131 大学見学3
「痺れたなあ」
「痺れたねえ」
石神井と本天沼さんが、どこか目がトロンとして疲れが出ているが、心地よさも感じているのがわかる、そんな表情だった。
哲学堂先生との時間が終わり、陽向さんと別れ、俺たちは大学の学食にやって来ていた。大学の学生だけでなく、近所の人も入っていい空間らしく、制服姿の俺たちがいても、さほど目立っている感じはなかった。
「大学の先生ってもっと堅苦しい人なのかと思ってたけど、全然違ったね」
「とくに小説家って聞いてたから、もっと陰気な人なのかと」
「前髪長くてメガネが隠れちゃってるようなね」
「でも中野さんにインタビューしてるときとかちょっと変態感出てなかった?」
「あ、たしかに。あたしも思った。りんりんに接近してたし」
「まあ、中野さんに対して好奇心が湧いちゃうのは仕方ないと思うけどね、私も」
「おいおい。変態だなんて、みんな作家に対してどんなイメージを持ってるんだ」
俺としてはめちゃくちゃ胸に響く話をしてもらった直後だったので、思わずそんなクレームを入れたワケだが、
「ねえ、甘い物買いに行かない?」
石神井がそう声をあげると、高寺、本天沼さんがすぐに乗って席を立った。
結果、俺の話は見事にスルーされたのだった。
「すげえいい話してくれたのに、そこまで響いてないのかな……」
「そうかもね。石神井くんと本天沼さんは私たちのようにオタクではないし、それに高寺さんは……まあ高寺さんだから」
「説明諦めたな」
相変わらず、中野はユーモアのツボを押さえている。
「でも、今日の話はインタビューとかでもマジで話したことがないっぽい内容だったんだよ。『別冊カドカワ』とか『ダヴィンチ』とかでも書いてなかったし、先生にとっては黒歴史? なのかな。大学に行かずに小説家になろうとして、デビューできなかったのは。先生、小説家デビューは29歳なんだよ」
「そんなことより若宮くん。私決めたわ」
「そんなことよりって。中野も俺の話とか全然聞いて」
「私、大学に行く」
俺の言葉を遮るように放たれたそのフレーズ。
「ああ、なんだそんなことか。いいんじゃないか、べつに大学に行くことくらい……ええっだ、大学に行くだってっ!?」
「……」
一瞬、普通に受け入れかけるが、すぐに異変に気づき、思わず叫んでバッと立ち上がる。 が、中野は無反応だった。のですぐに我に返って席に座り直し、静かに尋ねた。
「……大学行くってマジ?」
「テンプレすぎる反応で苛立つわね。アニメ? みたいな反応で」
「だって中野、あれだけ大学には行かないって」
「そうね。行かないと思っていたわ。学費もかかるし、仕事との両立も大変に違いないし……でも、哲学堂先生の言葉がね。私が声優講座で子供たちに向かって言ったことと同じで、なんだかその通りだなあ……って」
声優講座で中野は、子供たちに対して「自分自身が楽しむことが大切」と伝えた。
キャラを愛し、いい芝居をしようと工夫することを楽しいと思うことが声優にとって大事であり、自分たちがそうするからこそ、受け手も楽しい気持ちになる……。
哲学堂先生の言葉も本質的には同じことを言っているのだが、長い人生経験が反映された彼の考えが、たしかに深みがあると俺は感じていた。
そして、中野も同じ感想を抱いていたようだ。
「私のしている仕事ってとっても楽しいのよね。人前に出ることとか私自身が注目されることは得意ではないけど、でも答えがないことを突き詰めるのは職人って感じで性に合ってるし」
なんだかすごく中野っぽいことを言っているなと思いつつ、俺は静かに話を聞く。相槌を打つのすらためらわれるほど、彼女はスッキリした表情をしていた。
「『この子はこのくらいの身長だからこんなふうに声が響いて』みたいに考えるのも楽しいし、予想と違う役に決まると『スタッフさんたちは私になにを求めているんだろう?』って思って、そこから新しい引き出しを見つけたりする……実際に経験してみないとなかなかわからない楽しさが、この仕事にはあるのよね」
「だろうな」
自然とそんな声が出るほど、中野は楽しそうに話している……のだが、ここで少し後悔の色が混じった。
「……でも、そういう楽しさを忘れてしまっていたのかもしれない。毎日忙しく働くなかで、オーディションの結果に一喜一憂するなかで。ももたそに競り負けるなかで」
「ももたそはいいだろ今は……」
「まあ、講座の話はいいとして」
コホンと空咳をつくと、中野は無理矢理話を戻す。
「ということで若宮くん」
「なんだ」
「……これからも私に勉強、教えてもらえないかしら?」
俺の目をじっと見ながら、はっきりとした口調でしう述べた。
そして、俺は、中野に負けないくらいはっきりした声で返事したのだった。
「いいよ。任せろ」
その瞬間、中野はちゃんと見ていないと見逃してしまうようなさりげなさで、口元を小さく緩めたのだった。
○○○
自由時間はそんなふうにして終了。野方先生にあらかじめ告げられていた集合時刻が近づき、俺たちは食堂を出た。
