116 進学すべきか1
週明け。
いつものように登校していると、中野の後ろ姿が見えた。
これまでは後ろ姿だけじゃ自信が持てず、素知らぬ顔で近づき、横に並んでからチラッと横目で見て本人だと確認し、そこで初めて認識した顔で「おう」って感じで接するのだが、なぜか今日は「あ、中野だ」と20メートル離れたところでわかったのだ。
一見、特徴のない黒髪ロングなのに。
これは進化なのか、それとも純粋に気持ち悪くなっただけなのか。
判決がくだされぬまま、俺は中野の横にたどり着く。
「今日は山川の世界史一問一答か。なかなか賢明なチョイスだな」
今日も今日とて独り言を演じてそう述べると、数秒遅れて意識の海から戻ってきた。
ということで、今日も互いに独り言を装った会話が始まる。俺が手に持っているのはラノベだ。
「あらおはよう」
「今日は朝から来れたんだな」
「途中で抜けるけどね。ちょうど今、オーディションラッシュなの」
「オーディションラッシュ」
「アニメって3ヶ月にごとに改編期で、それに合わせてオーディションが増える時期があるの。毎日何個か受けたりしてね。肉体的にもだけど、どちらかと言えば精神的に疲れる期間よね」
「なるほどな。までも、自分が必要かどうか判断されるワケだもんな……」
「そうね」
「わかんないけど就活みたいな感じ?」
「私もそうだと思っていたのだけど、会社員経験のある先輩が言うには『アニメのオーディションに落ちるほうがずっと心にしんどいよ~』だそうよ」
中野が器用に声を変えながらそう述べる。
「その心は」
「就活生の『御社が第一志望です』はほとんどウソだけど、声優の『どうしてもこの役がやりたい』は結構ホントだからって」
就活生に失礼な気がするのはさておき、役を欲する気持ちはなんとなくわかる。だって憧れてたり、好きだったコンテンツに関われたりするかもしれないチャンスが来るワケだから。
「それに、オーディションにどれだけ受かるかで向こう3ヶ月の収入がなんとなくわかってくる、というのもあるかしら」
「また金の話を……」
「若宮くんにはランク制ってもう話したかしら?」
「聞いたきがする。新人声優が1話1万5000円で、それ以降はキャリア・実績に応じて3万とか4.5万とかって話じゃなかったっけ」
「そう、その通り。今のアニメはイベントとかニコ生とかをやることが多いからその出演料もあるのだけど、メインキャストに入らない限りはそこの席が回ってこないのよね。だから毎日が戦い。今はスタジオ不足で土日にオーディションが入ることもあるし」
「休む暇ねえなそれ」
「働き方改革が叫ばれてるけど、忙しくて死にそうなほうが暇で死にそうより全然いいって話ね」
そんなふうに語る中野だったが、あくまで涼しい表情だった。
顔色は良く、肌は艶やかで目の下にはクマがない。疲れとか不健康とか、そういう単語とは正反対に思える。
「それであの日は急に帰ったんだな」
「そうそう。急ぐ必要はなかったんだけど、嬉しくなって事務所に台本を取りに行こうと思って……そうだ、あの日はごめんなさいね」
「あ、いや、べつに謝ってもらおうと思ったワケじゃ」
「あの日どうだった? とくに変わったことはなかったかしら?」
「ああ、うん、まあそうだな。ふたりでちょっとだけ勉強したよ」
勉強、というより、社会勉強なのだが。
しかも、高寺を中心にした話なだけにややこしい。現状、彼女の両親が離婚していることは中野も知っているが、しかし、だとしてもあの日見聞きしたことを話していいワケにはならない……。
そんなふうに脳内でアレコレ考える俺だが、中野は特別不審に思わなかったのか。
「そう。ならいいんだけど」
あっさりそう言うと、ちょうど信号が青に変わった。普段は他人っぽく見える距離感を維持しながら並んで歩き始める。
「そうだ、声優講座の助っ人の件なんだけど」
「上荻くんよね?」
「そう。昨日偶然会ってさ」
「え、若宮くんが……?」
そこで中野がチラッとこちらを見る。独り言を装って、わざわざ少し離れて話しているので危険な行為だ。
俺が空咳をすると、たしなめられていると察したのか、中野は手元に視線を戻した。
「近くに住んでるってのは聞いていたけど、すごい偶然ね……赤い糸で結ばれてるの?」
「なんでそうなるんだよ。やたらと男と引っ付けようとするな?」
「そんなことより、声優講座の件はどうかしら? 受けてくれそう?」
