128 声優体験講座を終えて…
すべての授業が終わると、子供たちは親と一緒に帰って行った。
なかには美祐子氏や中野、あるいは高寺や陽向さんに話しかけている親子もいた。個人的な相談や談笑、今後、小学生コースが開設された際に実際に先生をやるのかなど、色々と尋ねられているようだった。
なごやかな光景に胸がじんわり熱くなりながら、俺は用を足しにトイレへと向かう。すると、そこには先客がいた。
「どうも。お疲れ様です」
「私が疲れているように見えるのか?」
「いや、今のは社会人的な挨拶というか……」
「君は社会人なのか? 学生ではないのか?」
こんな問答をしてくるのは、俺の知り合いではひとりしかいない。高寺の父、幸四郎氏である。先程まで用を足していたようで、手洗いを済ませると小便中の俺の横に戻ってきた。腕組みしつつ、壁に持たれているので非常に小便がしづらい。
「あの……」
「気にするな。私は君のイチモツに興味はない」
「僕が気にするんです。まあもう終わったんでいいですけど」
そして俺が洗面台に戻ると、腕組みしたまま幸四郎氏も移動。ふたたび壁にもたれかかった。
「……」
これまではなにかと意味不明な発言をしていた幸四郎氏だが、今はじっと黙って俺を見ている。イチモツに興味はないとさっき言ったけど、なんだか吟味されている気がしてならない。
「栄実さんはもう帰られたんですか?」
「いや、外で待っているよ。私ではなく円をな」
「でしょうね」
「感想を伝えたいそうだ。この後の打ち合わせは結局リスケしたらしくてな」
「大丈夫なんですか」
「余韻に浸りたかったんだろう。満足したということだな」
「そうなんですね」
その言葉にホッと安堵する俺。
鏡越しに見える幸四郎氏は、眉間に深く入ったシワをゆるめていた。
「正直、私も驚かされた。ふたつの意味でな」
「ふたつ」
「ひとつは、授業そのものの完成度だ。子供たちも楽しんでいたし、なにより親が満足していた。子供たちはわからなくとも、どこをどう工夫しているかというのは親は結構わかるものだからな」
「もうひとつは何ですか?」
俺の問いに、幸四郎氏は真面目な顔でこう答える。
「円の成長だよ……あの子がソフトボールをしていたのは、もう話したな?」
「ええ」
「昔から熱くなると周りが見えなくなることがあってな」
「どんなふうにです?」
「たとえばワンアウトランナー1・3塁で、1塁ランナーが盗塁するとすかさず2塁に投げ、3塁ランナーのホームへの生還を許してしまう……みたいなことがよくあった」
「それ、キャッチャーとしてダメダメじゃないですか」
「だが、今日は子供たちの様子をひとりひとり見ていた。控えめな性格の子に声をかけたり、子供たちの雰囲気を見て組み合わせを変えたり、そういう細かな工夫があった。もともと人当たりの良い子ではあったが、以前は見られなかった行動だ」
たしかに、そこはそうかもしれない。
出会った当初の高寺はなんていうか今より猪突猛進で、中野にも俺にも自分のペースで接してきていた。
もちろん今も自由気ままな部分は残っているものの、周囲の人々に対して繊細な気遣いを重ねる中野と接することで、視野が広くなっているような感じはあった。中野のプロフェッショナルさに触発されているように感じた。
「じゃあ、声優になることを応援して……」
「それとこれとは別だ。不安定な仕事に就くことを応援したりはしない」
幸四郎氏はぴしゃりと言った……と思いきや。
「……だが、反対ももうしない」
「えっ……」
「声優の仕事がうまくいくかはわからない。だが、ああやって真面目に打ち込み、人間として成長しているなら、それらすべてムダになることもないだろう。そう思ったんだ」
その言葉に胸の奥がぎゅんとなった。
高寺の努力が通じたとわかり、なんだか自分のことのように嬉しく感じたのだ。
○○○
幸四郎氏とともに一階に降りると、ロビーにいかにも仕事ができそうな風貌の女性がいた。ソファに腰掛け、物凄い勢いでパソコンをポチポチしている。どうやら娘とはまだ会っていないらしい。
「遅かったじゃない」
「お疲れ様です……ってもしかして俺を待ってました?」
「そうよ。円にはもう会って感想伝えたからね」
「あ、そうなんですね」
「それで『今は……今もパパの顔はちょっとアレかな』って戻って行っちゃった」
クスッと笑うと、幸四郎氏が眉間のシワを深くする。
腹は立つが、言い返したりはしないらしい。俺のときはなんにでも噛みついてくるのに、接し方が全然違う。
そんなことはさておき、栄実さんとの会話である。
「とっても楽しかったよ。授業そのものも良かったし、なにより円が頑張っている姿を見られて良かった……まあ正直な話、あまりにも酷ければ見切りをつけて呼び戻すのもアリかな~って内心思っていたんだけど~」
