120 幸四郎氏を説得
品川駅から歩いて数分。
雑居ビルの階段を地下にむかって降りていくと、待ち合わせ場所として指定された喫茶店に到着した。
中に入ると、いつも入るサンマルクやタリーズとはまったく違う空間が広がっていた。
客層はサラリーマン中心で、無駄話を何時間も繰り広げている女子大生たちや、ノマドワーカー、暇つぶしにiPadで動画を観ている高齢者などの姿はない。店内一面に敷かれた趣味の悪い模様の赤い絨毯と、そこに染みついたタバコのニオイが、俺のような制服姿の高校生男子の来訪を歓迎していないように思えた。
だが、今日は逃げるワケにはいかない。
俺は店員に名前を告げると、店の奥へと案内してもらう。顔をしかめソファーに座っていた男性は、俺を認識するとさらに眉間のシワを深くして、コクンとうなずいた。
「お疲れ様です。お忙しいところ、すみません」
「なぜ謝る。私が誘いに乗ったんだ。謝る必要はない」
「あ、はい」
「それに今君は『お忙しいところ』と言ったが、私は生憎今日は比較的暇だ。なのにどうしてお忙しいと? それに私は全然疲れてないのだが、もしかして疲れている顔をしているのか?」
「あ、いやその……」
幸四郎氏はいつもの調子で、社交辞令にマジレスしてきた。面白くなさそうな表情で冷静に考えると結構面白いことを言っているのだから困る。
ここでなにか付け足しても悪気なく反論されたり、無意識で揚げ足を取られたりすると困るな……と思っていると、ちょうどいいタイミングで店員さんがやって来た。
間の良さに感謝しつつ、アイスコーヒーを無難に頼み、ふたたび幸四郎氏に向き合う。
「今日、お誘いしたのは他でもありません。高寺のことです」
「高寺? 一応言っておくが、私もこうで……」
「あ、いえ娘さん、円さんのことです」
そこから説明しないといけないのか……と若干頭が痛くなるが、この人に悪気はないのだ。悪気なく、マジレスしたり、揚げ足をとったり、パワハラしてくるだけなんだ。そういうことがないよう、ややこしい表現とか、ややこしくなくても誤解の余地を残した表現は今日は一切やめよう、と俺は胸に誓う。
「単刀直入に言います。どうして幸四郎さんは、円さんが声優として頑張るのに反対なんでしょうか?」
「理由なんて簡単だ。芸能界が浮ついた世界だからだ。それに役者なんて不安定な仕事、ダメに決まってる」
「役者……」
「なんだ声優だって役者だろ?」
「あ、いえそうなんですけど」
俺は幸四郎氏の言葉に、なぜだか違和感を覚えた。もちろん、声優が役者の仕事の一部はそうなのだけど、なんていうか素人の捉え方と違うような気がしたのだ。最近は声優が声優として成立しすぎているせいで、役者がする演技のうち、声にフォーカスしたものだという事実をスルーしがちというか。
だが、そこを話しても仕方がないので、元に戻す。
「不安定、ですか」
「ああ。私はもともと秘書として働いていて、そのあと政治家になって今年で20年になる。政治家は公務員だ。安定の尊さは身に染みている」
「でも、政治家って選挙で選ばれますよね? 安定はしてないのでは」
「君はうちの元妻のことはどれだけ聞いている?」
「そう言えばほとんど聞いてないような……でもなんとなく、すごく大きな会社の社長さんなのかなって」
「残念ながら、その推測は正しい」
「正しいんですね」
「私より年収一桁多いんだ……それで悔しいのだが離婚した今も深い関係性があってな。栄実の会社の票に支えられているんだよ」
なるほど、大人の事情が複雑に絡んでいるらしい。どこの世界も同じなんだな。
いずれにせよ、見た目だけでなく幸四郎氏は想像以上にお堅いキャリアの持ち主らしい。だからこそ、芸能界や声優業界に対する偏見は強いようだった。
「なのに、円がノリで受けたオーディションで、あの美祐子とか言うふざけた女が……」
「あー、まあたしかにあの人は色々とふざけてますけど、でも真剣ではあると思いますよ?」
「真剣?」
「はい。テキトーな人ですけど、誠実ではあるので」
「誠実? 円と会ってすぐに、『この子はスターの原石です』『磨けば必ず光ります』とか言う芸能関係者が??」
「あー、そういうふうに言ったんですか……」
俺はなんだかんだで美祐子氏のことを信頼しているほうだが、たしかにそんなふうに言われると、普通の親だと不安になるだけだろう。
「芋娘に、何を言ってるんだこの人は、と思ったよ」
