134 女子高生声優は予備校にも通い始める2
その日の昼休み。
俺と中野は、予備校からほど近い場所にある公園にやって来ていた。俺としては普通にフロンティアホールで食べたかったのだが、「まだ同じ学校の生徒が潜んでいるかもしれない」と中野が主張し、ここに逃げてくることになったのだ。
さっきフロンティアホールでストーカー冤罪を起こしかけたのはどこのどいつだとか、潜んでるとか言うけど、もし同じ学校の人がいたとして彼ら的には普通に授業受けてるだけだろうし、むしろ今潜んでるのは俺たちのほうじゃないのか、などのツッコミが俺の頭に浮かんだのは言うまでもない。
そして、言うまででもないことだなと思い、また、言ったら中野が10倍にして返してきそうだったので、言わないことにした。
と、そんなことはさておき。
「committee…justify…introduction…」
今日も今日とて、彼女は片手で不揃いなサンドイッチを頬張りながら、もう片方の手で参考書を眺めていた。いつも通り数秒間モグモグしたのち、参考書に注意がうつってモグモグが止まり、しばらく経ってモグモグを再開する……という、ハムロテを繰り広げている。リスニング対策用の音読CDなのかと思わせる、美しい声を響かせながら。
この光景も、今では見慣れたものだ。
……と、俺の胸のなかにひとつの疑問が浮かぶ。中野はなぜ俊台予備校にしたかというものだ。
俺のように親が職員って人は金銭面的な理由で俊台予備校を選ぶだろうが、中野は違う。横浜まで来れば他にも予備校はたくさんあるし。
「さっき俺が俊台にした理由話したけど」
一文をあえて二文に区切り、その前半だけを述べる。
そして、中野が深い集中から顔を持ち上げると、後半を口にした。
「中野はどうして俊台へ?」
「今の、YOUは何しにのリズムだったわね」
「……」
言葉をためた結果、変な言い方になってしまった。
「簡単よ。私は俊台予備校なら授業料がタダだから」
「……え。もしかして、中野って亡くなった親父さんがここの予備校の人だったり?」
「えっと、違うけれどそれがなに?」
「社割かってことだよ」
「いや、余計にわかんないのだけど」
俺と同じか聞いてみたが、伝わっていない様子なので違うらしい。
「俊台ってさ、社員の子供は社割で授業料安くなるんだよ」
「ああ、そういうこと」
中野が納得したように、二度ほどコクコクうなずく。
「残念ながらハズレ。私の両親がこの予備校の関係者だった事実はないわ。単純な話で、私はCMに出演したからタダなの」
「ああ、そういう理由……えっなにそれ。そんなのあんの」
「過去にテレビCMに出演された女優さんが『通いたい』って言ったことで始まった慣習だそうよ」
「え……なにそれズルい」
「まあでも、CMに関わってるのに通ってるのは他の予備校って噂広まったら嫌だもんね」
「それはそうだな」
「CMを一本撮れば百万円単位でかかることを考えると、数十万円の授業料で関係性を維持できるなら予備校的にも高くはないんでしょう」
「オトナの事情だな……」
「まぁ今回私は顔出しじゃないし、ナレーション料金もそれほど高くはないのだけれど、一応人気声優……いえ、人気清純派声優だから」
「そこ言い直す必要あった? 散々金の話してたよね?」
ポニーテールの黒髪を風になびかせながら語る様子は、とても清楚。それだけにギャップを強く感じてしまう。
と、そこで中野がなじるような目で見てくる。
「でも若宮くん、べつに良くない? 私がタダで予備校に通うことで誰かが不利益こうむった?」
「そんなことないけど……」
「むしろ、誰も損していない」
「そんなことあるけど……」
「私だって女の子なんだから、銭ゲバ諭吉大好きクソ女なんて言われたら傷つくのよ?」
「いやそこまでは言ってないだろ」
それに近いことは心の中で思っているが。
と、そこで中野は諭すような口調でこう続けてくる。
「若宮くん、私たちが普段飲んでる水だってもともとは汚いでしょう? 人間関係も同じなの。途中、どれだけ汚い政治があったって、最後にキレイにまとまればいいの。濾過されたものだけを受け取ればいいのよ」
「すごい暴論だな」
「そうかしら。まあ声優に関して言えば、事務所内の立ち位置とか事務所同士の力関係とかで損な目ばかりになる人もいるけど……でも、それもキレイな水が出てくる場所を探さなかった自分の力量不足よね」
その口調には、もはやなんの迷いも疑いも躊躇いもない。もともと事務所内でも孤立しがちだと美祐子氏が話していたが、それもうなずけるなと思った。
と同時に、俺をからかうことにも躊躇がないのだなと再確認する。
ただでさえ振り回されっぱなしなのに、あんな悲しげな顔をされると慌てないワケにはいかない。
それがもし演技だったとしても。
演技だとわかっていたとしても。
「ま、でもね」
そして、中野は付け加えるようにこう述べる。
「私が大学に行くとしたら、4年で500万円くらいかかるでしょ? となると、せめて予備校代だけでもかけないでおきたいのよ」
なんのためにお金を節約するのか。
言葉にこそしていなかったが、中野のこれまでの発言によって、俺にはなんとなくその理由がわかったのだった。
○○○
その後、各々静かに勉強(中野)と読書(俺)する時間を経て、昼休み終了の10分前になった。どちらとも立ち上がると、予備校への帰路につく。
すると、中野はカバンの中からキャップを取り出し、深めにかぶった。これまでならマスクでもつけていたはずだが……夏になったことで、さすがに暑く感じるようになったのだろうか。
「しかし、中野が予備校に来るなんてな」
「私が予備校に来たらダメなのかしら」
