144 琴葉、家に来る1
琴葉が俺の家に泊まる土曜日の朝。
駅の改札口に、俺と中野、そして琴葉はいた。朋絵さんはその日の朝早くにゼミ旅行に出てしまったそうで、見送りには来ていない。
「琴葉、若宮くんの言うことをよく聞いて、いい子にしててね」
「ん」
「私と朋絵がいないからって夜更かしせずに。ゲームとYouTubeはふたつ合わせて1日1時間まで。お菓子ばっかり食べるのは体に毒よ。それと、本屋で参考書暗記するのはやめなさいね」
「ひよ姉、うるさい……れなくてもわかってる」
体を少し折り曲げ、琴葉に目線を合わせたうえで、真面目くさった顔で中野は言っているが、やはり何度聞いても明らかに一番最後のやつだけ異質である。その前までなら、普通に母親っぽいんだけどな。いや中野は母親じゃないけども。
そして、そんな中野のことを今日も今日とて、琴葉は鬱陶しそうにあしらっていた。もちろん、声も小さい。家の中や本屋でも聞こえにくいのだから、駅の改札前となるともはや唇の動きを見ないと判断も難しい。こうして、俺は読唇術を着々と習得しつつある。
「ひよ姉、行かないと遅れちゃうよ」
「わかった。もう行くから」
そして、琴葉に急かされた中野は、キャリーケースのうえに置いていたリュックを背中に背負い、出発の身支度を始める。キャミソールタイプの黒のワンピースに、中に白い半袖のTシャツを羽織っている。キャップも黒、エナメルの靴も黒と、すでに8月になろうとしているのになかなかの黒尽くめだ。
中野自身が醸し出す清涼感によって暑苦しさはまったく感じないが、正直この季節にこの格好はなかなか目立つし、なにより中野がそれを自覚してなさそうなのが問題だ。着る人のルックスが伴わないのに高い服を着ると、「服に着られる」って感じになっちゃうけど、逆に素材が極端にいい人間は服を着こなしすぎ、「夏に黒い服を着てるのに涼しげ」という、TPOや季節感を超越した感じになってしまうのかもしれない。
そんなふうに格好について考えていたので気づかなかったが、顔をあげると、中野が改まった表情で俺を見ていた。なので、俺も反射的に姿勢を正す。
「若宮くん、琴葉をよろしくね」
「おう任せろ。中野は自分の仕事だけ考えとけ」
「大丈夫。言われなくてもずっと頭のなかで考えてるわ。2日で出演料25万円、事務所に引かれても16~17万円は残るって」
「そうか。それなら大丈夫そうだな。心配して損した……その脳内、逆に心配だな」
と、そこで中野がポケットからスマホを取り出す。
その表情は急に真面目なモノに変わっていた。
「それと若宮くん……その、今さらこんなことを言うのもあれなのだけど、LINE教えてもらえないかしら」
中野はいつもより小さな声で、俺に向かってそう言った。気のせいか頬が少し赤くなっている。手取り金額はさらっと暴露してしまうのに、連絡先交換は恥ずかしいらしい。
「あ、そういや教えてなかったな」
いつもの俺なら、女子と連絡先を交換するとなると少し照れてしまうだろうが、今回は流れが流れなのでなんとも思わない。
QRコードを読み込み、出てきたアカウントを友人に追加。中野は「ひより」という登録名で、写真は三姉妹の3ショットだった。
カフェのような場所で撮られた写真で、朋絵さんがこれ以上ないほどの満面の笑み、中野は微笑み、琴葉は不機嫌そうにそっぽを向いている。3人のプライベートを覗き見た気持ちになるとともに、これだけ見目の良い3人が集っていると相当目立つだろうな……とどこか他人事のように思う。
そして、中野が俺に向かって、懇願するように述べる。
「もしなにかあれば連絡してね。仕事中は無理だけど夜に返事するし、というかなにもなくても連絡してくれていいわ。いや、連絡してね連絡しなさい」
「中野って意外と優しいんだな。てっきり最初から命令すると思いきや、ツークッションくらい置いてくれてるもん。命令されるにしても、やっぱ心の準備が大事だよな」
「そうやって脅され慣れてるの、正直少し怖いわよ」
「誰のせいで脅され慣れたと思ってるんだよ」
懇願は最初だけで喋ってる途中で人格が変わってしまった。役者って感情を表現するのが仕事だから、こういう人格の変化にも慣れてるのかもな。惑わされないよう、心を強く持って接しなければならない。
「それに俺が連絡しなくてもどうせ自分から電話してくるだろ。シスコンだし」
「私がシスコンかどうかは議論の余地があるけど、時間がないからそろそろ行くわ。琴葉も、いい加減うんざりしているようだし」
中野の視線の先を見ると、すでに琴葉が20メートルくらい離れた場所にいた。面倒くさそうにこっちを見ており、俺と中野の話し合いが終わるのを待っている。少しでもはやくこの場所を去りたいが、立場的に去ることができない……という葛藤がにじみ出ている様子だ。
そして、それをきちんとくみ取っているあたり、中野はシスコンである。妹ちゃんの気持ちが第一なんでしょうね。
「じゃあ2日後な」
「よろしくね」
そう言い残すと、中野はキャリーケースをころころ転がしながら歩き、エスカレーターで上へと消えていった。姿が見えなくなったのを確認すると、俺は鬱陶しそうに待っている琴葉のところに歩み寄る。
琴葉が苛立ちをこらえようとして足踏みするたび、白黒のギンガムチェックのワンピースがひらりと揺れる。白い丸襟がつき、裾に大胆なオレンジ柄のプリントが施されている一着だ……中野が以前着ていたものなのだろうか?
