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146 琴葉、家に来る3

 足の痛みから解放されて10分後には琴葉はひとり静かに参考書に向き合い始めていた。


 最初のうちこそ行儀良く床に座っていたが、30分もするとベッドに背中を預け、さらにもう30分もするとベッドのうえに寝転んで読み始めていた。きっと、あともう1時間もすればベッドに寝転がり、ポテチを食べ始めたりすることだろう。


 ひよ姉は決断から行動までが異様にはやいが、琴葉は尊大な態度になるまでがはやいのかもしれない。


 彼女の存在を背後に感じながら、俺は勉強机にて自分の勉強を進める。学校の宿題は夏休み最初の3日間でだいたい終わらせてしまったので、今やってるのは予備校の予習だ。始まるにはもう少し先だが、講習開始までに一通り終わらせておきたい。


 思いのほか、快適で自由な時間が流れていく。


 予備校用に新しくおろしたノートに、同じく新しくおろしたボールペンを使いながら、

斜め後ろを振り返ると……琴葉は、ベッドのうえでうつぶせの状態で参考書を読んでいた。左右の足が交互に動き、メトロノームのようにぽんぽんお尻を打っている。新しい教科書、参考書を手にし、喜びが爆発しているのだろう。まあ、本屋で立ち読みならぬ立ち暗記するほどだからな。


 しかし、彼女がぽんぽんとお尻を打つそのたびに、ワンピースの裾がふわっとめくれあがり、目のやり場に困る。


「でも琴葉さ」


 琴葉がこちらに顔を向けた。その顔には「なに?」と書かれているが、警戒の色はすでになくなっている。


「なんでそんなに勉強してるんだ?」

「琴葉って呼ぶな。勉強が好きなだけ」

「好きだとしてもまだ小6だろ? それで中学生の内容で、しかももう受験勉強に近い水準だし」


 琴葉の足が止まり、お尻をぽんぽんするのが終わった。


 パンツこそ見ないようにしていたが、俺は彼女が手に取った参考書がなにかはしっかりと確認していた。


 参考書はその人の成績を映す鏡である。高難易度のものを選べばそれなりに学力に自信がある証拠だし、純度の高いバカになると、自分に合った参考書をまず選べない。奇跡的に低学力向けの教材を引き当てることもあるが、その次に高難易度の問題集を手に取ったり、教科書・参考書の前に問題集を選んだりするのだ。


 その点、琴葉は自分に合った参考書を的確に選んでいる印象を受けた。


「それは……」


 俺の質問に対し、琴葉は明らかに答えに窮しているようだった。その反応で俺はさらに疑念を深める。


「いや、勉強熱心なのは全然いいことだけどさ。でも、小学校の勉強とさすがにかけ離れてるというか」 

「でも……校でなに勉強してるか……らないから」


 そこで、急に琴葉の声が小さくなった。絵里子のいないこの家の、とくに静かな俺の部屋で聞こえないのだから、たぶん2デシベルくらいしか出ていない。読唇術が日に日にうまくなっている俺だが、油断して口元を見ていなかった。


「えっ、ごめんなんて言った? 小学校がどうとか言った?」


 すると、琴葉の顔に緊張が走り、急に唇の端を噛む。


 そして、その挙動をしていたことを自分自身が遅れて気づいたのか、ハッとした顔を見せて、


「その話はもう終わりっ!!!」


 そう叫ぶと、琴葉は俺からぷいっと視線を逸らすと、参考書とふたたび睨み合い始めたのだった。   


「ごめん……」


 思わず謝罪の言葉を述べるが、琴葉の反応はない。


 彼女がなぜ怒ったのかはわからなかったが、どうやら学校関係でなにか問題を抱えているのは間違いないようだった。



   ○○○



「いいか琴葉。先に言っておくけど、俺の母親の絵里子はとにかくコミュ障だ」


 時刻は13時過ぎ。少し遅めの昼食として、作った海鮮焼きそばを食べさせながら、俺は食卓で琴葉と向き合っていた。


 最初、俺の手料理を毒物かのような目で見ていた琴葉だったが、一口食べると意外と口にあったのか、文句言わずにぱくぱく食べている。テーブルの下で左右の足が前後に動いており、表情ではわからないがどうやら機嫌も良い模様だ。まあでも、今日はエビとほたて使ったから美味くて当然だけどな。


