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130 大学見学2

 哲学堂先生の研究室兼ゼミ室は、一言で言うと本棚だった。


 ドアから入って正面には大きく古いビンテージ風なデスク、その手前には背の低いテーブルと左右に色違いのソファーがあり、人間が仕事をしたり座ったりできる空間があるのだが、それ以外は基本的に本棚。天井に届きそうなほど巨大な本棚が左右にあり、開いたドアの奥に見える資料部屋にも無数の本棚が確認できる。もはや「部屋に本棚がある」というより、「本棚のなかに部屋がある」と言ったほうが適切に思えるほどだ。


 蔵書もバラエティに富んでいた。国内国外ハードカバー文庫を問わない膨大な数の小説に、英語のペーパーブックに研究書に新書。またマンガや映画のDVDなどの置いてあり、哲学堂作品の知性の源を目の当たりにした感じだった。


 それらは規則正しく置かれているワケではなく、むしろ著者の五十音や本のジャンル等、かなりあべこべに置かれているのだが、不思議なバランスで成立。一言で言うと絵になっていた。


 中野を見ると、興味深そうに壁の本棚を眺めていた。大学という場所に一切興味を持っていなかった、というより興味を持たないように自分に言い聞かせていた感もあった彼女だが、初めて訪れた研究室という場で、素の自分が出てしまっているのだろうか。


 すると、そんな様子に気づいたのか……


「この研究室は北向きなんだ。普通、マンションを借りるときは南向きを選ぶだろう? でも、本は日光で焼けてしまうから、保存するには良くないんだ」


 哲学堂先生が、ガラスのコップにアイスコーヒーを入れながら述べる。


 小洒落た形のポットは水出し専用のもののようで、注がれたコーヒーがコップの中の氷に当たって心地よい音を立てていた。


 差し出されると、俺たちは一礼しつつ、それを口に含む。重厚な苦みが舌先を弄び、口のなかに広がった。十代にはまだよくわからない美味しさなのか、俺以外の面々も苦い顔をしている。だが、陽向さんだけは飲み慣れているのか、ニッコリ笑顔だった。


「君たちはうちの大学志望なのかな?」


 見上げると、哲学堂先生がこちらを見ていた。雰囲気こそ作家らしく、威厳を感じさせるが、口調は思いのほか穏やかだ。


「それはまだわかりません」

「だよね。2年生の段階で決まっている子のほうが少ないか」

「だと思います」


 答えたのは中野だった。大学に行かないことを決めている彼女がそう述べたというのが皮肉だが、大人と話すのに慣れている、石神井にこういう場で話すとロクなことがない等の理由で、自然と中野が受け答えする雰囲気になるのだ。


 すると、そこで哲学堂先生が思わぬ言葉を放つ。


「ま、そもそも大学に行かない子もいるかもしれないしね」

「……」

「あれ、もしかして君もそうなのかな?」


 中野はそれに答えなかったが、答えないという反応が答えと判断したのだろう。すると、哲学堂先生はなぜかノートとペンを取り出すと、小さな折りたたみ式のイスを開き、腰をおろした。中野のすぐ側だ。


「やめた、大学やゼミの話をするのは。代わりに聞かせてもらう」

「えっ……」

「良かったら詳しく話を聞かせてもらえないかな? じつは久しぶりに高校生たちのお話を書いているんだが、大学進学についての描写に説得力を持たせたくてね」

「じゃあゼミの方に聞いたほうが……」

「いや、うちの大学に来るような子は、そもそも『大学に行かない』という選択肢が頭のなかになかった子たちなんだ。だから、君のように進学校に在籍しながら違う選択肢を持っている子は珍しくて……どうだろうか」


 気付けば、哲学堂先生は中野ににじり寄っていた。威厳たっぷりだと思っていたが、今は新しいことを知りたいという好奇心を強く感じさせ、目は子供のように無邪気に光っていた。


