114 上荻陽向と哲学堂依比古1
それから数日後。
いつものように読書しながら学校から駅への道を歩いている(良い子はマネしないようにとか言われそうだが、俺はむしろこういう時間を有効活用し、知見を深めているのだから褒めてくれてもいいくらいだと思っている)と、道路ではない感触が足の裏を刺激した。
「ん……?」
立ち止まり、振り返ると、そこに落ちていたのは定期入れだった。俺の靴の痕が無視して進ませること許さず……結果、拾って中を見てみると、貴重品は入っておらず、身分を証明するものなどはなかった。PASMOを見るとそこには、
『カミオギヒナタ』
との文字があった。このPASMOの持ち主の名前だろう……とそこで、俺はどこかで聞いたことのある名字だと気付く。
(ん、ヒナタ……? いや、でもさすがに偶然だよな?)
言うまでもない、高寺が数日前に、声優講座を手伝ってもらう先輩声優として挙げていた名前だった。とりたてて珍しい名前でもないが、かと言ってたくさんいる名前でもないし、それに近くに住んでいるとも言っていたので、まさかの偶然を疑ってしまう。
拾ったのが駅近くだったので、届けようと駅員のもとを訪れることにした……のだが、近づくと、中から言い争うような声が聞こえていた。
「だから、ほんとこの近くで落としたんですって!」
「でも届いてないものは届いてないとしか……」
「今日チャージしたばかりで……」
駅員のおじさんに大きな声で接しているのは若い男性だった。
ぱっちりとした大きな目に、通った形の良い鼻。山なりの眉からは優しい雰囲気が出ており、顔は卵ように小さい。また、髪は暗めの茶髪で、マッシュっぽい品のいいスタイル。身長は俺と同じくらいだが、女子かと見間違うほどに細身だ。一言でまとめるなら、かわいい系のイケメン、と言ったところだろうか。
そしてなにより、その声が特徴的だった。声変わりを経ているとは思えない声質で、少年のよう。爽やかで良く通るのだが、不思議と耳馴染みが良い。
あ、もう絶対この人だ。高寺の言ってた人。どう考えても声優さんでしょ。声でわかるよなんかもう。
「あれがないと自分、ダメなんです。仕事にも行けない……」
「だからそれは私には関係のないことで」
「あの!」
ふたりが全然こちらに気付いてくれないので、少し大きめの声を出す。視線がこちらに向いたのち、俺は定期入れを見せる。
「これ、さっきそこで拾ったんですけど」
「あ、それです自分のです! ありがとうございます!!」
すると、若い男性が急いで俺から定期入れを奪う。
「良かったじゃないですか。無事に見つかって」
「いやまだ無事かは……ちょ、ちょ、ちょっと待っててください!」
「へ?」
俺の肩を両手でがしっと掴み、そう繰り返したあと、彼は駅員の制止を振り切って駅員室を出て行った。残された俺は、駅員のおじさんを見る。
「どうしたんでしょう?」
「残高を確認しに行ったのかと。券売機でできるんですよ。なんでも、結構なお金を入金したばかりだそうで」
「ああ」
「ま、この駅員室でもできるんですけどね」
「へー、そうなんですね」
そんな話をしていると、程なくしてその男性が戻ってきた。肩がなで肩の限界を突破する勢いで落ちており、すっかりうなだれている。
「ダメでした……」
そして、机のうえに数枚、大きな切符のようなモノが撒かれた。
見ると、それは履歴が印字されたもので、4枚は「入場 溝の口」「退場 赤坂」などと書いてあるのだが、最後の1枚は「物販」の文字が並んでいた。金額もこちらのほうが1~2桁大きい。うん、赤坂だからやっぱこの人だよな。
「拾った人、使ったみたいですね」
「物販ってどこかわからないんですか? コンビニとかドラッグストアとか。それがわかれば聞き込みして、犯人を捜せるかも」
「あ、それはわかりませんね。なにかを購入したときは全部『物販』なんです」
「そんな……」
彼は明らかに憔悴した雰囲気で、押せば倒れそうな感じだった。
が、俺がこの場にいることを久しぶりに思い出したようで、ゾンビのような歩き方でこちらに近づいてくる。
