143 中野家の三姉妹4
その後、俺は絵里子に電話をかけ、30分後に中野と戻ることを伝えた。朋絵さんにさようならを言い、中野の家を出て駅へ。
そして、次の駅で高寺が降りる。
「若ちゃん、なんかごめんね」
「高寺が謝る必要ないだろ。それに、俺が預かるってまだ決まったワケじゃないし」
「うん……」
珍しく元気のない様子の高寺は、とぼとぼと肩を落として去って行った。
電車が出ると程なくしてその姿は見えなくなり、俺たちは2駅隣で降りる。
そして、俺の家に向かってゆっくりと歩き始めた。絵里子に伝えた30分後までは、まだ少し時間がある。俺が歩く速度を緩めると、察したのか中野も足取りを重くした。
「マジでわかんないから。絵里子がなんて言うか」
「もしダメだと言われたら、もう諦めて家にいることにするわ。朋絵が」
「朋絵さんなんだな」
「そりゃそうでしょう?」
なにを当たり前のことを、という表情で中野が俺を見る。
「私は一家の大黒柱なの」
「だろうな」
「世帯収入の8割以上を私が稼いでる」
「いやその補足はいらんけど」
「琴葉は一見キツい性格だけど、じつはすごくいい子なの」
「どういうふうに? 今のところ、全然感じないんだけど」
口は悪いし舌打ちするし、初対面の相手とケンカするし。いくら中野が擁護しようと、身内のひいき目にしか見えないのが正直なところだった。あれでルックスが良くなければ、世間も相手にしないだろう。
「たとえば、私のお昼ご飯、サンドイッチでしょう?」
「ああ。あのハムロテのな」
「……若宮くん、今日こそハムロテの言葉の意味を教えてもらえないかしら?」
自ら窮地に追い込まれてしまった。
「べつにいいけど、そうしたら絵里子に頼むのやめようかな……?」
「わかった。なら聞かない」
さほど不満もなさそうに言う。今は説得のほうが重要だと考えているのだろう。
「あのサンドイッチ、毎朝琴葉が作ってくれてるの」
「ああ、だからか。なんで毎日同じものなんだろうって思ってたら、小学生が作ってたなら……え、マジで毎日あの子が?」
あまりに驚いたせいで、俺の言葉は急に勢いを失う。
だが、中野にとっては驚きでもなんでもないのか、あっさりとうなずいた。
「私の家はご存じのとおり、少し環境が特殊でしょう? それに合わせて生活スタイルや家事の分担も独特なの。私は稼ぎ頭として収入の大半を稼ぐかわりに、家事はあまりしない。やればできるのだけど、時間がなくてね……」
少し恥ずかしそうに、中野の声が小さくなる。
「朋絵は大学生をしながらバイトして家計を支えつつ、晩ご飯の準備や掃除。琴葉は朋絵のお手伝いと、おもに洗濯。それで、私たち姉ふたりのお昼ご飯を準備してくれるの、毎朝ね」
「そうだったんだな」
「あまり器用なほうじゃないから毎日同じものでね。朝も強くないし」
「気は強いんだけどな」
「そう、私よりよっぽど気は強いのに朝は弱い」
「肯定されると自分がいかにつまらないこと言ったかよくわかってイヤだな」
「でも私たちはね、それでも毎日作ってくれる琴葉の行動がとても嬉しいの。だから、飽きたとか思ったこともない」
なるほど、そういう理由で毎日昼飯がサンドイッチだったのか……。
弁当箱に無造作に入れられ、中身は日によって違いながらも、決して豪奢な出来ではなかったサンドイッチ。むしろ中身がはみ出ていたり、不格好なことが多かった。中野が作っているのだと完全に誤解していたのだが、なるほど、小学生が作っていたのだとしたら合点がいく。
と、同時にサンドイッチに琴葉なりの愛情がいろいろ込められているような気がして、思わずジンときてしまった。
「……俺、中野のことただのハムロテだと思ってたけど、じつはシスコンなハムロテだったんだな」
「若宮くん、ハムロテがなにか今日は教えなくていいって決まったうえで繰り返してるでしょ? わざとでしょ?」
「そうやって家事を手伝ってくれてるってのはわかったけど、でも琴葉って中野に仕事ばっかりしてほしくないんじゃないのか? 家でのあの様子を見てる限り」
すると、中野の表情がかげる。
「……それはその通りでしょうね。でも、私が働かないと自分たちが生きていけないことも、琴葉は理解してるのよ。だから毎日サンドイッチを作ってくれるし、いくら言っても参考書を買わない」
「たしかに参考書って結構高いもんな」
「それだけじゃない。お小遣いであの子、勝手にラノベやマンガを買ってくるのよ。『これ読むといいよ。人気あるらしいよ』って言ってね。むしろ、私が読んでるのは琴葉が買ってきたものがほとんどかもしれない」
「そこまでなんだな」
中野がいつあるかわからないオーディションに備えて、日頃からいろんな作品に目を通しているというのは何度か聞いた話だ。いくら経費になるからと言って資料代もバカにならないはずだが、なるほど家族の協力もあったのか。立ち暗記ってのは協力方法としてはかなり異質と言わざるを得ないけども。
