14 辣腕マネージャーは打診する2
どうして、中野のノートはあんなふうになっているのか。
授業が始まると、その答えはすぐに出た。結論から言うと、中野は遅刻や早退で板書できなかった箇所をそのままにしていたのだ。
つまり、板書を再開するのは、休んだ次の授業からということである。
しかし、勉強というのは日々の積み重ねであり、とくに教科書はそれまでの内容を踏まえた上で、少しずつ内容が難しくなっていくように作られている。だからある問題について理解ができていないと、その後に出てくるもっと難しい問題を解くのは、よほどセンスがない限り無理だ。
タブレットを授業で使う我が高校は、教師によってはプリントをそこ経由で配布する。なので、授業を欠席しても自分でダウンロードすることもできたりするのだが、レジスタンスと呼ばれる教師たちがいるのも、すでに述べたとおりだ。
彼らはプリント愛好家だから、板書を撮影してそれを欠席者向けにアップロードするなんて配慮もない。その理由は「紙で勉強するからこそ実力がつく」というものらしいが、実際は単純に「面倒」「アップロードができない」とかなんだろう。
(俺は授業受けてるから平気だけど、仕事で休まないといけない人は大変だろうな……)
そんなことを考えていると、俺は以前、絵里子と数学について話したことをふと思い出した。
生粋の私立文系だった絵里子は、中学生になって算数が数学に変わった時点でついていくのに必死になり、高校にあがると赤点スレスレがデフォルトになったという。
もちろんなんとか食らいつこうとしたが……ここで問題。その際、無情にもとどめを刺したのは何だったと思う?
数学のセンス?
進路を私大文系に決めたこと?
あるいは、その時の教師との相性?
残念ながらどれも違う。実際は……
――インフルエンザで学校を一週間休んだこと――
だったそうだ。
「たった一週間、たった3回授業を休んだだけなのに、この世の終わりかと思うくらい、ちんぷんかんぷんで何にもわからなくなってたの」
絵里子は笑いながらそう語っていたが、高校生だった当時はちっとも笑えなかったに違いない。
インフルエンザなんて、誰でもかかりうる病気だ。しかし、苦手科目があると、命取りになる。きちんと対策すればインフルエンザで死ぬことはあまりないが、学業的な意味で死ぬことは十分あるのだ。
○○○
「ひよりの、勉強のサポートをしてやってくれないか」
昨日、喫茶店で美祐子氏からそう言われたとき。
俺は一瞬、いや十瞬くらい言葉が出てこなかった。それほど突拍子もない発言に思えたのだ。
「……はい?」
聞き返すと、美祐子氏が明瞭な声で返答する。
「勉強の、サポートを、してほしい」
「いや、それは聞こえてますけど」
「そうか。てっきり私の発音が悪いのかと」
「むしろ滑舌すげーいいですよ」
そうかと言うと、美祐子氏はなぜか少し嬉しそうな顔になる。喜びポイントが謎だが、でも、拉致ってきたばかりの相手にお願い事をする人なのだから不思議でもない。
「サポートって、どういうことですか?」
「お、引き受けてくれるのか」
「違います。一応聞いておくだけです。なにも聞かずに断ると失礼なので」
しかし、俺の滑舌が悪くて聞き取れなかったのか、美祐子氏は「そうかそうか引き受けてくれるのか」とつぶやいている。
不安な気持ちになる俺をよそに、美祐子氏は打診の理由を話し始める。
「すでにひよりから少し聞いてると思うが、ひよりは声優を始めて今年で10年になる」
「中学のときにはすでに声優だったとは聞きましたけど、へえ10年も」
「もともと子役だから、それを含めると12年目かな?」
「干支一周ですか」
「私がこの業界に入ったのが10年前だから」
「ある意味先輩なんですね」
美祐子氏は肯定も否定もせず、意味ありげに微笑むと、すっと口を開く。
「声優業界は決して甘い世界ではなく、むしろそれだけ生き残るのは大変だ。とくに、子供の頃からずっとコンスタントに活躍しているのは本当にすごい。それは、ひとえにひよりの真面目さ、たゆまぬ努力のおかげなのだが……」
そこまで言うと、美祐子氏の表情が険しいもに変わる。
「高校生になってきてから、さすがに難しくなってきてな」
「それは……勉強ですか」
美祐子氏は、俺の問いかけにゆっくりとうなずく。
「もともと成績優秀なほうではあったんだが、演じられる役の幅が広がり、仕事が増えた結果、中学まではうまく両立できていた学業が重荷になってきているのだよ」
「たしかに、高校の授業は中学と比べるとレベルは高いっすね」
「君はたいそう成績がいいと野方くんから聞いていたが、そんな君でも思うか」
「……野方先生、そんなことまで言ってるんですね」
生徒の顔色を常にうかがってる感じで、冷や汗ばかりかいてるビビりな人って印象なのに、拉致工作に情報提供と、やってることは意外と大胆らしい。
そんな俺を見て、美祐子氏はふふふと悪い顔になる。
「証拠はあがってるんだぜ」
「刑事みたいな言い方やめてくださいよ。まあ一応、1年の時は通年の成績で学年1位だったんですけど」
「見えんな」
「即答はやめてください」
「……見えんな」
「いや、ちょっとタメて言ったからいいって話でもなく」
うまくからかえたと思ったのか、美祐子氏はにんまりと笑っている。
なるほど、学業と仕事の両立か。そんなふうに考えていると、俺も1年のときのことが頭のなかに浮かんでくる。
「でも、たしかに俺も、最初のほうは両立大変だったかもです」
「両立。ほう」
美祐子氏の目に「?」が浮かぶ。
