166 小旅行2
そんなふうに会話や、車窓から見える風景を楽しんで過ごすこと数十分。駅の売店で購入したペットボトルのお茶を飲もうとすると、すでになくなっていることに気づいた。
目的駅に到着するまでしばらく時間がかかる……ということで、車両内にある売店へと向かうことにする。長距離列車内での車内販売は珍しくないが、この列車にも売店があるのだ。
5両目へと到着すると、そこは横長のカウンター式の売店だった。コーヒーやお茶などを入れたポットのほか、俺は飲めないがビールサーバーもある。また、カウンターの向かい側には同じ高さの台があって、そこにはおにぎりやお菓子、ちょっとしたお弁当なんかが置かれている。
もっとも、お弁当まで買うつもりはないので、俺はお茶のペットボトルだけ買おう……と思ったら、レジ待ちしている女子の後ろ姿に見覚えがあった。俺はどうも、レジで彼女とよく遭遇する運命らしい。
気配に気づいたのか、中野は振り返って俺の姿を確認すると、さほど驚いた様子もなく、こう述べる。
「どうしてか、ここであなたと会う気がしていたわ」
「奇遇だな。俺もだよ」
「え……」
「いやなんで引いてんだよ。そっちから言い出したことだろ」
「まあそれは冗談としてお茶買うの? 買うならご馳走するけど」
先客がレジを去って中野の番になると、彼女は黙って俺のほうに手を伸ばした。
「え、なんで」
「なんで? あなたにはお世話になってるからだけど?」
反射的に出た俺の質問に対し、中野も反射的に返してきた。
「買うの? それとも自分で買うの?」
「えっと」
中野は俺の持ったペットボトルにすでに手をかけており、俺が離せばすでに彼女の手に渡る状態だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
急かされるようにして、俺は邪魔にならないように車両の隅っこにある飲食コーナーへと移った。そこには背の高い丸テーブルが置かれており、立ったまま、飲食できるようになっている。会計を済ませた中野がやって来て、レジ袋からお茶を俺の前に置く。
「……なんかすまんな」
「気にしないで。水族館に行ったとき、琴葉に飲み物買ってくれたんでしょう?」
「ああ、そういうことか」
「4本買ってもらったって言ってたから、今全部買って渡してもいいのだけど」
「いや邪魔だわ」
「だから、分割払いでどうかなって」
「そんなこと気にしなくてもいいんだけどな」
と言いつつ、義理堅い彼女が気にしなくなることはないよな、とも思う。
そんなふうにして俺たちの会話が始まったワケだが、俺が気になっているのはさっき、中野が高寺に見せた反応だった。
「で、正直どうなんだ。良かったのか?」
「なんのこと?」
「例の声優さんが一緒だったこと」
「ええ。どうせ若宮くんも何枚か噛んでるんでしょうけど、気にしないで頂戴」
中野は事も無げに言う。その姿は堂々としており格好良いが、一方で彼女らしくない反応だとも思えた。
「……なんか、妙に前向きだな」
「前向き?」
そこで、それまでスンとしたままだった、中野の表情が少し変わる。
「今までの中野なら話したことない人が一緒に旅行に行くと知ったら、すぐに帰りそうというか。人間関係を広げようって意思がなかっただろ?」
「……そういうことね」
「それにその子はずっとライバル視してた人だし。彼女がいなければ、もっと役取れるんだろ?」
「それはそうだろうけど、まあ今日は琴葉もいるし」
「だとしても、諦めるのがはやいというか」
「人間関係を広げようなんてべつに思ってないわ。ただ初対面の同業者と1日半一緒に過ごす苦痛と妹の笑顔なら、私は迷わず後者を選ぶというだけで……少し自分語りをしてもいいかしら」
「もちろん」
俺が納得できない顔をしていたのだろうか。中野は小さくため息をつくと、片手でペットボトルを持ったまま、もう片方の手を後ろの窓の際に置き、もたれかかるような体勢になった。話が長くなることを暗示しているかのようであると同時に、山々を背後にしたアングルのせいで、妙に様になっていた。
そして、中野は口を開く。
「何度か軽く話したと思うけど、私は中学のときの人間関係で色々あってさ。簡単に言えば人嫌いになっちゃったのね。他の人に興味が持てないって。でも、それって役者としては致命的な欠陥なの。だって自分以外の人を演じるお仕事なのに、自分以外の人に興味を持てないなんてダメでしょ?」
中野の言葉に、俺は黙ってうなずく。彼女の言わんとすることはよくわかった。俺なりにわかりやすいように言うと、きっと多くの人の心を動かす小説家が「他人の感情なんかどうでもいい」……とか言うのと同じ感じなのだろう。
「それでもお仕事はなんとか上手くいってたけど、正直自分でもこの先大丈夫かなってここ1年くらい悩んでて。自分にはもう糊しろがないんじゃないかって」
「……」
「若宮くん、『いやそれを言うなら伸びしろだろ』ってツッコんでくれなきゃ」
「わざとかよ。いや、真面目なトーンだったから止めないほうがいいかなって」
改めてツッコミし直すと、中野は満足げに笑う。
「昔からずっとお世話になってる、とある尊敬する先輩に言われてることでね。『いい役者になるには、いい人間になりなさい』というのがあって
「いい人間」
