127 声優講座本番5
そして、中野と高寺の立ち位置が入れ替わる。
「今回は桃太郎を私、おじいさんを上荻くん、おばあさんを高寺さんが演じます」
中野は両隣の高寺と陽向さんを見ると、コクンと小さくうなずく。そして、中野版の桃太郎が始まった。
「おじいさん、おばあさん、どうして泣くのですか……鬼を倒せば村の人たちがみんな幸せになる、おじいさん、おばあさんも今より豊かな暮らしができる。なにも悲しむことはないじゃないですか」
中野が演じる桃太郎は青年に近い、少年の声だった。年齢設定は14、5といったところだろうか。高寺が演じていたときより落ち着いており、声のトーンが低い。そして、どこか悲しみを自ら押し殺しているかのような雰囲気があった。
「私たちはもう先も短い。豊かな暮らしなど……」
「それに私は、私の意思で鬼ヶ島に行くんです。村の人たちに言われなくても、いつかこうして、ひとりの大人として自分の務めをまっとうすることになっていたでしょう。私はそういう男なのです」
高寺のときと一言一句変わらないセリフだが、印象は大きく異なる。とくに「私はそういう男なのです」は、高寺桃太郎のときは自分への自信とか、内から湧き出る衝動を抑えきれない感じがあったが、中野桃太郎にはその逆の、自分という存在に対する諦めが感じられた。
周囲に求められた結果、自分の意思を捨てて戦いに出る。自分が物わかりのいい人間であることを自分自身で自覚しており、そして、そうやって自覚している自分が情けなく感じている……という感じだ。
「私がもう少し若ければ、一緒に行ったのだが……」
「おじいさん、私なら大丈夫です。必ずすぐに戻ってきます。だから、今日はさよならは言いません。おじいさん、おばあさんもそうしてください。ね?」
そして、最後のセリフは、もはや悲壮感すら感じさせた。自分がもう戻って来られないかもしれないことをわかったうえで、おじいさん、おばあさんに少しでも安心させようとすつ気遣い。最後に、申し訳なさげに添えられた「ね?」も、ふたりに向けて言っているちうより、自分に言い聞かせているかのような弱々しさだった。
気付けば、教室中が熱を帯びていた。プロの声優の演技を見て、そしてキャラへの向き合い方を見て、声の俳優である声優の仕事の奥深さを垣間見たようだ。
「こんなふうに、キャラは演じる人や演技のプランによって、大きく変わってきます。感情の流れを理解して、それを丁寧に丁寧に組み立てていくんです。今日の授業では、そうやってプロの声優がやっていることを、一緒に体験してみましょう」
中野の言葉に、子供たちが元気よく「はい!」と声をあげた。
○○○
その後、午前の授業と同じように、俺たちはスタジオでの授業へと向かった。プロの声優の演技にすっかり魅了された子供たちは、どの子もとても真剣な表情で、初めてのアフレコ体験をこなしていく。
きっと、この中からそう遠くない未来、プロの声優が出てくるのだろう……なぜかそんなふうに強く感じてしまう、雰囲気だった。
「皆さん、今日は短い時間でしたが、私の授業を受けてくれてありがとうございました」
スタジオでの授業が終了し、教室に戻ると、中野は子供たちに語り始めた。
「人に演技について教えるのは初めての経験でしたが、とても楽しくて、あっという間の時間でした。真面目に、熱心に聞いてくれて本当にありがとう」
中野はそう述べると子供たちに向かって頭を下げた。長い黒髪がふわっと浮き、はらっと下りていくと、その後頭部に無数の拍手が降り注ぐ。
数秒後、中野が笑顔で顔を上げると、端に立っている高寺と陽向さんに視線を向けた。
「今日、私と一緒に講師のお手伝いをしてくれた、高寺円さんと上荻陽向さんです。それぞれ、一言ずつお願いします」
中野がそう言って、高寺と陽向さんにうながす。
「鷺ノ宮さん……!」
「ちょっと、りんりんっ」
ふたりはともに驚いたような顔をしている。きっと、台本にはない展開だったのだろう。 だが、中野は進行をやめない。ふたりを手招きし、なかば強制的に壇上にあげた。
そして、まず爽やかな笑顔で陽向さんが生徒たちに挨拶する。
「えっと、今日はありがとうございました。自分は結構直前に参加が決まったので正直不安で、昨日とか一睡もできてなかったんですけど」