「あの、どこで拾いましたか?」
「え、そこの階段の下のところですけど……」
「拾ったとき、近くに誰かいませんでした? その、このPASMO勝手に使ってそうな怪しい人」
「わかんないですね」
「そっか。でもそうですよね……はあ、マジか。一ヶ月分の交通費2万円が」
そう言うと、彼は机に突っ伏す。今にも泣きそうな落ち込みぶりだった。
駅員さんはもはや相手をするのが疲れたようで、
「えーと、あの書類は……」
とか言いつつ、奥へと消えて行った。
というワケで、俺が彼の相手をすることになった。背中越しに声が聞こえてくる。
「ネット記事で『1000円ずつチャージするのは時間のムダ。運気も失う』って書いてあって。たしかにスタジオに……えっと、仕事に遅れそうで急いでるときにチャージって時間の無駄だし心臓に悪いし。って思って、1ヶ月分入金したんですよ」
「あー、スタジオへの移動ですか」
「そうなんです。でも自分、財布にも1万円以下しか入れない人間だから不安で何回も何回もポケット確認して、でそのせいで落としちゃったみたいで……」
「ありがちなミスですね」
「お金、2万円もなにに使ったんだろう……コンビニでどうでもいいお酒とかスナック菓子とか買ったんですかね。なんでそんなことができるのかな。普通、心が痛くなると思うんだけどな……」
そう語る彼は、本当に傷ついているようだった。お金を失ったのも当然ショックだったんだろうが、なんて言うかそれ以上に、勝手に使って捨てた人がいるということに悲しみを覚えている感じだ。繊細な人なんだろうか。
なので俺はこんなふうに返す。
「ならないんですよ、心が空虚な人は。悪意があるから悪さをするんじゃなく、心が空虚だから悪さするというか。人のビニール傘パクってく人は、傘の持ち主を傷つけようとか思ってないじゃないですか」
「たしかに。相手のこととか1ミリも頭に浮かんでないでしょうね」
「きっとそういう感じでお金使ったんだと思います」
「はあ、マジか……あーあ、今月金欠なのにな。これで飲みとか先輩からの誘い断らないといけなくなった……」
「金欠なのに飲みに行くお金はあるんですね」
「それも仕事のうちなんですよ。自分、芸能関係の仕事してて」
「あ、ですよね」
「えっ?」
彼は驚いた目で俺を見る。
「あの、声優さんじゃないですか? カミオギヒナタさん……ですよね?」
「はい……」
俺がそう付け加えると、彼は驚いた表情を浮かべた。
「アイアムプロモーションの。えっと、たしか事務所に入って3年目」
「え、なんでそこまで詳し……」
そこまで言うと、彼は後ずさりし、両腕で顔を隠そうとする。
「いやいやそんなはずはない……たまたまラジオで少し絡んだ女性声優さんのオタク……でももしそうなら入所3年目ってのは……いやでも……ついに僕にも男性ファンが……女の子に声かけられることはたまにあるけど、ついに男の子まで……」
黙って聞いていたが、どうやら勘違いされてしまったらしい。
でも、そう思われても無理ない絡み方だった。なので早急に訂正することにする。
「あの、違うんです。俺、ファンとかじゃなくて」
「へ?」
「高寺円ってわかります?」
「あ、わかるわかる。え、高寺ちゃん?」
「自分、あの子の友達で、今度やる声優講座で助っ人を頼んだって聞いてて」
「あ、頼まれた。鷺ノ宮さんとはまだ話してないけど、ぜひぜひって話で……え、ってことはファンじゃなくて、後輩の友達!?」
「はい」
告げると、ヒナタさんは一気に力が抜けたように、へなへなへなと机に突っ伏した。
「ついに自分にも同性のファンができたと思ったら友人の友人コース……まあでも普通そうだよなあ……一瞬でも期待した自分が恥ずかしい……」
「あの」
「でも悲しい、悲しすぎる……2万円落としたのと同じくらいショックだ……」
「いやなんか、すいません……」
「いや、君は悪くないんだけどさ。けどさ……」
その後、駅員のおじさんが戻ってきても、ヒナタさんは元気を取り戻さなかった。
繊細な人なんだろうか、という俺の予想はどうやら当たっていたらしい。