「いや、そういうわけじゃなく。先週、大学行ったばっかりだろ? 先週の今日ってさすがに行動はやすぎるなって」
「若宮くん、それは違うわ。なぜなら私は大学見学の日の帰り道に資料をもらいに行っていたから」
「さらに早かった」
「早いですって?」
俺の言葉に、中野はわざとらしく小さくため息をついた。
「やるって決めたことなんだから、行動に移すのは当然でしょう? むしろ、寝かせておいて意味ある? 熟成でもするのかしら」
「いや熟成はしないんじゃないか?」
「時は金なりって言うでしょ。悩むっていうのは時間を浪費する行為だから、とてもお金のかかる趣味なのよ。だから決めたら即断即決。これが私のモットー」
ニヤリと笑う中野。目が「$」になっている気しかしない。
なるほど、清々しいまでの姿勢である。
「それに私、もともと大学に行く予定なかったから、今年の夏休みはイベントをたくさん入れていたのよ」
「イベント?」
「イベントって言うのは、多くの人が同じ空間集って効率的に金を巻き上げる……」
「いや意味はわかるから。てか金を巻き上げるとか言うな。せめてお金を巻き上げるって言えよ清純派なら」
「学生が長期休暇に入る夏休みは、声優業界もイベントがたくさんあるの。声優にとっても稼ぎ時なのよね」
「ほう」
「具体的には夏アニメ関連のイベント、2期の放送を待っている段階の作品のイベント、夏公開の劇場版アニメ映画のイベント、ラジオ番組の公開収録イベント、他の声優さんのファンイベントへのゲスト出演、アニメで活性化をもくろむ地方自治体主催のイベント……とかまあ色々あって」
「いくつくらい出るんだ?」
「そうね、両手じゃ足りないくらいかしら」
「3日とか4日に1回ってことか」
「しかも、1日拘束で2回まわしのイベントもあるからね」
「ほんとよく働くんだな。あ、今のは褒め言葉じゃなくて呆れ言葉な」
「呆れ言葉なんて単語はないってのはさておき、これでも断った仕事もあるのよ。理由はギャラ……と言いたいところだけど、単純に日にちがかぶっただけ」
「それを聞いて心底安心だよ」
「声優のギャラがランク制度によって決まっているのは知っているでしょ? その一方、イベントは決まってなくて、基本は言い値なのよね」
「言い値か。いいねそれ」
「だから、ここぞとばかりに声優事務所は強気な値段を提示するの。残念ながら私はまだ高校生で、今ギャラをつり上げると業界内での印象が悪くなりかねないから低く抑えてもらってるのだけど、大学生になればそれも変わるでしょうね」
「言い値が変わるんだな。いいねそれ」
「ちなみに、イベントは製作委員会が企画するんじゃなく、イベント会社の持ち込みであることがほとんどなの」
「え、マジか」
「製作委員会の企画だと自分でお金出すことになるから。その点、イベント会社側のオファーなら逆にライセンス使用料を要求できたりする。リスクをとらずに旨味をとれるの」
「ツイッターに住んでる意識高い系オタクが聞いたら怒りそうな話だけど、まあビジネスってそんなもんなのかもな」
「だから私はイベントのオファーも多いの。毎週末イベント稼働がある月もたまにあって、『私って声優じゃなくてイベント芸人なのかな?』って思ったり思ったり」
「思わないことはないんだな」
声優業界の内情を聞くとき、これまでは事務所内部の話が多かったが、今回はイベント会社にも話が広がっている。なるほど、初心者編はもう終了して中級者編に……とでも思おうかとしたが、単純に中野がべらべら喋りすぎなだけだ。
もはや大半の読者は感じていることだろうが、中野は基本的にお喋りな子だ。学校でずっと無口を貫いていたとは思えないほど、気を許した相手にはずっと喋っている。話し口調や声のトーンだけを切り取ると上機嫌には思えないのだが、ジョークばかり言い、果敢に弄んでくるのを見ていると一応、俺のことを親しい存在だと認識してくれているのも感じるので、そうなると……まあ、正直かわいいよな。
「若宮くんも今度遊びに来る?」
そんなふうに脳内で考えていたので、突然の爆弾投下に驚く。
「えっ俺がっ!? も、もしかしてい、い……」
「そう、イベント。関係者席、美祐子に言えばとってくれるから」
「あ、そういうことか」
てっきり家に遊びにおいでと言われたかと思ったが違った。早とちりしなくて良かった。「いやでも。中野が出るイベントとか、恥ずかしいって言うか……」
「なに、私が恥ずかしいことを舞台上ですると思ってるの?」
「そうじゃねえよ。お、俺が恥ずかしいって言っただけで……」
中野は首をかしげているが、俺としては普段の姿とは違う姿を見るのが、こっぱずかしく感じられてしまうのだ。
べつに、ファンや他の声優さんたちに中野が笑顔を向けたりすることにジェラシーを感じているとかではない。彼女のことを知りたくないワケじゃないし、むしろ知ろうとすることは誠実さの現れじゃないかと思ったりもするし、高寺からも自分のこの傾向については指摘されているので直したいのだが……。
「ま、来たくなったら言ってね」
「お、おう」
中野は俺の葛藤などは気付いていないようにあっさりと述べる。
のだが、そのあと、声のトーンが変わった。
「……ところで若宮くん、その夏休みについてなのだけど」
「ん?」
顔を向けると、心なしかその表情に神妙さが加わっているように見えた。
どうしたのだろう……と思うが、流れが流れなだけに、なにに悩んでいるのかの予想が立たない。
「どした?」
「……いえ、やっぱりいいわ。私、おトイレに寄って行くから」
中野はそう言うと、予備校の中へと小走りで入っていった。
「お金は金なのに、トイレはおトイレなんだな……」