かなり甘いデザインだが、現役小学生の琴葉には非常に良く似合っていた。亜麻色の髪の色は細かいギンガムチェックに馴染んでおり、外国の人形を思わせるようなビジュアルに仕上がっている。誰がどう見ても、文句なしにかわいいと感じるだろう。
が、そうは言っても、やっぱりちょっと私服としては派手。そもそも小学生ってもっとテキトーな服着てるし……それに加え、琴葉がイライラを隠せていないことも影響して、近くを通り過ぎる人がチラチラと見ている。イライラをチラチラ、略してイラチラだ。
「遅い! なにやってんの!」
声はイマイチ聞こえなかったが、口の動きでなんて言ってるかわかった。
「なにって、琴葉に関する諸々の話し合いだろ」
「話すことなんかないし。自分のことは自分でできるから」
口先をむうっと突き出し、不満げに琴葉が訴える。
「私はひよ姉と違って家事もするし、若宮の家には泊まらせてもらうだけでもいい。ごはんも自分で作れるし、コンビニとかで買ってもいいしお風呂もシャワーだけでいいし、トイレは限界まで我慢するから1日1回でもいい」
「俺のことどんだけ鬼畜だと思ってんだよ。トイレは1日2回許すよ」
「……」
「あの今のジョーク、無視ですか……? 自分でもつまらないと思いつつ場を和ませるためにはまず打席に多く立つのが大事と思ったんですけど、さすがに違いました……?」
「……」
返答はない。無視らしい。
あんまりに琴葉が口をとがらせているのでツッコミとボケをかましてみたが、空気は和やかにはならず。琴葉はツンとしたままだった。知り合ったばかりってのもわかるけど、さすがに信頼されてなさすぎて辛くなってくる。
「あのさ、琴葉。なんでそんなケンカ腰なんだよ。たしかに俺たち知り合ってそんな時間経ってないけど、もうちょっと心許してくれよ」
「イヤだ。心も体も許さない」
「誰が体の話をした。そしてそういうヤバそうなこと言うのは家着いてからにしろ」
「家に着いてから……まさか若宮、そういう『いやよいやよも好きのうち』的なので盛り上がるタイプ? 私を襲うつもり?」
「違うし、家ならその辺歩いてる人に誤解されないってだけだし。あとこれは令和に合ったラブコメラノベだから女の子が嫌がるようなことは俺はしない!」
「なにその急なメタ発言」
小柄な体を両手で守りながら言う琴葉に、俺は人差し指を唇前に立てながら告げる。
幸い、彼女の声が小さいので周囲の人には聞こえていない様子だったが、それでも背筋がヒヤヒヤするのは仕方がないことだった。と同時に、煽るような言葉を相変わらず低いトーンで言ってくるのが地味に憎々しい。
「じゃ、このあとはどうする?」
気を取り直しつつ、尋ねてみる。
あのあと、中野とした話し合いをまとめると、まず琴葉が俺の家に泊まるのは決定事項だった。だが、俺が面倒を見るのは夜だけで、その時間まで琴葉がどう過ごすかは決まっていなかった。
まあ、中野としてはひとりで長時間留守番してるのもよろしくないので(普段よくしているとは言え)、様子を見ておいてほしいというのが本音だろうけど。
「どうするって……んなの若宮が決めてよ」
しかし、琴葉が見せたのは俺にとって意外な反応だった。先程より語気を弱めつつ、そんなことをボソッとつぶやいたのだ。
「えっ……決めるって俺が?」
「いいからっ」
苛立ちを隠さず、琴葉は俺に当たってくる。あれだけ自己主張していたにも関わらず、この急な態度の変化……正直、さすがの俺も想定外で戸惑った。
様子をうかがうように俺は琴葉の顔をのぞき込もうとするが、彼女は黙ったままでなにも言わない。むしろ、黙り込むのを決めているような雰囲気すら感じられた。