 中野が陽向さんを見ると、彼は申し訳なさそうに首元を搔く。


「哲学堂先生は取材魔でさ。面白そうな人がいればすぐこうやって話を聞こうとするんだよ……まあ正直、高校生にもそうなるとは思ってなかったけど」


 そして、視線が中野に集まった。


 数秒間、周囲を見返すが、小さくため息をつくと、彼女は哲学堂先生に向かって黙ってうなずいたのだった。



   ○○○



「……というのが私の簡単な生い立ちで」


 その5分後、中野は哲学堂先生に対し、自身のこれまでの人生を簡単に説明していた。


 もともと子役で、児童劇団を経て現在の声優事務所の所属となったこと。


 小学校時代は外画の吹き替えが中心で、学校にも普通に通っていたこと。


 12歳のときに両親が事故死し、生活費などを自分で稼ぐようになったこと。


 姉と妹がおり、ともに5歳離れていること。


 ……などなど、現在の彼女を形成する情報が述べられていった。そのなかには俺が初めて知った情報もあった。


 現役の声優だったと知った際はさすがに少しばかり驚いた様子を見せたが、すぐに冷静さを取り戻すと、哲学堂先生はときに質問を交えながら、中野の話を聞いていく。その真剣な様子に、最初こそ「どうして大学見学中の高校生が教授にインタビューされるんだ、逆じゃないのか」と思っていた俺たち一向も、普通に聞かされてしまっていた。


「ってことは、本当は大学見学には乗り気じゃなかったんだ?」

「そうですね。学校行事で、しかも進級に必要そうだったので来たんですけど……あ、でも今は哲学堂先生とお話できているので、来て良かったと思ってますけど」

「ま、実際話を聞いているのは私のほうだけどね」


 そして地味に、哲学堂先生は会話が上手だった。的確に質問を返し、中野の返答の情報量が少ないと感じた場合は、別の角度から尋ね直す。インタビューされている中野は一切気付いていないようだが、段三者として見ていると、しつこさを感じさせない話の持っていき方に感心してしまう。


(小説家って話を作るのが上手なだけじゃなく、話を引き出すのも上手なんだな……)


 そんなことを思っていると。


「では本題だけど……中野さんはどうして大学には行きたくないのかな?」


 哲学堂先生のインタビューは本題に入る。両膝に両肘をつきながら、前のめりになっており、純粋に話を聞くのを楽しんでいるのが伝わってくるし、だからこそ中野も話してしまうのだろう。


「もちろん学費という現実的な問題もあります。私より妹のほうが勉強が好きで、しかも勉強ができるので、彼女になるだけお金を残してあげたいって気持ちもあります……でも、本音を言うと大学に行く意味があるように思えない、というのが一番です」

「なるほどね」

「私はすでに声優として食べていけるだけの稼ぎがありますし、それに今はまだ同年代の声優は少ないですけど、この先増えてくると思います。競争がますます激しくなるのがわかっていて、どう役立つのかわからない大学に行く意味がわからないんです」


 中野の発言は、至極まともだと思えた。将来なんの仕事につくかわかっていない子供ですら「今の勉強が将来なんの役に立つのだろう?」と疑問に思うのだから、すでにお金を稼ぐ術を知っている中野が大学に行く意味を見いだせなのも当然だ。


 と、そこで哲学堂先生は姿勢を正した。ノートとペンを置き、俺たちの顔をグルッと見回す。


「彼女が真面目に胸のうちを明かしてくれたということで、私も少し昔話をしようかな。インタビューでも話していない内容だ」


 そう言われると、自然と興味が増してくる。


「僕は小さな頃から本が好きでね、小学生の頃には小説家になりたいって思ってたんだ。だから一度は君と同じように、大学に行かない決断をした」

「え、でもたしかここの大学を……」

「卒業はしている」


 俺の相槌を、哲学堂先生は肯定したうえで、こう続けるする。


「でも、入学したのはハタチになった頃だったんだ。つまり高校を卒業して2年ブランクがあるんだ。声優と同じで、小説家も実力がすべての世界。面白い作品を書けば中卒でも評価され、逆に作品がつまらなければいくら高学歴でも意味がない……私は少し痛い子供でね。自分が小説家になることを疑ってなくて、学生のときは授業中ずっとノートに小説を書いてるような子だったんだよ」


