135 参考書選びと謎の美少女1
中野の心境に大きな変化をもたらした大学見学だが、哲学堂先生との時間は高校生である俺たちにとってとても有意義だった。
『人生を楽しくするために色んなことを知る。そのために大学で学ぶ』
というメッセージは、読書や映画鑑賞といった、なくても死なない趣味を持つ俺にとっても胸に響くモノだったからだ。
そんなことがあったからこそ、だろうか。俺はオープンキャンパス以降、ほぼ毎日本屋に足を運んでいて、中野と予備校で遭遇した翌日もマルイ裏の本屋に来ていた。
ここの本屋はエスカレーターであがって3階に入ると、ラノベコーナーが広がっている。その奥にマンガのコーナーがあり、そのさらに奥に参考書コーナーがある感じ。俺くらいの年代の青少年をターゲットにした売り場作りであり、実際色んなところに目移りしてしまうのだが、この日の目的は参考書だった。
なお、自分用の参考書ではなく、小学生~中学生向けの参考書だ。
理由を語るために、時を戻そう。時系列的に言えば、中野と予備校で会う数日前の話である。
○○○
終業式を、翌週に控えたある日のこと。
1学期末のテストもすべて終わり、俺は石神井、本天沼さんと溝の口駅南口にあるモスバーガーにやって来ていた。
ここのモスは駅に向かって、うちの高校から反対側にあるので、生徒や教師に遭遇する可能性が低い。いわゆる、穴場スポットだ。還暦を過ぎていそうなおじさん店長と、俺らとそう年の変わらない女子大生らしき店員たち数人で回している、比較的のどかなお店である。
ちなみに、中野の家へはここの左から伸びている坂をのぼれば、一応たどり着くことができる。ただ傾斜がかなりキツく、しかもムダに迂回しているので時間がかかるので、中野もあまり利用しないそうだが。石神井とテスト対決中、一回だけこのルートを通ったことがあるのだが、足だけでなくなぜか背筋が筋肉痛になったことを補足しておこう。
「若宮は夏休み、なにして過ごすんだ?」
「とくに決まってないけど。そう言う石神井は?」
「俺は今年も学園祭の準備だ。ほら、実行委員だし」
そう言うと、石神井はどこか自慢げに笑う。
以前にも軽く触れた気がするが、我が校はなにげに文化祭が盛んだ。名を『いちょう祭』と言い、例年10月に2日間にわたって開催される。
校舎内がコスプレ姿の生徒で溢れ、なかばハロウィンのような雰囲気になる。後夜祭では花火が打ち上げられるのが伝統で、業者の力を借りていることもあり、高校のイベントとは思えない大きさだ。
「文化祭秋なのに、夏休みから準備って大変だね」
「数年前まで校舎の耐震補強で校庭が半分のサイズになってただろ? それで文化祭もショボくなっちゃったらしく先輩方が気合い入っててさ」
「そういうことだったんだね。でも夏休み中から何するの?」
「去年は雑用だったよ。花火打ち上げます、すいませんねってビラ作って近隣の家に配ったり。今年は花火担当になったから業者とのやり取りとかかな」
本天沼さんの質問に対し、石神井が返答していく。普段は阿呆極まりない彼だが、『いちょう祭』の実行委員だけは真面目にやっている。きっと、不毛なことに全力を費やす文化祭というイベントが性に合っているのだろう。そういや、一番好きな映画は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だって言ってたんだよな。
そんなふうに雑談している俺たちだが、とくに理由があって来たワケではなかった。
小説やアニメ等、物語世界のなかでは、主人公たちのどんな行動、どんなシーンにもたいてい意味があるものだ。
たとえば放課後、音楽室からピアノの音が聞こえてくる前、主人公は往々にして担任かた「プリントを集めて職員室に持ってくる」的な役割を与えられている。これは放課後、校内をウロウロしているのを自然にする口実で、ストーリーからご都合主義感を奪う工夫だったりする。
逆に今まで交流のなかった女の子が声をかけてくるときは、先生から言づてを頼まれている。『冴えカノ』で加藤恵が主人公・安芸智也に廊下で話しかけてきて、坂道で出会った帽子の女の子だと気付くシーンなんかはまさにそう……とか言えば伝わりやすいはずだ