(俺に決めてほしいとか言ってるけど違うよな……この子、人に決めさせようとしてる風だけど本当はもう決めてて、でも自分の口からは言いたくない感じだな……)
非常に女の子っぽい行動パターンだと思ったが、即断即決の中野や、一切気を遣わないでいられる高寺に慣れた俺としてはかなり面倒である。
と同時に、なんだか彼女に主導権を握られることにも地味に腹が立ってきた。実際問題、俺って協力してる側なワケで、なんでここまで気を遣わないといけないんだよ……。
なので、ちょっとからかってみることにする。
「じゃあ一旦解散。5時に迎えに行く」
そう言って翻って帰ろうとすると、途端に琴葉の表情が変わった。慌てて俺の腕に飛びついてくる。
「だ、ダメっ! 行っちゃイヤ!!」
想像以上にわかりやすく引っかかった。こうなると話は楽だ。
「なんだよ俺が決めるんじゃないのかよ」
「か、解散以外で!!」
琴葉の茶色く大きな瞳に、焦りの色がうかがえる……だが、やはり女の子特有の『察してほしい願望』は根強いようで自分の意思を述べるつもりはないらしい。
「夜まで自由時間でもいいし、昼飯外で食べてもいいし。まだだろ?」
「……だけどお腹すいてない」
「じゃあすく前に食べろ。そのうちどうせすくだろ」
「と、年頃の女の子にそんなこと……」
琴葉が眉をひくつかせながらそう言う。どこかで見た癖……と思ったら、考えるまでもなく中野の癖だった。あの子、イラついたら眉をひくつかせて、キレそうになったら左右の眉が非対称になるんだよな。
そんなことを思いながら、俺は気を利かせて琴葉に提案する。
「時間あるし、映画でも観にいくか? どうせ中野のやつ、一緒にどっか行くとかしてないんだろ?」
「ひよ姉と映画行くことなんかないし、若宮と行くのも嫌。若宮は私とデートしたいのかもだけど」
「デートじゃねえよ。あと俺のこと若宮って言うのやめろ。じゃあ、今から俺ん家来るか?」
そう告げると琴葉が一瞬、小さく目を見開く。その仕草を俺は見逃さなかった。
どうやら、最初から家に行ってみたかったらしい。
でもなぜに?
……まあでも、行き先が決まったならそれでいい。今日はどうせ、もともと外出する予定もなかったしな。暑いし、家で勉強して過ごすことにしよう。
「言っておくけど俺ん家はそんないい場所じゃないからな。普通のマンション、築15年の賃貸。ちなみに3LDK」
「間取りとか聞いてないし」
「家には母親が一匹いる。人見知りだけどちゃんとしつけてるから噛んだりはしないぞ」
「噛んだりって犬じゃないんだし……あのさ」
「ん?」
なぜか琴葉が顔を赤らめ、モジモジしている。
「その、若宮の家って参考書とかあったりする……?」
「ん、あるけど。それ、ひよ姉から聞いたのか?」
「ひ、ひよ姉言うな!」
「いや、琴葉がひよ姉って言ってるから」
「それは私しか言っちゃいけないのっ!!」
「商標登録でもしてんのかよ」
「ひよ姉って呼ぶのは、とも姉にも禁止してるんだから」
「そりゃひよ姉はとも姉にとっちゃ妹だからな」
姉なのに妹に向かって「ひよ姉」って言うには、少なくとも時空を超えないといけない。まあ、朋絵さんならニッコリと普通に呼んでそうだけど。精神的には中野のほうが上そうだしな。勤労者だし。
「まあともかく、俺の部屋に参考書があるっての、中野から聞いたのか」
「あるというか、あるんじゃないかしらって」
中野の推測は正しい。正しいのでなにも言い返せず、俺はやれやれと肩を下ろす。
そして、そんな俺の様子を見て、琴葉が途切れそうな小さな声で尋ねた。
「あの、その参考書、見せてもらえたりする……?」