 ベストセラーを何作も世に出している哲学堂先生にそんな青い時期があったのか……と俺は内心少し驚く。


「それで一旦高卒で働きながらそれまで通り小説を書いて、新人賞の公募に送るようになったんだけど……ある時期から小説を書くのが楽しくなくなってしまったんだ」

「それはどうしてですか……?」

「単純な話さ。自分のなかの泉が完全に枯れてしまったんだ。今ならわかるけど、創作というのはインプットとアウトプットの繰り返しだ。いろんな作品に触れて、いろんな経験をして、それを自分の作品に変えていく」


 そこで哲学堂先生は、本棚に並べられた膨大な蔵書たちに視線を送る。


「でも当時は若くて触れてきた作品の数も今より少なかったし、なにより人生経験が足りなかった。原稿用紙に向き合うたびに胸が苦しくなったりしてね、当時は苦しかったよ」

「役者も同じところあると思います」


 中野がボールを返す。


「役を演じるとき、自分が経験した感情しか結局出せないんです。それに、うまく出せても自分が空っぽになるような感覚もあって……」

「どんな仕事もそこは同じだよね」


 哲学堂先生は優しく微笑んだのち、さらに話を続ける。


「でも僕にはひとつ幸運なことがあった。当時編プロ……編集プロダクションっていう、要するにライターや編集者が集まった会社があるんだけど、そこでバイトしていてね」


 哲学堂先生が出版社で編集者として働いたあと、フリーランスのライターとして活躍していたのはWikipediaにも載っているような周知の事実だったが、まさか大学入学前にもそういう経験があったとは。


「当時は雑誌全盛の時代で、カルチャー誌、ムック本、ビジネス書、頼まれるものは何でも作っていたんだけど、あるときから大学の先生に取材することが増えてさ……もともと勉強が好きじゃなかったから、最初はすごく嫌だったんだよ。今思うと、高卒にコンプレックスもあったんだと思う。自分で選んだくせになにを言うか、という感じだけどね。でも、そうやって仕事で行くうちに『あれ、これすごく面白いぞ』と思うようになって」

「どうしてそう思うようになったんです?」


 俺が尋ねると、哲学堂先生は優しい笑みを浮かべる。


「たとえ話をしよう。今、日本では出版不況と言われてて、実際、多くの本屋が廃業を余儀なくされてるのは知ってるかな?」


 俺と中野がコクンとうなずく。


「でも、それでもアメリカに比べるとまだまだ本屋さんは多いんだ。少なくともアメリカで郊外の街に本屋さんはない。でも昔に比べてとかではなく、昔からなかったんだよね。なぜかというと、アメリカは日本と違って国土が広いから本を輸送するのにコストがかかりすぎて、書店文化がそのもの根付かなかったんだ」

「じゃあ、本って売ってないんですか?」

「いい質問だ。そう思うよね? でも実際は、書店文化が根付く代わりに、雑誌の定期購読文化が生まれた。家に届けてもらうんだ。書店に行けば1冊10ドルするような雑誌が、定期購読なら1年20ドルとかなんだよね」


 それでどうしてビジネスが成り立つのか……と思っていると、哲学堂先生は本棚から一冊の雑誌を取り出し、俺たちに差し出した。アメリカのインテリア雑誌のようで、分厚いが、中を見ると読み物としてのページは少ない。


「向こうの雑誌って、半分くらい広告なんだよ。その売り上げで稼いできたから、雑誌そのものの値段がタダ同然でも成り立った。もちろん、今はそのビジネスモデルも難しくなってるんだけど」

「なるほど。国によって出版文化も違うんですね」

「そういうこと……さて、例え話が長くなったけど、今の話は本に興味がある人とか本屋さんに行くのが好きな人とか、日本の出版事情を知っている人なら面白いんだ。つまり、この話から引き出される普遍的事実は『なにかを楽しむには知識が必要だ』ということなんだ」


 その言葉を、俺たちは黙って聞く。


「僕は出版業界で働いた経験と、日本の出版業がどう移り変わってきたかに関する知識がある。だから、アメリカの出版業界の最近どうなのかを聞いて、それを楽しむことができる。中野さんも、そういうことはないかな?」


 哲学堂先生の問いかけに、中野は少し考えたのち、言葉を選んでこう述べる。


「アニメでよくあるパロディは、そんなふうに感じることがあります。元ネタを知ってるという部分でまず楽しめるし、そしてそのパロディが元ネタとどんなふうに違っているのか、みたいな見方もできます」