しかし、現実世界において高校生たちがモスバーガーに来ることに理由なんかない。なんとなく一緒に帰って、なんとなく店に入ることになって、とりとめもない話を繰り広げる。それだけなのだ。
だが、特別なにも起こらない、刺激にとぼしい時間を俺が心地よく感じているのもまた、事実だった。
翌日には忘れてしまうような生産性のない会話も、相手次第では楽しくなる。いやむしろ、友人関係というのは忘れられない会話ではなく、覚えていない会話で形成されるものなのかもしれない……。
石神井や本天沼さんと仲良くなったことで、俺は高2にしてそんなふうに感じるようになっていた。話題が、自分がずっと苦手にしてきた文化祭についてであっても。
と、そんなふうに感慨に耽っていると。
栗色の髪の女の子がこちらに向かって歩いてくるのがウインドウ越しに見えた。ランドセルを背負っていることで、大人びた容姿、内面の彼女がまだ小学生であることを改めて実感する。
「あ、香澄だ」
「ほんとだ。おーい」
「妹よ、こっちを見たまえ」
俺たちが手を振り、口々に名前を呼ぶと、気配に気づいた香澄がこちらを見る。足を止めた香澄は、最初こそびっくりした表情を浮かべたが、すぐに冷静な顔に戻り、ウインドウ越しにぺこりと頭を下げた。
店内に入ってくると彼女は本天沼さんの隣に座り、ランドセルを自分の横、つまり本天沼さんの反対側に置いた。彼女のランドセルは焦げ茶色で、その甘過ぎない雰囲気は彼女の年相応じゃない、色香すら感じさせる容姿に非常によく似合っていた。
「惣太郎さん、本天沼さん、今日も兄がご迷惑をおかけして」
「妹よ……開口一番それってさすがにおかしくないか?」
香澄がごく自然な流れで頭をさげると、石神井がわざとらしく頭に手を当てる。
だが、香澄は呆れの表情を深める。
「少しもおかしくありませんよ。それにもし今日ご迷惑をおかけしてなくても、早かれ遅かれまたおかけするでしょうし」
「先回ってやる謝罪に誠意はあるのか、妹よ。謝るならなにかしでかしたあとが適切だろう」
「結局ご迷惑かける気満々じゃないですか……お兄ちゃんはいい加減、兄らしい振る舞いというものを身につけてください。まさか小学校の理科準備室に置いてきたわけじゃないですよね?」
今日も石神井兄妹の会話は、小競り合いから始まるようだ。兄はとても楽しそうで、妹はとても困った表情をしている。が、困り顔の中に、面倒な兄の相手をすることの喜びがにじみ出ていることは、彼女はまだ気づいていないらしい。
そして、一通りのじゃれ合いを終えると、香澄の視線が俺と本天沼さんに寄せられる。
「惣太郎さん、お久しぶりです」
「おう」
「本天沼さんも、お久しぶりです」
「うん、おひさー」
柔和な笑顔で、本天沼さんが応対する。目の前50センチのところに琴葉がいるのに小さく手を振っており、それが上品でかわいい。
「香澄、元気にしてた?」
「正直、ちょっと元気じゃありませんでした」
「それはどうして……?」
少々困ったように述べた香澄に、本天沼さんが少し身を乗り出す。想定外の返答だったことで、好奇心が刺激されたようだ。
「夏休みが近づいてきていたからです」
「夏休み、嫌いなの?」
「違います。私、体力がそこまであるほうじゃないので、長期休暇前はバテちゃってるんですよ」
「んんっ? 小学生なのに、元気ないの?」
その言葉に、香澄はやれやれと小さくため息をつく。子供なのに大人っぽい仕草なので、意図せずギャップが出てしまっている感じだ。
「本天沼さん、小学生はみなすべからく元気というのは思い込みです」
「思い込み」
「元気のない小学生もいるんです」
「ほぅ」
「いるんです」
香澄は人差し指をぴっと立てて、俺と本天沼さんの目を順に見る。
「いいですか? そもそも週5日、朝から夕方まで学校にいるというのは拘束時間的には社会人と同じです」
「たしかにそうだ」
本天沼さんが神妙な面持ちでうなずく。
