはまだ続きがあった。
「……と言いたいところなんだが、じつはトラブルで私は行けなくなってしまってな」
「えっ」
「えーっ!!?」
俺と高寺が驚きの声をあげる。が、中野はなにも反応しない。
「私の担当している声優のひとりがラジオの収録日を間違えて、盛大に寝坊してしまったらしくてな。慣れた現場だから私は最近行ってなかったんだが、こうなるとさすがに行かないといけず……ということでひより、申し訳ないが3人で行ってもらえないか?」
「私はいいわよ」
中野はなにも動じていないような、落ち着いた顔で告げる。
こういうトラブルは、結構よくあることなのだろうか。
「そもそもひとりでも行けるからね」
「まあ、そこは後輩に勉強させてやってくれよ」
その言葉を聞き、高寺がうんうんと大きくうなずく。
「じゃあ頼んだぞ。若宮くんもよろしくな」
美祐子氏はそう言うと、振り向くことなく、スタスタと本屋から去って行った。
その姿が見えなくなると、中野が俺と高寺のほうを向いた。
「一緒について来るのは構わないけど、ひとつ約束してもらえるかしら?」
「なにかな」
高寺が反応する。
「今日はあくまで仕事の一貫。遊び気分ならすぐに帰ってもらうから」
「わかった」
高寺がうなずきつつそう言う。俺も心のなかでうなずく。
それを確認すると、中野は歩き始め……たかと思いきやすぐに立ち止まる。
「それとくれぐれも失礼はないように。大事なお仕事をくださってる方々だから」
「わ、わかった」
そして高寺がそう言うと、中野はスタスタと歩き始めた。今度は止まらず、エスカーレーターの方向へ消えていく。
すると、高寺が小声で耳打ちした。
「今ふたつ言ったよね……? もしかして、ひよりんりんって天然?」
「……高寺。もしかして、結構鋭かったりする?」
「あー、当たりなんだ……」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
余談です。
1個前のあとがきで「売れてる人はインタビューで、キラーフレーズを言ってくれる」的なことを書きましたが、逆に言えばインタビューを受け慣れてないタレントさんなどは、長い時間をかけても身のあるコメントがもらえない場合があります。
たとえば好きな映画を尋ねた際に、作品名をあげつつ「衝撃を受けました」と言うタレントがいるんですが、じつはこれってコメントになってないんです。「どんなふうに衝撃を受けて、自分はどう変わったのか?」みたいな、具体性のあるコメントが欲しいんですよ。
だからライターは聞き方を変えて同じ質問をしたりするんですが、意図が通じず、「だからさっきから言ってるのに」的な対応を取られる場合も少なくないです。
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