 そんなことはさておき、会話の続きである。


「家の中ではお喋りでテンション高いんだが、人見知りで、家族以外の人と喋るのが得意じゃない」

「なるほろ」

「しかも掃除・洗濯・料理・子育て、全部苦手で、全部俺が代わりにやってきた」

「掃除・洗濯・料理はわかるとして、子育てって誰の?」

「誰のって俺のだ。俺は一人っ子だからな」

「……??」


 ごく自然なテンションで言ったつもりだったが、琴葉には理解できなかったようで、焼きそばを口から垂らしたまま首をかしげている。汚いけどかわいい、略して汚かわいい。うん、汚ギャルみたいだから略すのはよそう。


「父親も仕事が忙しくて、ここ数年は単身赴任だからな。俺はセルフ子育てだ」

「セルフ式子育て……若宮を若宮が育てるってこと?」

「そういうことだ」

「ほぅ……」

「俺が俺のために栄養バランスに富んだ料理を作ったり、身長の伸びを気にして毎日21時に寝たり、中学でスタートダッシュを切れるように食費を削って公文式始めてみたり、やってて良かったって思ったり、毎日20時になったら『そろそろお風呂入りなさいよ~わかった~』って一人二役したり、そういうのだ」

「シンプルに狂ってるね。頭おかしいの?」

「でも最近多いだろ、セルフ式。いきなりステーキだって注文は自分でしに行くし、おしゃれカフェでも最近は結構自分で取りに行くだろ。無印良品のカフェとか」

「あ、1回ひよ姉と行ったことあるけど内装かわいくて味も良かった……って、子育てをムジカフェと並べるなし」

「でも俺はそうやって育ったんだ。小学3年生のときには自分で飯作ってた。俺にとっちゃ自炊がおふくろの味だ」

「はいはい。お代わりしていい?」

「あ、いいぞどんどん食え」


 OKを返したものの、そのときにはすでに琴葉は席を立ち、台所のほうに回っていた。すでに絵里子の分の焼きそばは前もってよそっていたのだが、フライパンの中にまだ残りがあったのだ。それをふふふん♪ と鼻歌うたいながらすくっているのを見ると、よほどお気に召したらしい。嬉しい。