「それに私は真面目に勉強しています。これはあまり知られていない真実ですが、真面目に頑張ると真面目に頑張らなかったときより疲れます」
「……実は私もそうじゃないかと思ってた」
「本天沼さん、さすがです。人は真面目に頑張ると疲れるんです」
「なるほど……香澄は体力がないから、長期休暇で回復するんだね?」
「はい。社会人が土日に寝だめするのと同じですね」
「あ、寝だめは私もする」
「寝だめストなんですね」
「まさか私が寝だめストだったとは……」
「ちなみに私も寝だめストです。もう4年くらい、週末になると寝だめしてます」
「最近の小学生は、忙しいんだね」
「そんな理由で、私は休み時間に男子のようにサッカーには行きません。服も汚れるし、読書をしているほうが楽しいからです。蹴鞠はかつて貴族の遊びでしたが、今では子供の、いや子供族の遊びなのです」
「そこは子供の遊び、のままで良かったと思う、けど」
「子供の遊びなのです」
そう言うと、香澄は頬に手を当てて、流し目でため息をついた。「困った人たちなんですの……」みたいな、貴族のご令嬢のような仕草だが、美少女なので様になっている。そして、様になっているところまで含めて、微笑ましい面白さだった。
本天沼さんと香澄の会話は、独特な仕上がりであった。柔和で穏やかな本天沼さんと、背伸び具合がかわいい香澄。かみ合いそうでかみ合ってない、でもかみ合っている会話は、隣で聞いていて心地よい。
すると、香澄は次に、俺に視線を向ける。
「そう言えば、惣太郎さんにお願いがあるんです」
「なにかな?」
「お兄ちゃんから勉強会をしたとうかがったんですけど、私にも勉強を教えてもらえないかなって」
「妹よ、若宮との勉強会の永久優先権は俺にだな」
「石神井は黙ってろ。そんでもって永久優先権保有者は中野だろ……いや中野なのか?」
「俺に聞いてる? それか中野さんに確認してみようか?」
「しなくていいしなくていい」
「でも勉強を教えてくれるというのは、兄冥利に尽きるな。そう言えば若宮と初めて話したときも……」
「こら、お兄ちゃん。めっ、ですよ」
と、そこで香澄が割り込んでくる。
話が逸れそうだどうしよう……と内心思っていたところなので、ありがたいところ。
「お兄ちゃんはいいところで会話に入ってこないでください」
「同じ空間にいるのに会話に参加するのもダメなのか」
「話を逸らすからですよ。まったく、兄冥利に尽きる前に、お兄ちゃん自身が尽きてくれればいいのですが……」
「兄に対して手厳しい妹だね。さすが妹という字が、女偏に末と書くだけあるよ」
「……いや、それ全然オチてないんですけど。てっきり『親という字~』は的な、金八的なアレかと思ったのに」
ジト目になって、香澄が石神井に抗議を入れる。落ち着いていて大人びた彼女だが、度重なる兄の妨害にさすがに苛立ちが増してきている様子だ。
「で、勉強についてだけど」
なので俺は空咳をつきつつ、話を戻す。
「あ、はい。私、中学に入るまでに勉強進めて、スタートダッシュを決めたくて……というのも私、高校はいいところに行きたいんです」
「いいところか。よしじゃあ一緒に勉強しようか」
「はいっ! 今週末の日曜日でどうですか?」
「いいよ。日曜はなんもないし」
俺がそう言うと、香澄は嬉しそうに目を細めて笑い、そのままの表情で本天沼さんのほうを向く。
「本天沼さんもご一緒にどうでしょう?」
「あーうん、私はいいかな。テスト終わったばっかりだし」
「そうですか……」
そして香澄は表情を一変させ、兄に対して厳しい顔を向ける。
「言うまでもないことですが、お兄ちゃんは参加しないでいいので」
「おいおい、そんな冷たいことを……と言いたいところなんだが、日曜日はちと花火関連で用事があってだな」
「なるほど。それは好都合ですね」
そして、言質を取った香澄は俺のほうをむき直し、
「では惣太郎さん、約束ですよ? 忘れないでくださいね?」
大きな瞳で俺の目をのぞき込むと、すっと小指を差し出す。
俺は苦笑しながら、小指を差し出して、ギュッと力を入れた。