集合場所である大講堂に向かって歩いていると、横から視線を感じる。すっと視線をあげると、その先にあったのは茶色くてつぶらな瞳。高寺だった。
元気なので忘れがちだが、中野に比べると小柄な彼女の歩幅は小さい。なので歩みをゆっくりにすると、ニッと笑顔を浮かべた。
「大学見学、意外と楽しかったね」
「そうだな」
「若ちゃんが楽しそーにしてて、私も楽しい気持ちになった」
「え、そんな楽しそうだった俺?」
「うん。憧れの先生に会って話を聞いてサインしてもらって最後は握手して『いつでも遊びにおいで』なんて言ってもらえて、『ああ、俺もういつ死んでもいいわ』みたいな顔してたもん」
「俺そんな死にそうな声してる?」
モノマネ上手な高寺も、さすがに野郎の低い声は出せないらしい。
「……」
と、そんなことを思っていると、高寺が意味ありげにこちらを見ていることに気付く。なにか言うことを考えているのかと思い、俺は黙るが、結果的にお互い無言が長くなるだけだった。
思えば、彼女とふたりきりで話すのは、声優講座が終わってから初めてだった。
どうしていいのかわからないまま、ゆっくり歩く高寺の歩調に合わせていると、結果、前を歩く中野たちとは少しの距離ができる……と、そこで高寺の口がふたたび開く。
「パパ、講座見に来てたんだね」
「ああ。知らなかったのか?」
「だって若ちゃんもママも美祐子さんも教えてくれなかったんだもん……」
「ごめん……その、言えば高寺が緊張するかと思って」
「うんまあ緊張というか、恥ずかしくて思いっきりやれなかったかなってゆーか」
「高寺に恥ずかしいとかあるんだな」
「あるしっ! 失礼なっ!!」
ふたたびなじるような言い方になるが、すぐに笑い堪えきれず、ぷっと吹き出す。
「ありがとね、若ちゃん」
そして、感謝の言葉を述べた。
「あのあと電話が来て、いろいろ話してさ」
「いろいろな」
「まあそこは話すと長くなるから省略するけど」
「省略すんのかい」
「声優の仕事はやっぱり応援しないできない、でも反対ももうしない、って」
「……そうか」
でも実際のところ、俺が聞きたかったのは、その要約の部分だった。というか、正直、それで十分だった。幸四郎氏の話は伝聞でも面倒そうだからな。
「認めてくれたんだな」
「認めてくれた……のかな?」
「俺はそう思うけど」
「なら良かった……あたしさ、今回声優講座のお手伝いしてみて思ったんだ。頑張るって、大事なことなんだなって。そんでもってちゃんと頑張ってる姿を見せて、言葉で伝えるのは大事なことなんだなって」
「親に?」
「うん。親の背中を見て子供は育つって言うけど、子供は努力を背中で語るだけじゃ足りなくて、ちゃんと顔を見て、『頑張ってるよ』とか『ありがとう』とか伝えなくちゃいけないんだなって。そうしないと、わかってくれないんだなって」
「なるほどな」
「でもさ、そうやってちゃんと自分から伝えるのって親に限らず大事なことかなって」
そこまで言うと、高寺はトタタと前方に軽く走り、数メートル先で立ち止まる。そして、振り向くと、俺に対してこう宣言した。
「だから若ちゃんにも自分の気持ちは自分で伝えていきたいし、見せていきたいなって」
「……わかった。俺もちゃんと受け止める」
あどけない笑顔から放たれた声は、夕方の風に乗ってそっと俺の耳に届く。
俺の言葉に対し、高寺は満足げにニコッと笑い、俺の近くに走って戻ってくる。先に進んだ意味がない。が、彼女らしい。
「若ちゃん、ここの大学にする? 志望校」
そして、カラッとした声で尋ねてきた。
おかげで雰囲気が少し変わる。これも声優の能力のおかげだろうか。
「そんな簡単には決められないけど……ま、悪くないかもな」
「悪くないってことは、すっごくいいってことだよね」
「俺のことだんだんわかってきた?」
「まーねっ」
「……そうだな。普通にすごく楽しかったし、大学に行くのが楽しみになった。哲学堂先生もおいでって言ってくれたし、また行きたい……いや、行くよ。絶対行く」
「そっか」
高寺は小さな子供を見るかのような、慈愛に満ちた目をしていた。同い年としてはツッコミを入れたくなるが、そのあと続いた言葉で俺は口をつぐんだ。
「嬉しかったんだ今日。若ちゃんが、楽しそうな顔をしてて……あたし、好きな人が楽しそうな顔をしてるのを見るのが好きだから」
「……」
「あ、今の好きって男の子としてって意味じゃないよ?」
「言わなくてもわかることを言って傷つけるのはやめてもらえるかな?」
怒った雰囲気を演出しつつ言うと、高寺は視線を落とし、なぜか足元を見ていた。
当然ながら歩みは止まっており……それはまるで今自分がいる場所を確かめ、この先どちらに進むのか、頭のなかで考えているかのようだった。
俺としては冗談で放ったツッコミだったので、言い方が強かったかな、びっくりさせちゃったかな……と内心若干焦るのだが。
高寺が夕方の空に放ったのは、こんな言葉だった。
「じつはね……若ちゃんのノートを拾ったの、あたしなんだ」