145 琴葉、家に来る2
二子新地駅から10分程度歩き、俺たちは我が家の前に到着した。マンション5階の、一番端っこにある部屋だ。
「着いたぞ」
「……ここ?」
「そりゃそうだ。着いたって言って実は隣の部屋だったらどうなるんだ。俺たち、今からご近所さんの家に不法侵入するつもりか?」
「相づちだからっ! うるさいなっ!!」
琴葉は俺のすねを狙って蹴りを入れてくる。女児のキック力でも、弱点を的確に狙ってくるのでまあまあ痛い。
「っておい! やめろ!」
「揚げ足とった罰だ!」
「琴葉今から泊まるんだろ!? それが泊めてもらう人間に態度かっ!」
そんな小競り合いをしつつ、俺たちはようやく中へと入ることになる。
鍵を開けると、どうやら絵里子は外に出ている様子だが仕方ない。もともと今日は夕方以降から琴葉を招き入れる予定だったからな。絵里子もそれにあわせ、はやいうちに用事を済ませてようとしたのだろう。
ちなみに用事ってのは病院に行くとか、TSUTAYAに借りてたマンガを返すとか、そういうことである。間違っても夕食用の食材を買いに行くとか、そういうのではない。
しかし、逆にこれは好都合だなと思った。どうせ絵里子との初対面はぎくしゃくするだろうし、せめて先に琴葉が我が家に慣れていれば、ぎくしゃく多少はマシになるだろう……と考えたのだ。
「散らかってるかもだけど、どうぞ」
「ち、散らかってる部屋はちょっと……」
琴葉は本気で顔をしかめていた。おかげで俺は片手でドアノブを持ち、家と廊下に一歩ずつ足を置いた体勢だ。
「本気で気持ち悪がってんじゃねえよ」
「だって、散らかってるかもって」
「いやそれは慣用句」
「それに私、男の人が住んでる家ってちょっと……」
「前提からアウトじゃねーか」
やれやれと肩を落としつつ、俺は琴葉に向き合う。
「てか普通にキレイだから」
「……ほんとに?」
最初、冗談で俺に言ってきてるのかと思ったが、琴葉は案外真剣に心配している様子で、緊張で身を硬くしていた。両腕で体の前にまわし、ガードを堅くしている。
そう言えば、中野の家は両親がいなくなって5年経つという。琴葉はまだ小学校に入ったかそこらの年齢だったはずだ。
その年齢から女姉妹だけで暮らしてきたことを考えると、たしかに家の中に男がいるということが、イマイチよくわからなくてもおかしくはない。そのうえ、俺は父親でも兄貴でもないしな。
「大丈夫。我が家は実質2人暮らしだし、中も片付いてるから」
そう告げると、琴葉は小さくコクンとうなずき、一歩一歩、おそるおそる中へと足を踏み込む。
そして、俺は彼女をリビングへと招き入れた。
○○○
我が家について今まで解説する機会がなかったので、そこまで深く触れてこなかったが、正直俺はかなりキレイ好きだと思う。
学生と平行しての主夫業だが、毎日必ず洗濯機をまわすし、ルンバも必ず動かす。1週間に1回はクイックルで床掃除をするし、週に1度はベッドカバーや加湿器、トイレなどいろんなところの掃除をする。
床にモノを置くのが嫌いなのでカバン類はラックに引っかけてあるフックにすべてかけるし、そもそも雑然とした状態が好きじゃないので、少しでも不要なものは捨ててしまう。というか、そもそも買わない。
まあ、一言で言えば神経質なのだ。
ゆえに部屋のなかにあるものと言えばマンガ、ラノベ、小説などの類いになるワケだが、それも置いておける量に限界があるので本棚は限られているし、ほとんどはオヤジの部屋に置いている。世の単身赴任オヤジの例に漏れず、2ヶ月に1回くらいしか帰ってこない彼の部屋はすっかり物置化しているのだ。
玄関先の反応からなんとなく予想はついていたが、そもそも琴葉は他の人の家に入った経験がまだほとんどないのだろう。室内をその細い首でグルッと見回し、「へえ」とか「なるほど」とか小さな声を発していた。相変わらずの小声だが、屋内なのでさすがに聞こえるようになっている。
「私の家と結構違う」
「琴葉の家はこだわりある感じだからな。その点、うちは日本人の2000万人は懐かしいと思うようなこだわりのない内装だ」
「2000万人て」
「よく言えば最大公約数的な内装、って感じだな」
「全然よく言えてないと思う……うちはね、パパとママがインテリアとか好きだったんだって」
琴葉がポツンとつぶやく。
それに対してどう反応していいのか一瞬迷うが、彼女的には自然に出た一言だったのだろう。俺がそこに言及する前に、ふたたび口が開く。
「お家自体もこだわってるけど、家具とか結構選んでて……2階とか地味にスゴいんだ」
「そうなんだ」
「でも思ってたよりキレイじゃん。ちょっと殺風景だけど」