「料理以外もしてこなかったの?」


 再度席につきながら、琴葉が言う。


「だな。先生が『家でお母さんにやってもらってきてくださいね~』って言うこと、だいたい自分でやってきたまである」

「たとえば?」

「小学生のとき、持ち物に名前親が書くみたいな風潮あったろ?」

「あるね」

「あれ俺、自分で書いてたからな。絵里子の字を真似て」

「それ悲しいエピソードだよね? なぜに自慢げ?」

「当たり前だろ。そのときの努力があったおかげで、俺は字がうまくなったからな」

「でも、それ言ったらうちも、とも姉が書いてたし」


 渾身のエピソードのつもりだったが、琴葉はそれを軽くいなす。不発だったらしい。


「くそぅ……じゃあ次!」

「えっなにそのテンション。これ競ってる?」

「はい俺、家庭訪問、親の代わりに出てた」

「それ家庭訪問の意味ないでしょ……」


 挙手して言う俺に、琴葉が口をあんぐりと開ける。その表情を見て、俺は勝利を確信した。つまり、家庭環境的には敗北かもしれない。


「仕方なかったんだ。先生が来ると緊張してトイレから出てこれなくなってたから」

「んー、そこまでいくとたしかにセルフ式かもね」


 小さくため息をつくと、琴葉はこう続ける。


「でも、ほんとになんにもできない人なんだね」

「まぁそれは……」

「私でも掃除とか料理とかするのに。おばさんでそれって、人間失格じゃない?」

「おい琴葉。それはさすがに言いすぎだ。せめて母親失格って言え」

「フォローしてるように見せて自分も結構悪口じゃん」

「いや俺は事実を言ったまでだ。絵里子もそこまでなら傷つかないさ……たぶん」

「自信なくしてんじゃん」

「……」


 女子小学生に言い負かされてしまった感があり、男子高校生としてちょっと悔しい気持ちになるが、どう言い返そうか迷って顔をあげると、琴葉がつぶやく。


「でも、傷つけるかもって思えるのすらうらやましいよ。だって私なんか、お母さんのこともう傷つけられないんだからさ」


 なにげない表情で放たれた言葉に、俺は黙り込む。


 そっか、この子は両親を幼いときに亡くしているんだ。そんな当たり前のことを、俺は彼女の発言で思い出した。


「記憶自体、あんまないしね。私が小学校に入った年に死んじゃったから」

「すまん……もしかして気に触ったか?」

「いや全然」


 琴葉はさっぱりと言い返した。


「え、全然?」

「うん。そりゃいたら楽しかったかもだけど、でも死んじゃった人は戻ってこないし」

「そりゃそうだけど……」

「それに私にとってはもう、ひよ姉ととも姉が親だから」


 そう言うと、琴葉は皿のうえに残った焼きそばを一気にほおばる。


 結果、いつも次女がやってるハムスターのようになって、


「とひょろでこのあひゃいのおいひいねなに?」


 などと質問してきた。


 地雷を踏んでしまったかと緊張した分、琴葉のマイペースな反応がありがたくて心地よい。俺に配慮したワケじゃないのはわかっているが、それでも心にスッと染みいるのを感じた。


「紅しょうがだ。てか焼きそば垂らしたまま喋るな。お行儀悪いぞ」


 照れ隠しの意味もあってそう言った瞬間、焼きそばを垂らしたまま喋っていた琴葉の口元から、キャベツが放り出され、テーブルの上に着地した。麺と麺と間に挟まれていたせいで想像以上に飛んだらしい。


 そのキャベツをティッシュで拾うと、琴葉の口元が汚れていることに気付く。


「しかも、口元ソースだらけだぞ」

「ちょ、ちょっと」

「いいから大人しくしとけ」


 琴葉は一瞬抵抗する素振りを見せるが、すぐに目をつむって動かなくなる。それをOKの合図だと考え、俺は手を伸ばして口元をぬぐぬぐ拭う。


 その間、琴葉は目をつむって顔をゆがめていたが、拭い始めると案外大人しく、ギュッと握った手をぴくぴくさせながらも、黙って俺の手を受け入れていた。ツンツンしているように見えて、こういうところは案外素直らしい。


 口元がキレイになったことを確認して、俺は絵里子の話に戻る。


「絵里子がそんなだから、ぶっちゃけこの2日間を乗り切れるかは琴葉次第だ」

「だから琴葉って言うな」

「お前が俺のことを若宮って呼ばないようになったら、琴葉って呼ぶのやめてやるよ」

「うるさい若宮。若宮のくせに命令しないで」

「絵里子はもともと病弱なんだ。だから、色々と仕方ないんだよ」

「そう……まあ、どこまで合わせられるかわかんないけど」


 突き放すような、それでいてどこか優しさの残る口調で琴葉が言う。


 どうやら俺の作戦は成功し、絵里子に対して一定の事前知識と、憐れみの心を手にしたらしい。小学生に憐れまれる40代ってのもどうかと思うが、そういうのがないと二晩乗り切れなさそうなので、この際なんでもいいと思った。


「……それでだ琴葉」


 俺は身を乗り出すと、琴葉に対して手招き。


「ちょっと耳を貸せ」


 そう言われた琴葉は、なにが起こるのか理解できないという顔で、ゆっくりと片耳を俺に向ける。


 そして、琴葉と絵里子が仲良くなるための作戦を、俺は伝えたのだった。

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