「正直な話ね、オーディション前に原作をチェックする義務はないの。会場でわざわざ聞かれることもないしね。ただ、オーディションで渡される紙って1枚とか2枚で、原作を読んでいないと演じるキャラの性格も、どういう感情の流れでこのセリフを言ってるのかとかもわからないわけよ」
「実際問題、それで受かる確率って変わるのか?」
「少なくとも私は、チェックありなしだと1割くらい違うかな」
「まあそれは大きな差だろうな」
「単純計算で3倍ってことね」
「それもうチェックありなしの数値出るから。簡単な数学、いや算数の問題だから」
「あの子の優しさは、わかりにくいの。たとえるなら『ウォーリーをさがせ!』で、ウォーリーが赤白ボーダーを着ずにグレーのスウェットを着てるくらいの難易度ね」
「それすっごい難しいな。見つけるの無理じゃね?」
中野はコクンとうなずく。
「だから、若宮くんが断っても仕方ないって思ってる」
そして、添えるように、控えめにつぶやいた。今までに見せたことがないような心配げな横顔を見ていると、彼女にとって琴葉がある意味、自分以上に大切な存在であることがうかがえる。
そんなふうに思いつつ、俺は深いため息をついて歩みを止める。中野が立ち止まり、振り返った。
「わかった。自分なりに真面目に絵里子を説得してみる」
「……本当?」
中野の美しい目が開く。
「ああ。少なくとも、俺はもう泊める気でいるから」
「……ありがとう」
うつむいて見えなくなった表情から、小さく放たれたいじらしい声が、耳に届いた。
○○○
「いいよ! 泊まって泊まって!!」
中野が到着して15分後。
満を持して本題を切り出すと、絵里子はあっさりとOKを出した。
「え……本当ですか?」
パン屋で絵里子のコミュ障ぶりを見ていた中野は、交渉が難航すると思っていたのだろう。あまりにもはやい受諾に、喜ぶより先に呆然としてしまっている。
「ちょっと絵里子」
「ん、なにそうちゃん?」
そんな中野の様子を見て、俺は絵里子を隣の部屋に連行。中野に聞こえないように、小声で尋ねた。
「どうしたんだよ」
「どうしたってなにが?」
「いや、だって他人がウチに泊まるんだぞ? しかも見ず知らずの小学生。絵里子、人見知りだろ?」
俺が小学生の頃、友達が遊びに来たとき、絵里子は自分の部屋に閉じこもって息を殺していたような母親なのだ。それが、なぜ琴葉をこうも簡単に受け入れようとしている……この数年間になにがあったのか。
すると、絵里子は手のひらを擦り合わせながら、少し恥ずかしげに述べる。
「それはそうだけど、たまにはいいかなって」
「絵里子から前向きな言葉が……まるで松岡修造がネガティブなこと言うレベルの驚きだ……」
「そうちゃん、心の声漏れてるよ?」
「……」
「実はね、楽しかったんだ。ひよりちゃんとパン屋でお話したとき……」
少し恥ずかしそうにしながら、絵里子は語り始める。
「今まで、そうちゃんが友達を連れて来ても全然嬉しくなかったし、むしろ緊張してお腹痛くなってたんだけど」
「そうだな」
「そもそも子供が苦手というか、人間が苦手ってところあるじゃんお母さんって」
「あんまりはっきり言うことでもないと思うけど、そうだな」
「でも、ひよりちゃんとちゃんと話してみたら、意外と平気だったというかさ……だから、もうちょっと頑張ってみてもいいのかなって」
「そうか……」
「それにあのときと違って今はそうちゃんも大人になったでしょ? もしもダメなときは、昔と違って頼れるというかさ」
少し言い直しながら、絵里子がそう伝える。小学生の頃の一件は、今でも彼女にとって未だにトラウマなようだが、俺が知らないうちに「俺の成長」という形で、乗り越える準備は進んでいたらしい。「木のうえに立って見る」と書く息子という漢字の……まあ書かないけど……そんな息子の俺としては、これは嬉しい成長だった。
「もちろん、基本は俺が全部やるよ。料理とか、もろもろの世話とか」
「ありがと。ま、どうしてもダメそうならお母さん、近くのビジホに泊まってもいいし。どうせ1万円くらいでしょ? 中目黒のドーミーインとかさ」
思わぬ流れで聞いた名称が絵里子の口から出てきて、俺は少し笑ってしまった。絵里子は「なんでそこで笑うの?」というふうに首をかしげるが、まあ話すほどでもない。
もし絵里子がビジホに泊まることになったら、中野から預かり料1万円もらおうかな。それを絵里子のビジホ代にして。
……いやダメだ。そうしたら、俺と琴葉がひとつ屋根のしたになっちゃうじゃん。やっぱり、冤罪を回避するという意味でも、それだけは回避しなければ。