「そこまで違うか? ソファーとかテレビとか、置いてるものは同じだろ」
「んー……わかった。トロフィーとか賞状がない」
「ああ。そっちひよ姉の飾ってあるもんな」
「そうそれ、私が日付とか書いたり……ってひよ姉言うな」
「あれ、琴葉が書いてるんだな……なんだかんだ言って、ひよ姉のこと好きなんだな」
そう言うと、琴葉は小さく「うぐっ」とうめき、頬を赤らめて両手をギュッと握る。
「あれは昔からやってただけで……今も続けてるのは惰性というか」
「続けてることがスゴいんだろ」
「そうだけど、でもべつに深い意味があるワケじゃ……いつでも止めていいし……」
惰性で続けているだけだと弁解する琴葉だが、それでもひよ姉への愛情は隠せてびないと俺は感じる。
写真一枚一枚に、琴葉が丁寧に日付やイベント名を書き込む琴葉の姿を想像し、俺は少しだけほっこりする。中野の言うとおり、この子の優しさはイマイチわかりにくいのかもしれない。
○○○
その後、俺は琴葉を自分の部屋へと案内することにした。
ドアを開き、中が見えてきた瞬間、途端に琴葉の目がキラキラ輝き始めた。そして、一目散に本棚へと駆け寄る。小説が置いた棚の隣の、教科書・参考書専用の本棚だ。
小学校入学以降の教科書すべてと、参考書、問題集がすべて置いてある。中学の参考書だけでも余裕で50冊以上あるので、総数は…点正直数えるのを諦めるレベルである。俺はべつに収集癖があるタイプではないが、それでも教科書とか参考書は捨てるタイミングがなくて、昔のものをそのままにしているのだ。
あと、オヤジからもらったモノも相当数含まれていた。大学受験予備校として有名な俊台だが、じつは中等部というのもあり、夏期講習や冬期講習に参加せずとも、オリジナル教材をコネで手に入れることができたのだ。
「すごい数……」
まるで、サンタをいまだに信じている子供がプレゼントを見つけたときのような表情で、琴葉が俺を見つめる。その頬は興奮で上気しており、とても参考書を前にした小学生女児の姿には見えなかった。正直、小学生としてその反応はどうなの……と一瞬思ったが、まあでもわからなくもない。
新しい参考書ってたしかになんかときめくんだよな。まだまっさらな参考書が、使うにつれ少しずつ痛んでいくのも自分がそれだけ勉強したってことの証拠って感じでいいし、背表紙の反対の、小口の部分が最初は「指を切るんじゃないか」って思うほど紙が鋭利なんだけど、使うにつれて丸みを帯びてツルツルになっていくあの感じとか、自分になついてくれた感じする。
ちなみに参考書、問題集の本棚の隣には、俺が本当に大好きな小説、マンガ、ラノベ、映画DVD等を置いた本棚があるのだが、琴葉の視界には一切入ってこなかったようだ。
(おかしいな……『GO』とか『夜は短し』とか『ジョゼ』とか『花とアリス』とか『友崎くん』とか名作しか入ってない棚なのにな……)
そんなことを心のなかで思いつつ、俺は本棚から参考書を一冊を取り出して琴葉に手渡してみせる、彼女は「いいの?」という表情で俺を見ると、おそるおそると言った感じで受け取る。少し大きめサイズの参考書だったため、琴葉は生まれたての赤子を抱くような体勢だ。
そして、それを開き、中をぱらぱらっとめくると、ふたたび本棚に視線がうつる。
「これ全部、若宮の……?」
「オヤジが持って帰ってきたのもあるけど。予備校で余った教材とか。あ、予備校の職員なんだわ、うちのオヤジ」
「ってことは、若宮のものだね」
「まあオヤジも若宮だからな。間違いではない」
年下の年上に対する態度としては間違ってるとしか言いようがないが、もはや呼び捨てされることに慣れてきていたのも事実だし、そもそも呼び捨てされても腹は最初から立っていなかったのでとくに指摘しないことにした。
……まあ、名字呼び捨てより、あだ名とか「くん付け」とかのほうがやっぱり嬉しいんだけどさ。琴葉がいくら美少女でもそこはやっぱりそう思う。
と、そんな俺の心のなかの願望はさておき。
琴葉が亜麻色の瞳を俺に向け、見上げていることに気づく。
「どうかしたか?」
「これ読んでもいい?」
これ、と言いつつ、その手にはすでに参考書が10冊近く抱えられていた。もはや、これと呼べる量ではない。
「いいぞ。好きなだけ読みな」
細い両腕で参考書を抱えた姿がおかしくて、俺が笑いをこらえながら返すと、琴葉は小さくガッツポーズ。その結果、参考書が手から滑り、足の甲に勢いよく落下した。
「いっ……いった……い……」
到底痛そうには思えない小さな叫び声ののち、数分間、琴葉はその場にしゃがみむことになったのだった。