陽向さんは笑いながらそう述べる。子供たちもクスクス笑っているが、根暗っぽさを感じさせる陽向さんの性格を知っている者としては、本当に寝られなかったんだろうなと思ってあんまり笑えない。
「でも、楽しい授業になって、自分も声優を目指そうと思ったときのことを思い出して、すごく懐かしい気持ちになりました。ありがとうございました」
そう話すと、陽向さんは一礼。子供たちは、パチパチと拍手する。
それが鳴り止むのを待って、高寺がすーっと息を吸い込むと、挨拶を始める。
「今日はアシスタントとして参加させてもらって、とっても楽しかったです。あたしは鷺ノ宮さんや上荻くんみたいと違ってアニメとかまだ全然出られてない新人中の新人で、メインキャストも一回も取れてない新人だけど、でも気持ちはプロのつもりです」
その言葉を聞き、教室の端で聞いていた幸四郎氏の表情が、ピクッと動くのがわかる。
「もしまたこういう機会があれば、みんなに名前を知っていてもらえるように、頑張りたい。いや、頑張ります! だから、みんなも本気で頑張ってください!」
大きな声で宣言し、激励すると、高寺は笑顔で頭を下げた。子供たちが引きつられるようにして笑顔を浮かべ、パチパチと拍手する。
「ふたりとも、今日は本当にありがとう」
中野が高寺から話を引き継ぎ、ふたたび教壇の真ん中に立つ。その表情が至極真面目であることに気づき、子供たちの表情が引き締まる。
そして、それを待っていたかのようにして、中野の落ち着いた、透き通った声が教室中に響き渡る。
「正直、声優の世界は大変です。『狭き門』という言葉がありますが、それだけじゃない。狭き門の向こう側にある道も狭いんです。踏み外すと、すぐに転落してしまうような道がずっと続きます。私の人生も現在進行形で断崖絶壁です」
そんな現実的なことを、中野はニコニコと語る。子供たちが険しい表情になっていくのと対照的で、それが余計に凄みを感じさせる。
「今日一日、講師という仕事をしていた私があまり言うことではないかもしれませんが……正直なところ、簡単におすすめできる道ではありません」
さらに続いたそんな言葉を聞き、子供たちのうち何人かの顔が下にさがった。
現役声優の口から語られる想像以上の現実から、目を背け、耳を逸らしたい……そんな気持ちが自然と出たような態度だった。
「でも不思議な話、声優になったことを後悔してる方ってすごく少ないんです……いや違うな。『もし声優じゃない人生だったらどうなっていたんだろう?』と考えたことがある人はたぶんたくさんいます。でも、そう考えたうえで『声優で良かったな』と思うんです。それはなぜだと思いますか?」
中野が尋ねつつ、子供たちの顔をグルッと見回す。
「この仕事じゃないと出会えなかったキャラたちがいたからです。声優じゃないと、命を吹き込めなかったキャラたちがいたからなんです」
そして、中野が迷いのない声で述べると、子供たちの視線がふたたびあがっていった。
と同時に、中野の笑顔に目を奪われる。そのキャラたちのことを考えると自然と笑みがこぼれてしまう……という感じの笑顔だったからだ。
「もちろん、キャラに声をあてるうえで監督さんとか制作サイドのディレクションはあります。けど、自分なりに色を付け足す余白がないキャラはいないし、だからこそ一生懸命キャラの気持ちを考えて、いい芝居をしようとする……私はその作業がこのうえなく好きだし、楽しいと思っています。でも、そうやって自分が楽しんでいるからこそ、ファンの皆さんも楽しめるのかなって」
そして、中野はふーっと息を吸い込むと、慈愛に富んだ笑顔で、こう締めくくった。
「だから今日の授業では皆さんに『楽しい』と思ってもらいたかったし、この先声優を目指しても、その気持ちを持ち続けてほしいと思います。本日の講義は以上です。ありがとうございました」
中野が深々と頭を下げると、数秒間の沈黙が教室を支配する。
そして、割れんばかりの拍手が教室を包み、一部の生徒たちが興奮を抑えきれずに中野のもとに駆け寄った。そして、口々に「俺、絶対声優になる!」「私、ママに頼んで教室通う!」など、中野に自分の夢や目標を宣言し始める。
それを見て、最初は驚き、動揺していた中野も、すぐに優しい表情に戻り、子供たちの言葉を、笑顔でうなずいて聞いていたのだった。