「え、そうなんですか?」
「今はさておき、あの頃の円はソフト部で、日焼けで真っ黒けだったからな。君は見たことないのか?」
「LINEのプロフィール写真ならあります」
「なるほどな。あれはかなり色白な部類だ」
そこそこ健康的に日焼けしている印象だったが、なるほどそうらしい。
「ちなみに、そのときの写真って、見せてもらえたりします?」
すると、幸四郎氏の眉間のシワが深くなる。
「あぁ? 見たいのか?」
「はい。えっと、ダメな感じですか?」
「いや、いいぞ」
「いいんですか」
眉間のシワが怒りの前兆かと思いきや、まったくそんなこともないらしい。
幸四郎氏はスマホを取り出すと、当時の写真を見せてくる。そこにはソフトボールのユニフォームを着た高寺の姿があった。
なるほど、たしかに日焼けして今よりずいぶん黒いが、しかしそれでも顔立ちは整っており、あどけない笑顔が輝いている。色が白くなり、さらにメイクをすれば、化けそうな感じがしないでもない。
とはいえ、いずれにせよ美祐子氏がオーディションで目をつけ、一本釣りしたのは間違いないと言える。
「でも、妻はそれを聞いて、その気になってしまってな」
「あらまあ……」
「妻は生まれつきの経営者なんだ。とにかく新しい挑戦が大好きで現状維持は衰退だと思っている。刺激がないと死んでしまうような人間なんだ」
「それはまた幸四郎さんと全然違いますね」
「そう、全然違うんだ。でも、実際のところ役者なんて3Kだろう」
「3K?」
「食えない、汚い、金になんないってことだ。努力すれば報われるワケでもない。べつに金を稼ぐことが偉いとは言ってないぞ? 役者でも俳優でも声優でも、結局、金を稼げるのは人気者だからな。人気ってのは金に替えられるんだ」
「なるほど」
「この話を聞いて、君は円が人気者になれると思うか?」
「いや、そんなこと俺に聞かれても……少なくとも、クラスでは結構人気者って感じですけど」
とくに、中野と比較した場合は。
「だから私は反対なんだよ、役者なんて仕事につくのは」
正直、不安定さを理由に反対されたら、なにも言い返せないと思った。
たしかに声優は不安定な仕事だろう。個人事業主だし、人気者になってお金持ちになれる人もごく一部だし、人気が出たとしてもいつまで続くかわからない。退職金だってない。親として、我が子を思うあまり心配になる気持ちもわかる。
だけど。
俺としては、彼女の努力を見ずに頭ごなしに否定するのは、どうしても受け入れがたかった。
俺自身がクリエイティブな世界に関わっている人に少なからず尊敬を抱いており、ゆえにどうしても甘くなってしまう、という面もあるのだろうが……それを踏まえたとしても、努力を見ずに否定するのは失礼だと思ったのだ。
そして、高寺の台本が頭のなかに浮かんできた。たくさんの書き込みが施された、努力と彼女ならではの工夫の跡がうかがえる台本のことを。
正直な話。
俺の個人的な考えを言えば、努力が必ず実を結ぶとは思っていない。なんの結果も残せない人だっているだろうし、結んだところでマズくて食えない実になることもあるだろう。 でも、そうだとしても、努力は単体で評価されるべきだと思うのだ。結果とかお金になるとか、そういうことは抜きにして。
実際、高寺の台本は、俺にそう思わせるほど、尊いものだった。
そんなふうに思うと……俺は、思わず口を開いていた。
「あの、ご存じかわかりませんが……高寺、最近すごく頑張ってるんです」
「……そうなのか」
「はい。一生懸命練習してるみたいですし、オーディション受けたり、あとは今度声優講座に出たりとか」
「講座? 円が?」
「はい。小学生向けの体験講座です。主役は別の子で、高寺はアシスタントなんですけど、でも本人たちはすごく真剣で、今準備とかしてるみたいで」
幸四郎氏は眉間の深さこそ変わらないものの、その瞳に少なくない興味を宿し、俺に向けてくる。
もしかすると、高寺があまり連絡を取っていないせいで、そういう細かい部分は知らないのかもしれない……。
そんなふうに感じたからこそ。
正直、差し出がましい提案かなとも思ったのだが。
俺は思いきって、その一言を発した。
「あの、見に来ませんか、その講座。きっと、あいつの本気が伝わると思います」
俺が放ったその提案に対し、幸四郎氏は今までで一番眉間のシワを深くしたのち、静かに、深くうなずいたのだった。