「ああ」
俺がうなずくと、中野はホッとしたように小さく息を吐く。
「良かったわ。上荻くん、正直あまり話したことがないのだけど、気を遣えるタイプって聞いてるし、年も近いから適任かなって。7年くらい後輩なんだけどね」
「あ、そっか陽向さんのほうが後輩なのか」
「これでも芸歴は12年、声優歴だけでも10年だからそもそも後輩が多いし、それに辞めてった先輩も多かったしね」
「さりげなくブラックな話を入れてくるんだな」
「仕方ないわ。年齢を重ねるにつれ現実を見ざるを得ないのは当然のことだし、声優業界じゃない友人が就職、結婚、出産といろいろ積み重ねていくからね。声優として成功している先輩方だってそこは悩むところだし」
さりげなく苦言を呈したつもりだったが、通じていない様子で、中野は声優業界の現実を淡々と述べる。
「その点、上荻くんはなかなか根性あるって評判なのよね」
「あ、そうなんだ」
「高校の頃にうちの事務所の養成所に入って、バスで片道2時間かけて通ってたらしいし。それを考えると、大学に通いながら仕事するほうがまだ楽なのかもね……」
「そっか大学のほうが……」
と、そこでふたりの間に意味深な間が生まれる。
中野の横顔からわかる。大学進学についてすれ違いがあったことを思い出している。
外部模試の結果が返ってきた日、俺は中野から大学に進学する意思がないことを聞いた。そして、情けなくもうろたえてしまった。高寺の家ではほとんど会話をしていないので、あの日のことは話していないままだった。
「若宮くん、この前はごめんなさいね。本当は高寺さんの家でこの話するつもりだったのだけど」
中野も同じだったらしい。少し安心しつつ、言葉を絞り出す。
「いや、なんていうか俺のほうこそ……中野が大学に行くって勝手に思ってたの俺だし」
「でも、気を持たせるような言い方をしたのは事実だわ……でも、これでも大学進学については1年生のときから自分なりに考えてきてたの」
「そっか……まあ、その辺は家庭の事情とかあるし、他人の俺が口出すことじゃないし」
そんなふうに言いつつも。
俺の心のなかにはモヤモヤした気持ちが残っていた。なぜなら、中野の表情が明らかに曇っていたからだ。もしきちんと自分のなかで結論を出していたら、こんな煮え切らない表情をしていないのではないか……。
「あのさ」
そう考えた結果、気付けばこんな言葉を放っていた。
「もし良かったら、オープンキャンパス、一緒に見て回らないか?」
「えっ……」
中野がふたたび俺のほうを見る。さっきは空咳でたしなめたが、今の俺にはそんな余裕はなかった。
「じつは陽向さんが俺の好き……結構読んでる小説家のゼミで、話聞かせてくれるらしくて。べつに考え直してほしいとかじゃなくて、行かないにせよ、実際にいろいろ話を聞いてから決めたほうが後悔もないかなって」
「後悔……」
「不安ってさ、熱みたいなところあると思ってて」
どういうこと、という目で中野が見てくる。
「熱ってさ、自分でなんとなくあるかはわかっても、どの程度高熱かって意外とわからないだろ? 手でおでこ触ってもそもそも自分の手が熱いから。不安もそれに近いとこあるなって思ってて、今自分が不安を抱えてることがわかってても、その大きさは測れない」
「だから、物差しになる、誰かの手が必要なんじゃないか。そういうことね」
「うん、そういうこと」
「……まあ、そういう面はたしかにあるかもね」
つぶやくように中野が言う。
実際、大学に行く理由を真面目に考え始めると、とても難しいと思う。
就職のためにただ学歴を欲しいという人もいるだろうし、そういう姿勢を否定するつもりもサラサラないが、この先4年間は決して短いものではない。大学に行ったことで拓ける世界があれば、行かなかったことで拓ける世界もあるはずだから。不安が消えない選択肢など存在しないのだ。
でも、俺としては。
中野に告げたように、大学というのがどんな場所か知ったうえで決断をくだすのは、決して悪いことではないと思うのだ。
「わかった……じゃあ、一緒に回りましょう」
そして、中野は小さくつぶやく。不安をその美しく、澄んだ声に含んだままで。
「ああ、よろしくな」
そんな言葉を投げかけた頃には、校門は間近に迫っていて、俺たちはどちらともなく歩くスピードを変更。少しずつ距離を開けていき、タイミングをずらして校門をくぐっていった。