「え、そうだったんですか」
「うん」
「でも一人暮らしの費用とか引っ越し代とか栄実さんの負担ですよね?」
「そうだけど、私って経営者でしょ? 現状維持なんて存在しない、伝統を維持するためにこそ革新が必要だってスタンスで、新規事業大好きだけど、でも見込みのないって思ったら撤退も早いから」
なるほど。娘に甘い母親なのかと思いきや、案外そうでもなかったらしい。幸四郎氏があれだけ高寺に対して高圧的にいけるのも、栄実さんと100%意見が対立しているワケじゃないからなのかもしれない。そう思いつつチラッと幸四郎氏のほうを見ると、彼は「それ見たことか」という感じでドヤっていた。やっぱ随所随所でウザいな、このオッサン……。
「なにはともあれ良かったです。今回は幸四郎さんも納得してくださったみたいですし」
「ああ。その件か。彼は、円に声優になってほしくない理由があるからね」
「安定してないってのですよね」
「いや、そんな理由じゃないけど……」
「おい栄実、その先は言わない約束だろ?」
栄実さんがキョトンとしていると、幸四郎氏が後ろから割り込んできた。
「え、誰も言うなんて言ってないけど。もしかしてそれって言ってほしいってこと?」
「いや、そうじゃなくて」
「円にも話してないのに……あなた、私のこと信用してないのね?」
「離婚した元妻を信用してる元夫なんかいるワケないだろ?」
「だよね。ってことで若宮くんには言うけど」
「しまった」
「なんですかその夫婦漫才」
「元夫婦漫才ね」
「元夫婦漫才な」
栄実さんと幸四郎氏の声が被る。ほらやっぱ夫婦漫才じゃないか。そして夫婦の部分は否定しても、漫才の部分は否定しないんですね。
「じつは彼、大学の頃、演劇をしていてね」
「……ええっ!! マジですかそれ」
「マジなのよそれが。大学の演劇研究会に入ってて、熱中するあまり留年したりしてね。一時期はプロの役者を目指してたのよ。ま、やってた芝居が前衛的すぎて全然ダメだったんだけど」
そう言うと、栄実さんはスマホの画面を俺に見せる。そこには全裸に近い衣装の幸四郎氏が、なにやらヘンテコなポーズをとっている最中の写真がうつっていた。
「うわ、なんですかこれ」
「若き日の彼」
「それはわかってますけど……なんですかこれ」
尋ねると、さっきまで近くにいたはずの幸四郎氏がない。離れた場所にあるホワイトボードの裏側に逃げ込み、そこからこちらを見ていた。
「俺の黒歴史が……」
「幸四郎さんがプロの役者目指してたってのも驚きですけど……なのに娘には声優になるなって……説得力ないっすね」
「だからこそ円にはそっちの道に進んでほしくないんだろうね」
「なるほどなあ……」
とそのとき、俺は幸四郎氏が「声優」ではなく「役者」という言葉を使いがちだったことに気付いた。声優は役者の仕事のうちのひとつに過ぎないワケだが、素人にあまりその感覚はないし、そもそも演技に触れたことのない人は「俳優」と言いがちだ。俺含めて。
「親って勝手なもんでしょ」
栄実さんの言葉に、俺は呆れつつ、実感を込めた声でつぶやいた。
「勝手なもんですね」
○○○
専門学校の前。
幸四郎氏を俺は見送ろうとしていた。栄実さんはすでに近くの駐車場に停めてあった外車に乗って、帰ってしまっていた。
「若ちゃん、今日は色々と世話になった」
「いえ、俺はべつにたいしたことしてないので」
「それは……まあそうだな」
「認められると傷つくんですけどね」
「でも、事実だろう?」
別れ際も幸四郎氏は幸四郎氏らしい。円と相性が悪いのも納得だし、この男性と栄実さんがどうやって恋に落ちたのかも謎だ……議員と九州を代表する大手企業の跡継ぎ娘だから、もはや政略結婚とかのほうが納得だ。
そして、幸四郎氏はタクシーの後部座席に乗り込んだ。
「最後まで円とは話せなかったけど、まあ良かったよ元気な顔を見られて」
「なら良かったです」
「最後に若ちゃんにお願いがあるんだが」
お願い? 幸四郎氏が似合わないことを言うので戸惑う。どうしたんだろう。
「なんでしょう」
「もしあの子がなにかに悩んでいそうなとき、良かったら話を聞いてやってほしいんだ」
「そりゃもちろん聞きますけど……どうしてです?」
「君はどこまで聞いているかわからないが……」
そして、幸四郎氏が放ったのは、俺の予想を裏切る言葉だった。
「円はソフトボールから逃げて来たんだ」
「……どういう意味ですか? 小学生のとき、日本一になるくらいだったんですよね?」
「そうだ。そして逃げた。だから役者の……声優の仕事からも逃げそうになったら、踏みとどまらせてあげてほしいんだ」
そこまで言うと、幸四郎氏は運転手さんに向かって「駅まで」と告げた。ドアが閉まり、ゆるやかにタクシーが離れていった。