「そうだね」


 中野の言葉に、哲学堂先生はうなずく。


 俺自身、中野の考えは同感だった。パロディなんかは知識の有無で楽しさが変わるもっともわかりやすいものだし、知識があるからこそわかる違いというのもある。醤油ラーメンの味を知っているからこそ豚骨ラーメンの味の違いを楽しめるような話で、つまり味そのものだけではなく「味の違い」も楽しめる……先生が言いたいのはきっと、そういうことだろう。


「そうやって、知識が楽しさに繋がると知ったから、私は大学に行くことにしたんだ。いろんなことを学んで知って、できるだけ多くのことを楽しめるようにする」

「いろんなことを楽しめるようになるため、大学に行く……」


 中野が反芻すると、哲学堂先生は静かにうなずく。


「だから今でもあらゆる芸術、エンターテイメントが好きだし、政治も法律も教育も福祉も若者のドラッグ問題もサブカルチャーも裏社会の話もみんな興味があって、楽しいんだ……雑誌のインタビューや講演会なんかでよく『どうすればそんなに面白い作品ばかり書けるんですか?』って聞かれるんだけど、じつは単純な話なんだ。私の作品が面白いのは、生きることそのものを楽しんでいるから。ただそれだけなんだ」

「でも、先生の作品が面白いのは、面白いものを作るための方法論とかテクニックとか、そういうのを地道に蓄積していったからで……」

「もちろんそれもあるよ。でも、中野さんはそれだけだと思うかな?」

「それだけ……」

「シンプルに言うと『自分が楽しむからこそ作品は面白くなるし、受け手も楽しい気持ちになる』。そういうことなんだ。もしかすると、君の業界のほうが耳にする言葉じゃないかな?」


 その言葉に、もともと大きな中野の目がさらに大きく見開き……そして、静かに深くうなずいた。実感をともなったうなずきだった。


 と同時に、俺も哲学堂先生の言葉に、少なからず胸を打たれていた。


 色んな知識をつけ、色んな経験をすることで、生きることそのものを楽しくする。そうすることで自然と手がける作品も面白くなる……哲学堂先生の言葉は、俺のなかにあった陳腐な作家観、クリエイター観を崩すのに十分だった。


 俺はてっきり、モノを生み出す人というのはもっと孤独で、いろんなものから追い詰められている人種なのだと思った。人生が背水の陣だからこそ、作品に神がかったなにかが注ぎ込まれる。そんなふうに思っていたのだ。


 でも、少なくとも哲学堂先生は違った。もっと人生を前向きに生きており、知ることに対して貪欲で、謙虚で、恐れることもない。


 今までの斜に構えた自分なら「人生を楽しむ」とか「知ることを恐れない」みたいなメッセージを目の前にすると、まず間違いなく、鼻で笑っていたはずだ。


 でも、今日はそんなふうには思えなかった。


 それくらい、哲学堂先生の言葉は説得力に富んでいて、俺たち高校生にも十分通じるほどわかりやすかったのだ。


 と、そこで哲学堂先生が俺のほうを向いて、笑っていることに気付く。


「どうだい? 私の言葉届いたかな?」

「届きました……それはもう、ばっちり」

「それは良かった」


 そして哲学堂先生はお茶目な笑顔を見せながら、冗談っぽい口調でこう述べたのだった。「まあ、これが小説家の力ということかな? 読者の心を動かす、プロの小説家のね」



   ○○○



 哲学堂先生による中野へのインタビューののち、俺たちは大学の話を聞くことになった。本来の目的はそっちのはずだったが、なんやかんやで研究室に到着し、1時間ほど経ってからだった。


「じつは先生の本、読ませてもらってます。30冊くらい、ですけど……」


 そこで俺は、自分が哲学堂作品の読者であることを告げた。


 すると、哲学堂先生は「そうなんだ。それなら早く言ってよ」などと軽くなじるように言ったのち、とても嬉しそうな顔でこんなふうに述べたのだった。


「それだけ読んでくれる人はなかなかいないし、1冊しか読んでいなかったとしても、私はその人にとっても感謝しているよ」

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