133 女子高生声優は予備校にも通い始める1
小学生向け声優イベントを終えた翌週の週末。の土曜日。
俺はひとり、横浜に来ていた。
横浜と言えば観光客目線では中華街付近を指すことが多いが、今日は普通にJRの横浜駅。ここから歩いて3分の場所にある「俊台予備校」に夏期講習の申し込みに来たのだ。
高校2年生は生徒によって受験勉強への熱の入れようが大きく変わる時期だ。うちのようなそこそこの進学校であれば、受験への意識が高ければすでに勉強を開始しているし、そうでなければまだまだ遊びほうけている。
もちろん、日々のコンテンツ観賞のために限界ギリギリまで勉強を効率化し、好成績を維持することに命をかけている俺こと若宮惣太郎においては、入学した段階で受験勉強を開始していたに等しいので、今特別気合いが入っているワケでもないのだが。
「夏を制する者は受験を制する」とか世間では言うけど、俺レベルになると「それって高1の夏とかも入りますか?」って無意識で聞いちゃうからね。
とまあ、そんな冗談はさておき。(勉強をちゃんとしてるのは冗談じゃないけど)
今日は俊台予備校にて、朝から夕方前まで体験講習会が入っていた。夏期講習の講習を決めるために予備校が用意しているお試しの授業みたいななもので、簡単なガイダンスのあと、実際に英語、数学、国語、理系なら理科系科目、文系なら社会系科目の授業を受け、どの科目の講習を受けるかの参考材料にすることができる。
あくまでお試しなので授業料はかからず、生徒たちは授業や予備校の雰囲気を見ることができる。俊台予備校横浜校は「現役浪人館」と言って、現役生と浪人生のどちらも通える校舎なので、実際来てみると今までの学習塾とは少し雰囲気が違う感じだった。
予備校の夏期講習は基本的に4コマだ。1コマが1時間半で、それを4日連続で受ける。つまり、ひとつの授業で6時間という計算になる。
この4日連続というのが地味にポイントで、俊台の職員たちは「誘惑の多い夏休み、家でずっとひとりで勉強を続けるのはなかなか大変ですよね!? だからこそ、毎日1コマとるのがオススメ!! そうすれば、毎日嫌でも予備校に行くことになりますし、行けば『時間かけて来たわけだし、自習もして帰るとするか……』となるので、結果的に毎日、数時間の勉強時間が確保できますよ!!」とか言うのだ。
そして、口車に乗せられた生徒たちが、10万円近い授業を受けることになる。夏休みは40日くらいあるから、毎日1コマでもそれくらいになるのだ。そうやって不安を煽って、1円でも多くお金を落とさせる。それが予備校のやり方だ。
と、オヤジが前に悪い顔で言っていた。
とはいえ、俺はそんな親父のおかげで、少し助かっている立場でもある。なぜかと言うと、オヤジがここの社員なので、社割的なシステムで半額で受けられることになっているのだ。なぜ社員でもない子供が適応されるんだ……と思わなくもないが、まあよその予備校に行かれるよりは、ということなのだろう。
そんなことを考えながら、最初のガイダンスが淡々と進んでいく。
周りの学生たちは静かにガイダンス担当者の話を聞いているが、基本的にはホームページに載ってるような内容なので俺は予習済み。なので資料を熟読しつつ、申し込む授業を決めて書類に記入していく。
しかし、それでも時間が余ってしまった。
やることがなく、周囲をチラッと見回していると、右斜め前、数メートル先にどこかで見た気がする黒髪の女子の姿があった。光沢のある髪に、長い首。すっと伸びた背筋に、頭だけくっと曲げたような特徴的な姿勢で……横顔が見えると、それは紛れもなく中野だった。
黒縁メガネをかけているが、髪型は学校でしているような三つ編みではなく、後ろでポニーテールにまとめていた。着ている黒のワンピースは一見シンプルな雰囲気だが、よく見ると素材に高級感があったり、ちょっと変わったデザインが施されており、それが醸し出されるオーラに貢献してしまっていた。
(制服だと擬態できても、私服になったらモノトーンでも厳しくなるのか……)
高校生にしては明らかに洗練しすぎており、周囲の女子と雰囲気が違う。もしかすると、イベント用に買った衣装なのかもしれない。
いや、今は服装はどうでもいい。そんなことより、だ。
(あいつ、本当に受験する気になったんだな……)
いやまあ、それはこの間の大学見学のときに、面と向かってそう宣言されたけど、まさかこんなすぐに行動に移すとは。さすがに昨日の今日じゃないけど、でも先週の今日とかではあるワケでしょ?