「ずっと意味がわからなかったんだけど、哲学堂先生とお話してなんとなくストンと腑に落ちたというか。きっとその人は私に『もっと自分以外の人に興味を持ちなさい。そして、それを包み込めるような器の大きな人間になりなさい』って伝えようとしたと思うの」
「どういうことだ?」
「役者って他の人間になれる仕事でしょ? それは駆け出しの役者でもわかることだし、すべての役者が一度は味わう楽しさでもある。でも実際のところ、違う人間の感情をちゃんと想像することができなければ、本当の意味でその人になることなんかできないのよね。別の人間になってるって自分で思い込んでるだけで」
「たしかに」
「だからこそ色んな人と接して、その人がなにを考えているのか知るのが大事なのかなって。昔の私なら私に嫌がらせをしてきた人たちを『くだらない俗物』ってただシャットアウトしてただけかもしれないけど、今なら『どうしてこの人たちはこんなにくだらない人間になったんだろう?』って想像しようと思えるというか」
「俗物なのは変わらないんだな。まあそうだよな」
「なにを思って、なにに悩んで、どんな信念があって、許せないことはこれこれで……みたいにさ。そうやって自分以外の人のことを知っていくのって、これからの私にとって大事なのかなって」
「それが声優・鷺ノ宮ひよりのさらなる成長につながると」
中野はコクンとうなずく。
「だからと言って高校で交流を持つつもりもないけどね」
「そうなんだ」
「私は器用ではないから興味を持つ対象を増やすとパンクするわ」
「だから身近なところから、と」
「そう。桃井さんは同業者だし、私も彼女のことが気になってたから。仲良くなれるのであれば仲良くなりたいかなって。そう思えるのよ、今は」
静かに淡々と、それでいてどこか遠くを見据えながら話す中野はとても大人びて見えた。 哲学堂先生と話したあの日。
俺は自分のなかで大きな変化が起きるのを感じた。それは「知らないことを恥じない」とか「知ることを楽しむ」という変化だ。今までの俺は自分の知識が乏しいのではないかと常に不安に思い、知らない作品があれば知らないという状態を脱するためだけに手を出していた。
そのくせというか、それゆえというか、なにか特定のものに勇気を出して「好き」と言うことができなくなっていた。
そんなだからこそ、哲学堂先生のポジティブなメッセージは俺の胸に突き刺さったのだ。彼は人生の中間地点をとうに過ぎているにも関わらず、俺なんか比べものにならないほど知ることに意欲的で、よっぽど若々しかった。
そして、その姿を俺はとても格好良いと思い、日を追うごとに「あんなふうになりたい」と思うようになっていた。だからこそ、今できることとして哲学堂作品を読破することを思い立ったのだ。先生のことをより深く知るために。
しかし、である。
先生のメッセージは形を変えて、中野にも深く突き刺さっていたのだ。声優として生きていくことを決めている彼女にも届くような普遍性を、先生の言葉は持っていたのだ。
「ただただ、いい役者になりたいの」
そんなことを、中野はつぶやく。
「いい役者って料理人と同じでさ、本当にうまい人ってどうしてうまいのか説明しにくいのよ。笑えるんだけど切ない気持ちにさせられたり、底抜けに明るい演技をしているはずなのにどこか影があるとか……味わいが複雑と言えばいいのかしら。色んな感情が芝居のなかに同居しているのね」
「難しいこと考えてんだな」
「そうしないと生きていけないからね」
中野はふっと笑う。
そうやって世界が広がったからこそ、中野はももたそをライバル視するのではなく、自分自身を高める存在として、一旦受け入れてみることにしたのだろう。
非常に大人な考え方だと思ったし、どちらかと言えば人間関係において、わりと排斥的だったこれまでの彼女には考えられない変化で、だからこそ胸に敬意が浮かんでくる。
……いや、それだとちょっと違うな。かなり違うか。だって俺、もともと中野に対して普通に敬意を抱いていたもんな。
十代でありながら、高いプロ意識を持って仕事に打ち込んでいること。
すでに十分スゴいのに、向上心が強いこと。
そして、俺が憧れている、モノ作りの世界に関わっているということ。
理由をあげると他にもまあ色々ありそうだが、とくに一番最後のはオタクの端くれとして、憧れにも似た気持ちを抱えてきたのだ。
だからこそ今回、こんなふうにまた敬意を抱くポイントが増えるのは嬉しかったのだが……それと同時に焦りを覚えてしまいそうでもあった。彼女が遠くに行ってしまうように思えて、ポツンと置いてけぼりになってしまうような感覚というか。
でも、そんなことを言うワケにもいかない。
「……気が合うといいな、ももたそと」
「そうね。私もそれを願ってるわ」
なので、当たり障りのない言葉になってしまうが、中野は疑わず、ニコリと受け入れる。その笑顔を見て、俺の心はチクンと痛んでしまう。
話すのを避けようとしたのか、顔が自然と窓の向こう側に向く。大きな車窓から見える景色は青い景色に変わっていた。どこまでも広がる海は、今俺がいる狭い車両内とは大きく異なっていて、太陽の光を反射して目をしっかり開くことも許してくれない。
手を目のうえに当て、日影を作って水平線の先を見ようとするが、残念ながらその端っこは、肉眼では見つけられなかった。