「君は帰宅部だろう?」
「もう野方先生から聞いてるんですね。そうです」
「なのに両立ってのは何となんだ?」
「あ、いや、その……」
何の気なしに言ったので、ツッコまれると困った。まさか「学業と母親の世話の両立です」とは言えないしな……。
「まあ、なんつーか、家の手伝いというか」
「家業か?」
「いや、普通に手伝いなんですけど。事情があって、他の高校生に比べたら家事とか多めにやらないとなんです」
「家の事情か……なるほど」
美祐子氏はそこで追求をやめ、一瞬「んー」と口に出すと、さらになにかを考えたような表情になる。
「家の事情に、親、か。ますます似てるな……そうだとすると、余計都合がいいかもしれんな」
「えっ、何か言いましたか? 声小さくてよく聞き取れなかったんですけど」
「いやこっちの話だ」
なにか聞かれたくないことがあるのか、美祐子氏は軽く俺を睨み、目線で「それ以上聞くな」と示した。
○○○
それから1時間近く、美祐子氏は粘り強く、色んな言葉で説得を続けてきた。
「どうだろう? サポート、考えてもらえないだろうか」
「いや、だから俺、人に勉強を教えたことなんかないし、中野と話したのだって昨日が初めてだし」
いくらいろんなことに諦め慣れている俺でも、勉強を教えるとなると話は別。
しかも、相手は声優であることを隠して学校に来ている女子で、学業と仕事の両立に苦しんでいて……と思うと、さすがに荷が重いワケだが、美祐子氏は一向に折れてくれなかった。
「大丈夫。君は教え方もきっとうまい。私が保証する。保証書だってつけていい」
「そんなものに保証書はないですし、勝手につけるのもおかしいですっ!」
「ちなみに保証期限は3年だ」
「しかもまあまあ長いっ!」
「君は少なくとも野方くんよりは、私とまともな会話ができるからな。あの口下手で、まともな授業ができるとは思えないよ」
それは口下手なんじゃなく、あなたにビビってるだけでは……と思ったが、脱線するので言わないでおく。
「サポートって、具体的にどんなことをイメージしてる感じですか?」
「それも君に任せる」
「任せるって。なんて無責任な。なにも考えてないだけじゃないんですか」
唖然としていると、美祐子氏が急にさみしげな面持ちになる。
「無責任と言われればそうだろう。自分でも思う。だが、マネージャーにできることなんか所詮そんなものなんだよ」
一瞬また冗談なのかと思ったが、顔を見ると本気のようだ。打ちひしがれたように、急にシュンとした表情で、悔しそうに唇を噛んでいる。
「受け持っている声優が困っていても、サポートできることなんか一握り。結果、野方くんに頼って、今は君にも頼ろうとしている」
「俺、べつにそんなふうには」
「いや、そうなんだよ。我々は無力だ。とくに相手が学生だと、学校にいる間は放任を余儀なくされてしまう。この年になると勉強なんかわからなくなっているしな」
気がつけば、美祐子氏の目には、じわりと涙がたまっていた。
「それに、いくら仕事を持ってきているとはいえ、結局は声優個人の努力だ。ひよりはこれまでとてもよく頑張ってきた。でも、私がそれを支えてやれたかと聞かれると自信がないし、この先のことを考えると、もっと自信がない」
美祐子氏は自分をあざ笑うかのような顔を見せる。困ったな、こういうときなんて言えばいいんだろうか。
しかし、美祐子氏は俺の反応を待たず、その場に立つと……
「ひよりに力を貸してやってほしい。この通りだ」
テーブルの下に隠れてしまうほど、深く頭を下げた。
「ちょ、ちょっと……頭あげてください。ね?」
「お願いだ。彼女を、助けてやってほしい」
美祐子氏が頭をあげると、その瞳は濡れていた。見ていると、ツーっと、滴が頬を伝う。 クラスメートが隠れて声優をしていることを知り、その事務所に拉致されたあげく、勉強のサポートを頼まれる。
1行にまとめるには難しい情報量だが……自分より一回りくらい上の女性が頭を下げて、しかも涙まで流しているのを見て、俺は自分の気持ちが毎秒ごとに傾いていくのを感じていた。
でも仕方ない。人から頼まれたことを断れず、受け入れてしまう性格なのは今に始まったことじゃない。きっと、絵里子の子供として生まれた瞬間から、そういう運命だと決まっていたんだろう。
「わかりました……1学期。1学期の間だけですよ」
美祐子氏がはっと顔を上げる。
「本当か? 手伝ってやってくれるのか?」
「まあ、期間限定なら」
「そうか。良かった……」
美祐子氏はホッとした顔で言うと、カバンを持って立ち上がる。
「じゃ、そういうことで宜しくな」
そう述べる顔は、すでに晴れやかな笑顔になっていた。
「え、もう行くんですか?」
「? だってもう用件は済んだと?」
「いやそうですけど……」
そのとき、俺は彼女が手に握っているものに気付く。
「なんですかそれ」
「ああ、これは目薬だ。日本では珍しいんだが、スプレー式の目薬というものが海外にはあってな。さっきテーブルの下で使わせてもらったよ」
そう言うと、美祐子氏はウインクしながらスプレー式目薬を噴射してみせる。なるほど、たしかにこれを使えば、テーブルに突っ伏したフリして自然と嘘泣きを演じられそう、一般的な目薬だと上を向かないといけないけどこれなら……っておい。
「じゃ、そういうことでひよりのサポートはよろしくな」
「いやちょっと待ってくださいっ!」
しかし、当然のように美祐子氏は俺の呼びかけを無視して店を出て行った。
「……ってお会計もしてなくね?」