うん。迷いのなさが、逆にちょっと怖い。
○○○
そんなことを思っているうちに、ガイダンスは終了。
10分間の休みに突入し、生徒たちがぞろぞろと廊下に出て行く。俺も飲み物を買いに行くことにした。
俊台予備校にはどの校舎にも「フロンティアホール」と呼ばれるスペースがある。要するに休憩室のような空間で、そこで休憩したり、食事をとったりできるようになっている
駆け足で階段をおり、俺はフロンティアホールに入る。そこには早めの昼食を取っている人がいるほか、自習している浪人生らしき人々の姿もあった。予備校なだけあって、建物内には自習室は何カ所もあるが、静かすぎる環境だと逆に勉強できないのだろうか。
自販機は全部で6台ほどあった。
欲しい飲み物に目星をつけ、そのうちの一台に小銭を入れようとすると……
「「あっ」」
誰かと手がぶつかり、相手の手から小銭が落下、自販機の下に潜り込んだ。
「すいません……って中野かよ」
「あら、若宮くんじゃない」
さっき、教室のなかで相手の姿を認識していたのは俺だけだったのだろう。中野は一瞬、驚きで眉をふっと上げるが、なにに納得したのかすぐに元の表情になる。そして、形の良い口がふっと開いた。
「どうしてこんなとこストーカー?」
「おい、せめて『どうしてこんなところに?』くらいまで言えよ。断定するのはやすぎて、文章の前半にストーカーが突っ込んでるから」
「そうね。もっともなご指摘だわ」
すると、中野は小さく喉を鳴らし、真面目な表情で言い直す。
「どうしてこんなところに? ストーカー?」
「言い直されてもいい気分はしないな」
「あら、それは言い直させたあなたのせいでしょ? ニュアンスでわかることなのに」
「……あのな。言葉を扱うプロがそんなんでいいのかよ」
「また若宮くんの日本語警察が出動してるわ」
「中野が現行犯するからだろ」
「ぱーぽーぴーぽー」
「間違ってない、聞き方によってはそう聞こえるけど、でも普通ぴーぽーぱーぽーだろ」
丁寧にツッコミを入れていくが、中野は嗜虐的な目でこちらを見ている。
俺を弄ぶのが楽しくて楽しくて仕方がない、という感じだ。
「おふざけ言わないと人と会話もできないのか」
「そんなことあるわよ」
「あるのかよ」
「そんなことあるワケあるのよ」
「だからあるのかよって」
「で、どうしてここに?」
「俺も夏期講習受けるんだよ」
「そうだったのね。でも、お父さんもここの人だものね」
「まあ、それは関係あってなくてあるようなもんだけどな」
「関係あるのね」
「この辺で一番大きな予備校ってここだから」
「たしかにそうね」
そして、中野は小さくため息をつき、首をかしげて頬に手を添える。
「いずれにせよ勘違いしてごめんなさいね、スト宮くん」
「謝る気がまったく感じられないな。べつにいいけど。それより、大丈夫か? さっき小銭落としたろ?」
すると、中野は顔に「?」を浮かべ、どういうこと? という顔を向けてくる。
「え、さっき手当たって落としただろ?」
「ああ、そのことね」
そう述べると、中野は俺に向かって手のひらを広げる。細く色の白い指に目を奪われていると、
「ほら、はやく手を開いて。こんなふうに」
「え、こう?」
言われるがままにすると、中野は俺の手の小銭をなにも言わずにすっと奪い、自販機に入れてボタンを押す。当然ながらゴトンとペットボトルが落ちてきた。
「えっと」
「百円玉を落としたのは若宮くん、あなたのほうよ」
「いやいや無理あるだろ」
「え……もしかして記憶の改ざん?」
「そっちだよ」
びっくりですよ、しれっとお金を強奪して商品を購入して「落としたのはあなたのほう」って事実をねつ造するとは……恋愛映画とかでは本屋で同じ本取ろうとして手が当たったら恋に発展するのに、俺の場合は窃盗に発展するのか……?
しかし、こと金の話になると大人げなくなるのが中野である。平然とペットボトルを開けると、ぐびごびと飲み始めた。そして、3分の1ほど飲み干すと、勝ち誇った顔で俺を見る。その顔には「これでもう飲めないでしょう?」と書いてあった。
まったく、なんて大人げないやつなんだ……。
冷静で大人なルックスの中野だが、実際は意外と子供っぽい。じゃなきゃ、石神井の挑発に乗ってテスト対決をしたり、本天沼さんの挑戦を受けたりしないもんな。
そして、中野は壁にかけられている時計を見ると、思い出したようにつぶやく。
「あら、もう休憩時間終わるわね。私、教室戻るから」
「えっ、でも俺まだ飲み物」
「じゃあ、またあとでね」
そう言うと、中野は振り返らずにフロンティアホールを離れていった。
その後、自販機の下に潜り込んだ百円玉を探した結果、俺が授業に5分遅刻したのは、仕方のないことだった。